第181話 未知

「────────♪」


 音楽堂の防音室で、ラネットはひたすら「翼をください」の歌唱を繰り返す。

 その喉は枯れることなく、歌うほどに精度を高め、声量を増していく。

 楽器スマートフォンを手にしているリムは、盤面に記されるラネットの歌唱力の点数を、自身のメモ帳に書き記していた。


(お師匠様は、90点以上が数回続けば良しと、言っていましたが……。歌い始めて20回、すべて90点超えで、百点満点もちょくちょく……。ラネットさんの歌唱力もさることながら、歌詞や曲との相性が、よほどいいのでしょう)


 リムがその思案を終えるのとほぼ同時に、ラネットが21回目のフルコーラスを歌い終える。

 盤面に示された点数は97点。


「……ふぅ。この歌、ボクのイメージにぴったり! これをトーンに聞かせれば、ボクの想いを、絶対伝えられるっ!」


「え、ええ……。わたしも、とてもいい歌だと思います。ちょっと聞き飽きましたけど……。アハハ……」


「何度かアカペラ試したいから、演奏、しばらく止めてもらっていい?」


「あ、はい。演奏を止めるときは、ここの正方形に、指を添える……と」


 楽器の盤面中央下部にある、黒い正方形状の記号。

 そこへ指先を添えると、演奏が瞬時に止まり、盤面に表示されている歌詞のページ送りや、音程に合わせて移動するバーも停止する。

 リムはあらためて、手の中の楽器全体をいぶかしげに見た。


(この……本当になんなのでしょう。小さな薄い板なのに、多様な楽器の演奏を同時に行っています。それだけではなく……声! 肉声のお手本すらしています! そしてこの、本よりもくっきりとした活字と図の。さらに、まるで本のページをめくるかのように、歌詞が次々と、消えては浮かび、消えては浮かび……。これは本当に、楽器なのでしょうか……?)


 手首を回して、楽器の細い側面を見ながら、リムは思案を巡らせる。


(……この楽器、時間の経過とともに熱くなっています。熱を帯びているということは、内部でなんらかの摩擦が生じているということ……。この中に、激しい摩擦が生じるほどの、精密な機構があるのでしょうか? 歯車一つ、ネジ一本収まりそうになり、この薄い板の中に……)


 更に手首を傾け、背面を見る。

 隅にいくつかの、円形のレンズのようなものが複数。

 中央に、齧られたリンゴの実を象ったシルエットが一つ。

 内部の機構を確認するための、開閉口のようなものは見当たらない。


(カラコンといい……。このようなものが、一般人でも手に入るお師匠様の故郷とは……いったい? この国よりも、文化レベルが遥かに高い国が、どこかにあるということでしょうか……?)


 楽器の背面には光沢があり、リムの顔がうっすらと映りこんでいる。

 その表情は固く、未知なるものへの興味と畏怖が混在している。


(……そしてその国では、恐らく娯楽もずっと発展している。わたしにとって青天の霹靂だった「漫画」ですら、当たり前の娯楽として、広まっているのかも……。お師匠様の故郷……ぜひに行ってみたいです!)


 力んだ拍子に、楽器の盤面を親指が擦った。

 瞬時に盤面が消え、代わりにこれまで見たことのない、角が丸い正方形の

が、縦横にいくつも並んだ。

 リムの顔が一瞬で青ざめる。


「……げえっ!?」


 ラネットの声量を凌駕する悲鳴を、リムが口を全開にしながら上げた。

 歌唱を中断し、リムへ一歩近づくラネット。


「なっ……なにっ!? どうしたのさリムっ!?」


 リムはとっさに一歩退き、ラネットへ背を向けた。


「あ……え……えっと、虫です! そこに苦手なゲジゲジがいたので、つい叫び声を……。アハッ、アハハハッ……失礼しましたっ!」


「ゲジゲジ? どこどこ? ボクが踏んづけてあげるけど?」


「へ、部屋の隅を上っていったので、もう大丈夫です。お気になさらず、歌の続きをどうぞ……。アハッ……アハハハッ……」


 リムは振り向いて、肩越しにラネットへ苦笑を見せ、取り繕う。

 ラネットはその表情を、苦手な虫を見たゆえのひきつりと解釈し、気に留めない。


「ん、そう?」


 ラネットが再び歌唱を始めるのを確認したリムは、すぐさま顔を正面へ戻し、楽器へと視線を下ろす。

 盤面には変わらず、角丸の正方形の図画が並んでいるだけで、盤面は消えたまま。


(……故障! にくれい!)


 顎が外れんばかりに大きく口を開けて、リムが無声の悲鳴を上げる。


(そそそそんなぁ! 軽く親指が触れただけなのに、故障するなんてぇ!? え、ええと……そうです! 同じさわり方をすれば、元に戻るかも……。先ほどは確か……こういう感じで、表面に親指をスッ……と!)


 リムは親指の先で、先ほどの動作を再現。

 しかし緊張で手に汗を滲ませていたため、親指が滑らず、並んだ正方形の一つの上で、指の腹が停止。

 一瞬、楽器の表面全体が真っ暗になる。


(ぎゃああぁあぁああ! 本格的に壊れたああぁああぁ…………って、あら?)


 すぐさま楽器に大きく映し出される、一人の女性の姿。

 リムと同じ碧色の瞳に、それに近い碧色の髪。

 女性は自然な笑顔でウインクをしており、そのウインクによって作られた表情全体や首の傾きによって、リムはその女性が、この楽器の持ち主だとすぐにわかる。


(これって……お師匠様? の……写真?)


 左右に垂らした長いツインテール。

 念入りな化粧で瞳が大きく見え、ソバカスは消えており、20代半ばほどの印象。

 体のラインがくっきりと浮いた光沢感がある肌着の上に、大きめのフリルが随所に並ぶエプロンと、同じくフリルを蓄えたリボンを身に着けている。


(髪は……ウィッグですかね。衣装は……かわいいと言えばかわいいですが、奇抜な感じ……。お師匠様って、普段はこういう格好をされているのでしょうか。な、なんだか、見てはいけないものを、見てしまったような気が……)


 写真の発色の鮮明さにもわずかに驚いたリムだが、肉奴隷への恐怖心が勝り、なんとか楽器の状態へ復帰させようと、その表面を擦り続けた。

 同様の格好をしたメグリの写真が数枚映し出されたのち、再び正方形の図画が縦横に並んだ状態へ──。


(お……恐らくですが、この正方形のいずれかに触れることで、楽器の機能へと戻せるのでしょう。こうなったら、端から順に……。あるいは……運を天に任せて……)


 息が止まりそうな緊張感の中、はぁはぁと小刻みな呼吸で酸素を補給しながら、リムは中央付近にある正方形へと、震える人差し指を近づけた。

 指先が触れた瞬間、思わず瞳を閉じてしまうリム。

 数秒の間を置き、恐る恐る瞳を開く。


(…………っ!?)


 楽器の表面には、漫画らしき図画が、縦横にいくつも並んでいる。

 読むにはあまりにも小さな、その漫画の数々。

 リムはふと、先ほどのメグリの写真を思い出す。


(この小さな小さな漫画……。表面いっぱいに、引き延ばせるのかも……)


 漫画への興味が恐怖心に大きく勝ったリムは、小さな漫画の一つへ、ゆっくりと指先を近づけた。


(……!!!!!!!!)


 小さな漫画が、滑らかに、一気に、表面全体へと引き延ばされる。

 その漫画には、少年と青年の狭間の年ごろと思しき男性二人が、肉体で愛し合う姿が、繊細な絵柄で描かれていた──。

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