第87話 王隠堂 薔薇子の相棒

 だが、もう遅い。

 高松の右足は既に沼の中だ。それも自ら進んで、沼に浸る道を選んだ。

 自身の正義感と、抗いきれぬ好奇心に身を委ねて。

 

「高松くん」


 薔薇子が言葉を続ける。


「キミを待っていたら喉が渇いた。女性を待たせたのだから、珈琲の一杯くらいご馳走してあげようとは思わないのかい?」

「待ち合わせていたわけじゃないでしょ。俺は薔薇子さんがいることも知らなかったんですから」

「人との出会いは常に突然だよ、高松くん。宇宙が生まれたことも、人類が誕生したことも、殺意が芽生えることも、愛が生まれることも、いつだってそれは突然なのさ。けれど、キミは私を『待たせた』という事実に変わりはない。この間は結局、カフェ『グラシオソ』を堪能できなかったしね」


 大仰な言い方をする薔薇子に小さな違和感を抱きつつ、高松は苦笑した。


「堪能していたじゃないですか。カフェ『グラシオソ』を」

「随分と短絡的だな、キミは。事件さえ起きれば、私が満足すると思っているのかい? この王隠堂 薔薇子さんが。あんなもの謎とすら呼ばないよ。言うなれば、そうだな。痴情のもつれ。ただそれを、解き明かしただけさ。私の脳も、私の舌も満足するものを得ていない。差し当たって、今日は舌を満足させようじゃないか。もちろん、高松くんの奢りで」


 王隠堂 薔薇子はそう言いながら、青に変わった歩行者信号へと足を向ける。左足に重心を預けるような歩き方はいつも通りだ。

 高松はそんな彼女の背中を追う。


「ちょっと、待ってくださいよ、薔薇子さん」

「ほらほら、遅いぞ高松くん。いつだって、大切なのはタイミングだ。急がなければ、信号が赤になる。何事もそうだろう?」


 時々、彼女は主語を大きくする。何かの代表であるかのように、専門家であるかのように語る。その言葉は魔法のように人の心に火をつけるのだ。

 言葉の魔術師。そう呼ぶのに相応しい。そんなことを考えながら高松は盛大に吹き出してしまった。


「やっぱり、薔薇子さんは薔薇子さんですよね。最初からそうだ」

「何を言っているんだい? 私は私だよ。王隠堂 薔薇子だ」

「産声も刺々しかったんでしょうか?」

「キミは何度も頓狂なことを言うんだな。生まれた時の言葉なんて決まっているだろう。『おぎゃあ』さ」


 似合わない薔薇子からの物真似、それも赤ん坊の物真似に、高松の腹部は耐えきれなくなった。


「はっはっは、何言ってるんですか」

「ふむ、なぜ笑う? 私は事実を言っただけだが」

「そうですよね。薔薇子さんが吐く言葉は全て事実。そして真実、ですもんね」

「理解者ぶられるのも、腑に落ちないけれど、キミにはそうあってもらわなければ困る。王隠堂 薔薇子の相棒として、ね」

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