第116話 西風を吹かせましょう
もう一つ、薔薇子が失ったものを言葉にしなかったのは、いや出来なかったのは『高松の弱さ』故である。彼女の右足には、六年前にあったものが存在しない。右足そのものだ。
ついでにいえば、薔薇子の利き足は元々、右。立ち上がる際、右足から体重をかけるし、歩き出すのも右からだ。
何もかもを失った、といえど生きている。それでも『何もかも』だった。彼女にとっては。
高松は異常な喉の渇きに辛さを覚えながらも、それは走ってきたからである、と理由をつけて聞き返す。
「復讐、ですか?」
「高松くん、キミは『物語』を嗜まないのかい? 悲劇の後に訪れるのは、復讐劇さ。そうして世界は廻っている。右の頬を打たれたら、人は右の頬を打ち返すのさ。悲しみを乗り越えるための怒り、怒りを乗り越えるための悲しみ。その繰り返しの中、人生を風に任し、幸せという着地点に辿り着く風船が一体どれほどあるだろうね」
薔薇子は誰から見ても恵まれていただろう。有名な小説家である父、裕福な家庭、恵まれた容姿、それ以上に優れた頭脳。順風満帆な、西風が吹いていたといってもいい。しかし、風はいつ変わるかわからない。
焔が熱を生み出し、空気を押し上げ、風になる。そうして彼女の人生は大きく変わった。
頭の中でカラフルな風船をイメージすることで、高松はなんとか『復讐』という重い言葉から視線を逸らす。だが、『復讐』の重みと薔薇子の言葉は止まらなかった。
「私の父が『犯罪』に巻き込まれ、『殺された』以上、犯人がいる。例えば、私の手で犯人を探し出し、その喉笛に包丁でも突き立てれば、溜飲も多少は・・・・・・いや、それでも食道の荒れは治らないだろうが、『了』の字を打つことができただろうね。けれど、そうはならなかった。阿部市警察はすぐさま、『放火犯』を逮捕したのさ」
「事件が解決した。それは知ってます。俺がわからないのは、解決した事件に執着し続ける理由・・・・・・」
高松はそう言いかけて、一時停止された映像のように固まる。
当然だ。
自分の家を燃やされ、父と右足を失った。解決していても、犯人が捕まっていても執着するに決まっている。それが薔薇子であっても、だ。
彼女は王隠堂 薔薇子。美しく、強く、聡く、逞しい。それでも人間である。呼吸をしなければ死ぬし、頬を打てば痛む。痛みはある。
なんて残酷な言葉を吐こうとしたのか、と停止する高松に対し、薔薇子は微笑んだ。
「キミは正しいよ、高松くん。私は『終わった事件』に執着しない。それはたとえ『六年前』の事件でも、だ。キミの中で、私という人間に対する理解と、人間への理解への齟齬があるようだね。だが、いつだって見るべきは目の前のことだよ。キミが理解している私が『王隠堂 薔薇子』でいい。それでいい」
薔薇子にそう言われた高松は、先ほど飲み込んだ言葉を溜飲を吐くように出す。
「・・・・・・薔薇子さんは、解決した事件に執着しない。でも、『六年前』には執着していますよね。そこから自分の身に起きた事件である、という理由を抜くなら・・・・・・」
「落ち着きたまえよ、高松くん。何度だって教えてあげよう。性急な男はモテないぜ。話は順に、だよ。七並べで六の後に八を出す馬鹿はいまい。六年前、私は復讐を失った。それで全てが終わったと思っていたのさ。だが、それも一つの終着。焔の次の記憶は、病室で『無い右足』の痛みに耐えながら、警察官から聴取を受けているところだった」
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