第186話 山彦

 ──ナルザーク城塞屋上、聴音壕。

 その底でいつものように耳を澄まし、蟲の羽音を監視するトーン。


(森が……騒がしい。朝以来、羽音はしなかったけれど……新手?)


 トーンは両手に耳をかざし、集音の精度を高める。


(……この一帯で生じた大きな音は、ツルギ岳の連峰で反響し、山彦やまびこのように、宙に拡散……。城塞地帯の範囲なら、音は拾える……)


 ──ガサッ! ガサガサッ! バキッ! ガササッ!


(枝葉をぐ、巨体……。野ブタでは、この音は出ない……。森の中を、移動できる蟲が……いる? あとで團長に、確認せねば……)


 初めて聞く異音にトーンが聴力を集中させる中、大勢の女性の大声が、だまとなって、それに重なってくる。


(今度は、女性兵たちの声……。恐らく、勝鬨かちどき……。わたしが報告した蟲は、倒した……のか)


 蟲一体の駆除を察し、トーンは耳にかざしていた両手を下ろす。

 しかし長い前髪の隙間から覗く碧眼は、安堵の色をいっさい帯びず、いままで以上に鋭く、爛々らんらんとする。


(蟲の出没が、続く……。もはやこれから先、一日もラネットを城塞ここには置けない。今夜の歌唱試験で、身代わり受験を暴き……。それを口実に、ラネットを、追放する。それで、ラネットから恨まれても、嫌われても……。二度と、名前を呼んで、もらえなくても……構わない。わたしにとって、ラネットの命以上に、大切なものは、ないのだから……)


 トーンはいまいる聴音壕で、ラネットと交わした熱い口づけの感触を思い出し、胸と頬を熱くし、火照る唇を指先でなぞる。

 そして、ラネットがこれから城下町で働くという飲食店を、おぼろげに夢想。

 9歳のころから、城塞内の穴の中で索敵任務に当たってきたトーンには、飲食店の店内も、とんこつラーメンという異国の料理も、想像が及ばない。

 いま眼前にある聴音壕内の石積みの壁が、年ごろの少女の切実な夢想に重なる。


(蟲の殲滅……。ラネットが連れてきた、そばかすの女が、そう言った……。そんなこと、可能……なの?)


 太陽は、聴音壕から見える範囲の空を既に去り、西に寄っている。

 歌唱の試験まで、あとわずか──。

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