第185話 死刑囚 -HANGED MAN-(3)

 太い枝の上に立つムコが、弓の照準を蟲の擬態部、その顔に合わせる。

 それは、ムコの母親の顔。

 3歳時、山奥のイルフの集落を襲撃した蟲が、ムコの母親から移した顔。

 ムコの記憶に、おぼろげながら残っていた母の笑顔が、蟲の顔によってはっきりと記憶の底から呼び覚まされる。


「……くっ! すぐに母と違う顔にしてやるっ!」


 躊躇なく、母の顔の眉間へ向けて鉄矢を放つムコ。

 蟲は体を左に揺らして難なく避け、母性に満ちた穏やかな笑顔を、天地が逆のままムコへ向ける。

 あたかも、娘の過ちを笑顔で許す寛大な母親のように。

 それがムコの神経を逆撫でさせた。


「このっ……!」


 ムコは革手袋着用の右手で、すぐに二の矢を番え、放つ。

 蟲は再度、同じ挙動でかわしてみせる。

 その刹那──。


 ──シュピピピッ!


 別の角度から放たれた数本のか細い針が、蟲頭部の左右の複眼に刺さった。

 これまで逆さまの姿勢だった蟲がとたんに胸部を起こし、擬態部の優しい笑顔はそのままに、慌てふためくように両鎌の先端で複眼の表面を擦り、針を払おうとする。

 突然の出来事に驚く一同の虚を突いて、ムコの隣に新たな人影が下りてくる。

 海軍が蟲の調査に放った間者スパイで、いまは戦姫團の捕虜扱いの、ユーノ・シーカー。

 ムコと樹上戦を展開した際の、黒インナーに厚手のロングコート姿。


「……カマキリの捕食者の一つ、オオスズメバチの毒素に手を加えた猛毒です。蟲は痛覚が鈍いようですが、その毒針は遺伝子レベルで染みるでしょう。くくっ……」


「おまえはっ……!?」


「……なにやら加勢が必要なご様子。僭越ながら姿を見せました。あの蟲の俊敏さに加え、わたしの匂いに気づけぬほどの、あなたの動揺ぶり。その矢籠の矢だけでは、まず手数不足ですね」


 感情を読みにくい水平の糸目をムコに向け、閉じた口でニッと笑みを作るユーノ。

 ムコは蟲に顔を向けたまま、黒目をユーノへと移動。


「うるさいっ! あの蟲は……わたしの手で倒すっ!」


「それはご自由に。ですが、機はいまにあらず、でしょう。蟲の動きが鈍る日没までわれらで奴を引きつけ、防火帯にいる蟲を戦姫團が確実に仕留める。つまり、戦姫團に貸しを作るわけです。後日あらためて、戦姫團の助力を得て奴を葬る。これがベストだと思いますがねぇ……。團長殿は、どう思われます?」


 ユーノは細い瞳から生じる視線を、ムコから眼下のエルゼルへと移した。

 エルゼルは蟲から目を逸らさず、声だけを頭上のユーノに返す。


「……フン。間者だけだって、戦況に応じたクレバーな判断だ。しかし貴様は、蟲の情報を漁る海軍の回し者。蟲と交戦させるわけには……」


「そこの蟲は、恐らく樹上戦特化型。わたしが期待する飛翔能力は、見せてくれぬでしょう。ならばあなたがたに加勢したほうが、得るものが多いと思いまして。猫の手も借りたい……いえ、も借りたいように見えるのですが、わたしの見立て違いですかねぇ? くっくっくっ……」


「チッ……好きにしろ。ただし、死んでも骨は拾わんぞ?」


「それは隣りの彼女に頼んでおくとしましょう。なにぶん、海洋散骨希望なもので。くくっ……」


 言い終わると同時に、ユーノが前方右手へ、枝をほとんど揺らすことなく跳躍。

 すぐにムコが枝を勢いよく蹴って、前方左手へ跳ぶ。


「スパイ! ひとまずおまえの策に乗るけど、チャンスがあればわたしは蟲をるっ! 射線に立たないでっ!」


「それはお互い様。それより蟲に追いつかれぬよう、体の幅ギリギリの隙間を縫って移動してくださいねぇ?」


「わかってる!」


 やや落ち着きを取り戻した蟲は、いま有している顔の持ち主の娘であるムコを、顔移しのターゲットと認識し、追う。

 体中の関節を器用に折り曲げ、ときには跳躍も織り交ぜながら、するすると器用に樹木を抜けるその姿は、樹上性のサルにも、徘徊性のクモにも見える。

 ムコは蟲の腹部が通らない木々の隙間を、次から次へと瞬時に発見。

 そこをくぐり抜けて間合いを稼ぎつつ、防火帯から離れていく。

 エルゼルは蟲が森の奥へ消えたのを確認し、号令を放つ。


「わたしと『目』は、防火帯の蟲討伐に復帰! 残る2名は、繁みに落ちた兵の安否確認! 生存を確認したならば保護! 戦死者の亡骸は……撤収時に回収とする!」


「「……はっ!」」


 やや喉を震わせながらも、エルゼルは「亡骸は撤収時に回収」と明瞭に発声。

 蟲との2戦目にして、早々に死者を出してしまったこと、その遺体をしばらく放置せねばならないことに、エルゼルは3期目となる戦姫團團長の重責を、遅まきながら感じていた。


(これが……実戦! 先達を敬い、蓄積されたデータを頭に叩きこみ、日々訓練に没頭したとて……あっけなく二人の尊い命を失った! 蟲はこの先、大挙して押し寄せてくる……。われらは甘かった! とほうもなくッ!)


 エルゼルは森を抜けながら、己を律するためにと、わきにあった樹木へ左拳を叩きつけようとした。

 その腕へ、ぴょんと跳ねたシーが抱きつき、止めさせる。


「……團長氏、無為にコンディションを崩してはいかんでし。指の骨にひびでも入れば、それだけ剣を握る力が鈍るでし。後悔と反省は、目の前の蟲を倒してから……でしよ?」


「……うむ、だな。ご助言、感謝する!」


 エルゼルは腕にシーを抱きつかせたまま、森を離脱。

 防火帯では、副團長のロミアの指揮の下、先に遭遇した蟲の攻略が継続中。

 既に蟲の中脚、後脚はすべて膝から切断され、前脚の鎌も一つ、地面の上にある。

 前線を離脱した負傷兵が幾人か見えるものの、地に横たわる者はない。


(……戦死者の報告はあとだ! この健闘に水を差してはならぬッ!)


 一刻も早く亡骸を弔わねば……と、エルゼルは駆けながら抜剣。

 残る左前脚の鎌を自ら落とすべく、跳躍した──。

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