第61話 矢野の不運と幸運

 あえて説明するのであれば、この判断は正しい。薔薇子に不満を言ったところで、大多数の人間は言い負かされるだけだ。それも、一言二言無駄な言葉が添えられてくる。余計にストレスを抱えてしまうだろう。

 矢野に怒鳴られた菊川警部は、有り体にいうと板挟みだ。事件に遭遇した一市民である矢野の気持ちはわかる。事情により、菊川警部は人一倍、薔薇子に対する苛立ちの感情を理解できる。

 ただでさえ、殺人事件に遭遇するという不運を受けたばかりなのに、薔薇子に対して疑問を呈してしまった。本日、二度目の不運である。

 物語の本筋に全く関係のない話ではあるが、矢野は本日分の不運をここで消費し切る。家に帰ると、数日前に逃げ出してしまった飼い猫が帰ってきているし、昨日、同僚と遊び半分で買った競馬が的中していることがわかる。それでも、二つの不運の方が印象強く、布団に入ってから『大変な日だった』と思い出すのだった。

 ちなみに逃げ出した矢野の飼い猫を見つけたのは、アルバイト前の高松である。ありきたりな話ではあるが、木から降りられなくなっていた矢野の猫を高松が発見し、わざわざ木に登って救出した。アルバイトまで時間がなかった為、近くにいた主婦らしき女性に、猫を任せたのである。

 話はどんどんと逸れるが、その主婦らしき女性は、矢野の近所に住んでいた。猫の首輪に描かれていた住所を見て、主婦は矢野の飼い猫であると気づく。現在は、自分の家で保護しつつ、矢野の帰りを待っていた。

 もちろん矢野はそんなこと知らないし、知らないからこそ、高松の父である菊川警部に怒鳴っている。

 さて、話を戻そう。矢野の怒鳴り声の反対側から菊川警部を挟んでいるのは、薔薇子の存在だ。手段を選ばずに事件を『最短』で解決する、と考えれば、薔薇子に喋らせるべき。菊川はそう思っていた。

 事件を解決する。その一点において、菊川警部は薔薇子に絶大な信頼を置いている。

 つまり、彼がすべきは『矢野の怒りを鎮め、薔薇子の自由な発言を進める』こと。


「矢野さん、落ち着いてください。警察は元々『殺人である』ことも視野に入れて捜査をしていますし、場合によっては現場に居合わせた方々に、どう考えるのか聞くこともあります。どうしても警察は、事後にしか現場に来れませんからね。あくまでも、彼女が『殺人事件である』と考えているって話です。もちろん、無礼な口ぶりが許される訳ではないですし、それについては彼女に喋らせた我々の落ち度です。申し訳ありません。ですが、これも捜査のためと思って、もう少し聞いていただけませんか」


 謙り、何とか矢野の気持ちを落ち着かせた菊川警部は、目線で薔薇子に話し始めるよう指示を出す。

 だが、薔薇子としては、納得いかない点がいくつかあった。自分の発言を『可能性』扱いされるのは、腑に落ちない。

 そんな彼女の隣にいた高松は、その空気を察し、慌てて口を開く。


「え、えっと、じゃあ、大塚さんはこのカフェに来るより前に、毒を飲まされたんですよね?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る