第047話 告発
──午前9時50分すぎ。
(……よし! 数学と、暗記系の問題は、なんとか攻略っ!)
試験開始から間もなく1時間。
リムは学問試験の半分ほどを解き終えた。
(あとは文章問題と作図問題。そして「資質」の残り2問……。ううううぅ……ヴァンさんの香水がくさすぎて、集中が途切れ途切れに……)
通路を挟んで隣席の、ヴァン・デレス。
派手に盛り上げた髪を角のように立て、そこへ振った香水から、不快臭を周囲へ漂わせている。
(このにおい……。アゲハチョウの幼虫やカメムシの悪臭と近くて、吐き気を引き起こすし、時間が経っても全然慣れがこないんですよね……。ご自分は……平気なんですかね……?)
不快臭への対策として、リムはなるべく鼻呼吸をせず、口だけで息を吸う。
しかしその所作が集中力を散らし、思考を鈍らせてしまっている。
(鼻の呼吸止めてると頭回らないし、息苦しくて胸が痛いぃ~)
ふとリムは、まだ手をつけていない予備の鉛筆2本に目が向いた。
(……はっ!? 鉛筆を使って、鼻の穴に栓をすれば……)
一瞬名案だと思うリムだが、二つの鼻の穴から鉛筆を伸ばしている自身を想像し、鉛筆へ伸ばしかけていた手を止める。
(さ、さすがにそれは……。でも、試験中はみんな下を向いてるから、見られるリスクは低いし……。うぅ……もう、やるしかない……かも……)
リムは宙で止めていた手を、ゆるゆると2本の鉛筆へと近づけ……掴む。
「一同……待機!」
突如、再び響く、エルゼルの号令。
先ほど同様、堂内のあちこちから、筆記具を机に置く音が鳴る。
(……ええっ!? また不正っ!?)
リムも手にしていた鉛筆を置き、やや前傾姿勢になっていた上半身を起こし、背筋を伸ばす。
その際、視界の左端に、右手を挙手しているステラの姿がほの見えた。
(ステラさんが挙手? 受験者の右手の挙手で、一同待機ということは……。今回は、受験者による不正者の告発!?)
リムは視線を中央へ戻し、やや上向かせる。
(ステラさんが不正者の告発を行うということは、その対象は必然的に、近くの席の受験者……。も、もしかしてわたしっ!? 替え玉受験の企みが……バレたっ!?)
緊張し、上下の唇をふにゃふにゃに歪めながら合わせるリム。
しかし、すぐに思い直す。
(……いやいや待って待って! この学問試験に限っては、替え玉受験してない! 受験票通りのわたしが受けてる。告発されっこない!)
リムは高鳴る心臓をなだめながら、自分は大丈夫だという前提で、なりゆきを見守ることにする。
壇上から飛び降り、長机の間に生じた通路を歩いてきたエルゼルが、リムの右斜め前に立つ。
「……きみか、ステラ・サテラくん。念のために、確認しておくが……。右手の挙手は、不正者の告発。わかっているな?」
ステラが右手の挙手を続けたまま、エルゼルを見据えて返答する。
「……無論」
「では聞こう。その告発の内容を」
ステラが右手をゆっくり下ろしつつ、水平に伸ばす。
「わたしの右……」
「右」という発言に、リムの全身がびくっと大きく震える。
(……ひっ!?)
「……二人目の女が、くさい」
(……えっ?)
「……はぁ?」
リムの心の声と、エルゼルの発声が、重なる。
「故意に悪臭を放って、周囲の受験者に危害を加えている。暴行も同然。ただちに不正行為と断じて、排除していただきたい」
ステラの告発後、十数秒ほど堂内が静寂に包まれる。
特にリムは、息を飲んで告発の行方を注視した。
(ステラさん……言った! くさいって言った! くさい人をくさいと言うのは勇気がいることだし、たとえ事実でも失礼っ! でもステラさん……明言した!)
「くさい」。
その簡潔かつ意外性のある告発内容に、エルゼルもとまどいを隠せない。
「な、なるほど……。確かにわたしも、ここへ来て
エルゼルも、異臭の存在は認めた。
ヴァンがたまらず立ち上がり、自身の正当性を主張。
「な……なにをおっしゃいますか、團長! この香水は確かに癖が強いですが、名のある調香師に、調合してもらった品! くさい云々は価値観の差にすぎず、わたくしに悪意はありません!」
「まあまあ。落ち着きたまえ」
エルゼルはステラを向いたままで、ヴァンに掌を見せてなだめる。
その様子を見てリムは、「あっ、鼻をあっちに向けたくないんだわ」と、軽くおかしさを覚えた。
「……彼女は、ああ言っているが? 彼女が悪意を持って、香水を身に着けているという根拠は示せるのかな? ステラ・サテラくん?」
登城時に恥をかかされたからか、ステラへやや嫌味な物言いをするエルゼル。
ステラとエルゼルの間に挟まれる格好となったリムは、自身の存在を消すかのように息をひそめるが、内心ではステラへ声援を送っている。
(……ステラさん、頑張ってくださいっ! ヴァンさんの悪臭は不正行為……。わたしもその告発を支持します! いざとなったら……援護射撃しますっ! 図書室や廊下でも、ヴァンさんの悪意ある行動を見てますから!)
そのエールを汲み取ったかのようにステラが席を立ち、エルゼルへ冷静に反論を始める。
「あなたは目の前で、人が剣で刺されていても、そのように根拠を求めるのですか? 視覚と嗅覚、たったそれだけの差で?」
「……言わんとすることはわかるが、視覚と嗅覚に、大きな開きがあることも事実。『百聞は一見に
エルゼルも、説得力を持った弁でステラをけん制。
リムには、二人の視線の中間で、火花が散っているようにも見えた。
しかしステラ側に熱はなく、むしろ冷めていく気配を伺わせる。
「……要職に就きながら、悲しいほどに凡人。戦姫ステラに、あなたは遠く及ばない。あらためてわかりました」
ステラが瞼を重そうに少し下げ、蔑みと憐みの視線をエルゼルへ向ける。
エルゼルは、生まれて一度も向けられたことがなかったその表情を、困惑しながら受け止める。
「……は?」
「『鼻』の召喚を具申します。その裁定ならば、いかな凡人と言えども、納得せざるを得ないでしょう。ですよね? エルゼル・ジェンドリー戦姫團團長?」
意趣返しのような、ステラの物言い。
「具申」という言葉を用いてへりくだっているものの、そこにひるみはない。
努めて冷静を保っていたエルゼルだが、その侮辱に怒りで全身を震わせ始める。
もはや自重は完全には働かず、奥歯を噛みしめても口内の震えは収まらず、震え気味の声のままでステラへ返答。
「ハッハッハッ……なるほどなるほど。さすがは予備試験首位通過者。『鼻』の存在も知るか……。いいだろう。望みとあらば、この場へ『鼻』を召喚しよう。しかし『鼻』は一種の軍機。呼んで『勘違いでした』ではすまされんぞ?」
暗に、「結果次第では不合格にするぞ」という、エルゼルの脅し。
しかしその物言いに、ステラは眉ひとつ動かさない。
「……ご自由に。『鼻』の裁定すら狂っていたならば、もはやここへ入團する意義は、ありませんから」
淡々と返答するステラ。
團長、いわばこの城塞の最高権力者に楯突きながらも、臆する様子は一切ない。
エルゼルは、リムから見て左側のドアの前に立つ試験官へ顔を向け、気乗りしなさそうな声色で告げる。
「……『鼻』へ協力を要請しろ」
「はっ!」
試験官がきびきびと返事をし、背後のドアから退堂。
時計の針が、午前10時を差した。
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