第178話 星ケ谷愛里(前編)

 ──当地、52年前。

 まだ城塞もなく、岩や切り株が端々に残る山中の伐採地。

 連峰・ツルギ岳から出没し始めた、異形の生物・蟲。

 この地方にて、昔から「老練な巨熊きょゆう」「山の聖域を護る群狼」「妖怪鎌鼬かまいたち」と噂されていた、山深くに立ち入る者をずたずたに引き裂き、食らう存在……。

 それは美しい女性の裸像を有する、巨大なカマキリだった。

 裸像で人間の男性を誘惑し、交尾で種子を得て、交尾後にその者を食らう。

 魔物とも、カマキリの生態そのものとも言える生き物。

 その年、蟲は数匹の群れを作って、麓の村を襲った──。


 警察から陸軍へと救援要請が飛ぶ。

 蟲の存在を知った陸軍は、村を完全封鎖。

 戒厳令を敷き、蟲の存在を徹底的に秘匿する。

 もしも蟲の存在が広まれば、見世物、あるいは娼婦として捕獲、繁殖を試みる者が現れるのは、容易に想像がつく。

 落命を覚悟、もしくはその覚悟すらないまま、蟲との禁断の快楽を求める男が続出するのも必至。

 美しい女性像と巨大な鎌を併せ持つその存在は、極めて危険と先遣隊は判断。

 多数の犠牲を払いながら蟲を駆除した陸軍は、蟲の移動ルート上の森を切り拓き、麓へ下りる前に迎え撃つ陣営を構える。


 やがて討伐隊の本隊を陣地に配した陸軍だったが、刃物、投擲物、そして低火力の銃が主要武器だった当時、その戦地では多数の犠牲者が出た。

 特に男性兵は優先的に蟲に襲われ、強制的に交尾をさせられたのち、捕食される。

 蟲に捕らえられ、交尾を強いられる中、産卵をさせじと自害する男性兵も続出し、戦いは凄惨を極めた。

 いよいよ女性のみとなった残存兵が、玉砕、相打ち、道連れの覚悟を誓い合う中、戦場の中心の地面から白い光が広がり、その中から、水兵セーラー服を着た一人の少女が現れる。


「……な、なにが起こったの? っていうかここ……どこ?」


 ほしめぐ、17歳。

 曲げた両脚と臀部をぺたりと硬い土の地面につけて、きょろきょろと辺りを見回す、黒い長髪の少女。

 切り拓かれた森の中。

 方や、軍服らしき服に身を包んだ女性の一群。

 方や、女性の裸像と巨大なカマキリを融合させた怪物が数匹。

 その怪物の周囲の地面には、赤黒い血にまみれた人影が、多数横たわっている。

 まったく動く気配のない、地に転がる人間。

 辺りに漂う、鉄錆臭と生臭さを混ぜた匂い。

 視界の端に、頭部と胴体が分かれていると思しき亡骸を見た愛里は、すぐに顔を背け、悲鳴を上げた。


「ひっ……!? きゃああぁあああっ!」


 愛里は恐怖で目を見開きながら、いまにも転倒しそうな前のめりの姿勢で、拠り所を求めるように両手で宙を掻きつつ、反射的に女性兵の隊列へと向かう。

 屈強な体つきに加え、裂傷による出血を帯びた者多数の女性兵の一群には近寄りがたいものがあったが、愛里がそちらを逃げ場として選んだのは順当。

 女性兵たちにとって愛里は、唐突に湧いて出た警戒すべき存在であるものの、見た目が人間で人語を話し、軍属の格好なのもあって、隊列の後方への避難を許す。

 そして再開する、残存兵と蟲との戦闘。

 蟲の研究のために、陸軍研究團として後方支援に当たっていた若干14歳の軍人、アリス・クラールが、メグリに細身のサーベルを差し出す。


「……なぜ海軍兵がここにいるのかは知らないけれど、見ての通りわたくしたちに、己以外を護る余裕はないわ。己の命は己で。そして、腕に覚えがあるなら戦って」


「は、はあ……」


 美しい切れ長の目で睨みながら、サーベルを片手で差し出してくるアリス。

 生返事をしたメグリは、正面にいるアリスの美貌に目を見張る。

 まるでそれが光源であるかのように輝く、黄金色のツインテール。

 宝石のように蒼く輝く瞳。

 白い肌に細い顔、高い鼻、桃色の薄い唇、尖った顎、細身に長い脚。

 先ほどまでの凄惨な光景に対し、「悪夢」「非現実」という思いこみで精神を自衛していた愛里だったが、向かいあっているアリスの美しさが、徐々にが現実であると認識させてくる。

 この美少女が非実在であってほしくない……という愛里の願望が、そうさせた。


「……………………」


 わざとアリスの指に触れながら、恐る恐る両手でサーベルを受け取る愛里。

 ローティーンの少女の滑らかな肌触りと、柔らかみのある爪、そして体温が、愛里に「いつもの日常ではない現実のどこか」にいることを認識させる。

 サーベルからアリスの手が離れ、その重みが愛里一人に委ねられた。


「えっ……?」


 見るからに重々しい、剣身はもちろん鞘もすべて金属製のサーベル。

 しかしいま愛里の手の中にあるそれは、丸めた新聞紙ほどの軽さ。


(ペーパークラフト……? 鞘の中……空洞?)


 愛里は恐る恐るサーベルの柄を握り、ゆっくりと剣身を鞘から引き抜いた。


 ──シャッ……。


 金属が擦れる音が、ゆっくりと、軽快に響く。

 露見した刃は銀色に輝いており、アリスの頭髪同様、それ自体が光源のよう。

 愛里はゆっくりとそれを、人がいない前方へと、水平に掲げる。

 刃が、青白い残光を宙に描きながら移動した。

 アリスはその残光を、目を細めていぶかしげに見る。


(おかしいわね……。あれは死亡兵が遺したもので、刃こぼれと蟲の体液で、光沢など生じるわけないのに……)


 一方の愛里。

 サーベルの柄を握る右手から、ある予感が脳へ流れこんでくる。

 カッターナイフで発泡スチロールを切断して作った、ペンギンのオブジェ……。

 剪定バサミや鎌を用いたガーデニング作業……。

 掌に載せた豆腐を包丁でサイコロ状に切り、味噌汁の鍋へ投入……。

 それらと同じ結果が得られる……という、記憶を元にした、強烈な予感。

 愛里は斜面の縁に立つ、自分の体と同じほどの幹回りの樹の前へ行き、胸の高さで水平にサーベルを振った──。


 ──サクッ。


 力まず、ゆっくりと振られたサーベルは、抵抗も摩擦もなしに、幹を切断。

 愛里自身はもちろん、傍観していたアリスも、声を失して驚く。

 斬られた樹木が、枝ぶりの加減によって、アリスに向かって倒れる。

 それが愛里の目には、スローモーションのようにゆっくりと映った。


(危ないっ……!)


 愛里はサーベルと鞘を両手に持ったまま跳躍し、樹木の幹に右足で蹴り。

 樹木が数メートル水平に吹っ飛び、のち、斜面を転がり落ちていく。

 回避の初動の姿勢で止まっていたアリスが、口を小さくパクパクと開閉しながら、愛里へと問う。


「あ、あなたは……。いったい……?」


「えっと……。美少女……ヒロイン……。戦闘……巻きこまれ……。ありえないパワー……。異世界……。うん、これはきっと……。この世界での使命を果たせたら、元の世界に戻れる的な……ね。きっと……」


 愛里は刃先を地面へ向け、ぐるっと周囲を見回したあとで、再びアリスを向く。


「あの、カマキリみたいな生物は……。悪い存在なの?」


「え、ええ……。人を食らい、人の種子で繁殖する、悪しき巨蟲きょちゅうよ……」


「ふうん……。この世界における、食物連鎖の一環なのかもしれないけれど……。加勢するなら……やっぱりこっち?」


 つぶやきながら愛里は、再度まじまじとアリスの顔を見る。

 同性でありながら、羨望や嫉妬を通り越し、恋心を抱いてしまいそうな美貌。

 少なくとも愛里が先ほどまでいた、では、そのような評価を受ける容姿の持ち主。

 愛里はアリスの警戒心、そして己自身の不安と戸惑いを解こうと微笑を浮かべ、柄にもなくアリスへ、ウインクをしてみせた。


「あとで……一緒にお茶してくれる? ご褒美とか約束あったほうが、生還率高くなりそうだから」


「えっ? え、ええ……。よくってよ」


 愛里は身を翻して、女性兵と蟲が繰り広げる戦いの場へ目を向ける。

 女性兵の掛け声、怒号、悲鳴。

 剣と蟲の鎌がぶつかり合う、高い金属音。

 血しぶきを帯びてうっすら赤くなった砂塵が、山風によって吹き上がる。

 あの中へ己の身を投じなければ、恐らく元の世界へは戻れない──。


「……よしっ!」


 鞘を地面に放り、9歳から14歳まで続けたの構えを取る愛里。

 蟲の形状から、剣道の戦い方が通じる相手ではないのは一目瞭然。

 慣れ親しんだ武術の構えを取ることで、大きな結果は残せなかった身なりに、それまでの剣の修練を振り返り、恐怖心を克己心へと変えていた──。


「……やあっ!」


 意を決して、愛里は生まれて初めて死地へと駆け出す。

 腰まで伸びたストレートロングヘアーが、末広がり状に宙を舞う。

 その後ろ姿を、やや赤みを帯びた顔でアリスは見つめた──。

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