第136話 二人

「トーン……」


「ラネット……」


 高低差2メートルほどの距離で、身動きせず顔を見合わせるラネットとトーン。

 二人の表情は、喜ぶか、笑うか、驚くか、泣くかを迷って、ふるふると小刻みに全パーツが震えている。

 見つめ合って十数秒経ったところで、あとからやってきたメグリが、膝をついて聴音壕を覗きこんでいるラネットを、ひょいと小わきに抱えた。


「あー……。とっとと中に入る。見つかっちゃうでしょ?」


「わっ!」


 メグリがラネットを抱えたまま、壕内へジャンプ。

 膝を曲げた姿勢で、両足を揃えて着地。

 二の腕のたるんだ肉が、ぷるんと震える。

 メグリは膝を曲げたまま、トーンと同じ目の高さで、長い前髪に隠れたトーンの瞳を見つめながら自己紹介。


「はじめまして、トーン。わたしはメグリ・ホシガヤ。ラネットの師匠で、アリスとシーの友人よ。あなたと仲良くなれれば『異能』コンプだから、よろしくね?」


「……………………」


 笑顔でウインクをするメグリだが、トーンは「見知らぬ大人を紹介された幼児」さながら、警戒心と無関心が半々……といった様子でメグリを一瞥。

 すぐに、その小わきに抱えられているラネットへと目を向けた。

 メグリも「やむなし」と言った様相で苦笑。


「あー……。ま、あとは若い者同士で……ってことで。わたしはしばらく、ちょっと肉々しい石と化してるから気にしないで。ここにあるのは石!」


 メグリはラネットを四つん這いの姿勢で下ろすと、壕内の壁に向かって膝を曲げて背中を丸め、両耳を掌で塞いで大きめの石に擬態した。

 われ関せずの意思表示をしたメグリを見たラネットは、膝を曲げた中腰の姿勢で、おずおずとトーンの正面へと歩む。


「あ……えっと……。あらためまして。ボク、ラネット・ジョスター……」


「うん……。よく、知ってる……。その名前、一日も、忘れたことないから……。わたしは、トーン・ジレン……。あらため、まして……」


 トーンが膝を少し上げ、背中と臀部を壁につけ、ラネットと顔の高さを合わせる。

 ラネットは、トーンの長い前髪の隙間からほの見える碧色の瞳を見つめながら、照れがちに会話を進める。


「トーン・ジレン……。それがトーンの、フルネームなんだ……。ボクの命の恩人の名前、ちゃんと知れて……よかった。あ……えっと……。突然、会いにきてゴメン。迷惑じゃ……なかった?」


「ううん……。驚いたけれど……迷惑じゃない。すごく……うれしい……」


「そ、そう……よかった。ボクも、また会えてうれしい。毎日名前呼んでたから、毎日会ってるような気分だったけれど。あははは……」


「……うん、知ってる。ラネットの声……毎日、いつも、聞いてた。約束……守り続けてくれて、あり……がとう……。ぐすっ」


 トーンの声に震えが交ざり、語尾には小さな嗚咽が加わった。

 しかしその表情の機微が読めないラネットは、照れ笑いのまま、話を進行。


「えっ……!? ボクの声、ちゃんと聞こえてたの!? よかったぁ……。これ、ボクの独り善がりかも……って、思っちゃうときもあってさ。ははっ。それにしても、あんな遠くの声をキャッチするなんて、この聴音壕ってすご……」


「独り善がり……なんかじゃないっ!」


 ラネットの声を遮って、トーンが声を荒らげた。

 人づきあいの経験の少なさから、感情のコントロールが不得手なトーンは、気が昂るままに声を上げた。

 それが引き金となって、両眼から大粒の涙が溢れだし、頬を伝って顎で合わさり、前髪の裏側から地へと落ち続ける。


「ラネットの声が……ぐすっ……わたしを、救って……くれた! この、狭い穴の中のわたしを……励まして……慰めてくれたっ! 約束ずっとずっと……続けて……くれてるのが、すっごくうれしかった! 生きがいっ! ラネットの声は……わたしの生きがいっ!」


 思いの丈を一気にまくしたて、はぁはぁと荒い呼吸を始めるトーン。

 その小さな肩はガクガクと上下し、細い脚はプルプルと小刻みに震えている。

 感情の自制が利かない幼児が、嘘偽りのない感情を吐き出すときの挙動。

 孤児院育ちで、多くの年下の子の世話をしてきたラネットには、それが手に取るようにわかる。

 同じ年ごろにして幼女のような振る舞いをするトーンを見て、軍人としての苦しさ、聴音壕内での寂しさ、そして、自分の声がいかに活力を与えてきたかを、ラネットは知る。


「……ボクも、トーンの名前を叫ぶのが、生きがいだったよ。命の恩人の……。そして、初恋の子の名前を呼ぶのが……ね。えへっ……」


「…………っ!」


 優しい微笑を湛えて、ラネットも本心を嘘偽りなく吐露。


(そう……。やっぱりあれは、ボクの初恋だったんだ。女の子同士だから違う……って、否定してきたけど……。トーンに再会して、すなおに認められた。そしてその初恋は……いまも、続いてる)


 ラネットがそっと両腕を伸ばし、優しく、トーンの長い前髪を、左右へと分ける。

 涙の膜で覆われた碧色の丸い瞳、落涙の余波でひくひくと疼く小さな鼻、細かく震える薄桃色の唇、涙で濡れててかる、幼女のように柔らかそうな頬……。

 初対面時の印象そのままに、顔を細くし、顎を尖らせた、少女と大人の狭間の輪郭をしたトーン。

 記憶の中のまま成長し、美しくなった顔を目の当たりにして、思わずラネットは目を細め、顔を近づける。

 

「トーン……きれいになったね。初めて会ったときも、きれいな子だな……って思ったけれど、ずっとずっと、きれいになってる。絵が上手な友達に、想像でいまのトーンの似顔絵、描いてもらったんだけど……。それよりもずっと……きれい、だよ」


「あっ、えっ……。あ、はっ……。くっ……あうっ……はっ…………ひっ……」


 トーンは長年想い続けてきた少女からの愛の告白と賛美を受けて、涙を止め、顔を真っ赤にして照れながら、胸の鼓動でしゃっくりのように言葉を詰まらせた。

 複雑に、大量に湧き上がる感情と言葉を、一つずつ、小分けで吐き出していく。


「ラ、ラネットも……。カッコよく……なってる……」


「え~? カッコいい~? 褒めてもらえるのはうれしいけれど、女の子への褒め言葉としては、ちょっとどうかなぁ?」


「わ、わたし……。ラネットを、初めて見たとき……。男の子だって、思ったから……。別れたあとで、女の子だったって、聞かされた……から」


「……あ、そうだったんだ! 『ラネット』って男にもある名前だし、毎日ボクボク言ってズボン穿いてたから、しょうがないかなー。あははっ!」


「だ、だから……。わたしも、ラネットが、初……恋……。女の子だって、わかってからも……。名前を呼ばれるたびに……。ずっと、ずっと、好きになってきた……」


「えっ……? あ……そう? うれしいなぁ。それじゃあボクたち、好き同士……ってことに、なる……かなぁ……?」


「なる……。かも、しれない……」


「……………………」


「……………………」


 交互に想いを言葉にして、吐き出す二人。

 離れ離れの7年間、二人は恋心を大切に、少しずつ育ててきたが、その想いの大きさと空白期間の長さのギャップが、言葉では埋まらない。

 とりわけラネットは、聴音壕に短時間しかいられないことをわかっているため、沈黙の間に、再会の感動の余韻を楽しむ……とはいかず、焦りを覚える。


(あ、ヤバい……。会話……続かない……。もっともっとトーンと話したいのに、話のネタが……ないよぉ。このままだと、「じゃあこれで」って流れになりそうっ!)


 なにか繋ぎの会話でも……と思案するラネットの脳裏に、ある記憶が蘇る。

 それは武技堂のそばで見た、セリから唇を奪われるルシャの映像。

 壁を背にした赤い顔のルシャが、わずかに抵抗を見せつつも唇を受け入れ、次第に陶酔していくワンシーン。

 同じくトーンもいま、壁を背にして赤い顔をしている。

 これ以上、言葉では想いを伝えられないと悟ったラネットは、腹を決めた。


(ああいうエッチなのじゃなくて、トーンを驚かせないように、軽めの……)


 ラネットはトーンの前髪を左右に開帳したまま、照れくさそうに笑みを浮かべて、狙いを外さないよう瞳を閉じきらずに、顔を寄せていく。

 ラネットの意図を汲んだトーンは、顔をいっそう紅潮させ、口内に溜まっていた甘酸っぱい唾液を飲み下し、顔の全パーツを緊張でカチカチに固めさせた。

 真横に結ばれたトーンの唇へ、ラネットは静かに唇を合わせた。

 思春期の少女の無垢な唇が、ときめきと歓喜に震えながら、その柔らかさと温かさを伝えあった──。

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