第182話 沼
──夜。
食堂の夕食ラッシュが過ぎたころ。
厨房内の後片付けを終えたメグリが、飲食スペースの隅の席に背をべったりとつけ、真上を見ながらボーっと脱力している。
その視界の左側から、遠慮がちな表情のリムの顔が入ってくる。
「あ、あの……お師匠様。例のモノを……返却にきました」
「ん? ああ……。ラネットの、歌の仕上がりは?」
リムはメグリの左の席に座り、首を右に曲げてうっすらとした微笑を浮かべる。
それからテーブルの下で、人目につかぬよう
「ええ、上々です。歌いだしから高得点の連続で、それを使ったのも2時間ほどでした。あとはずっと、そらんじて仕上げてましたね」
「そう。ウマが合う歌だったのね。ま、役に立ててよかったわ」
膝の上で楽器を受け取ったメグリは、天井を見上げたままで楽器をズボンのポケットへとしまう。
リムは太腿の上でもじもじと両手を絡ませながら、会話の継続に踏みきる。
「えっと……。それでですね……。実は、お師匠様に、謝らなければならないことと、お願いしたいことが、あるのですが……」
「……ん?」
普段から丁寧な所作のリムが見せる、さらにかしこまった物言い。
メグリが顔を下げ、リムと正面から向き合う。
リムは大きな瞬きを数回してみせてから、話を切り出した。
「実は、その……。不注意で、お師匠様から指示されたところ以外に、ふれてしまって……。盤面が……消えてしまいました。申し訳ありません……」
「アプリをアンインストールしちゃった……ってこと?」
「アプ……リオ? アンインス……?」
「……なわきゃないわよねー。タップかスワイプで、画面が変遷しちゃっただけだから、だいじょーぶだいじょーぶ。要するに、ちょっとさわった程度じゃ壊れないってこと! 床に落としてモニターにクモの巣できちゃったかと思ったわよー」
博学のリムですら知らない言葉を並べたてながら、メグリが楽器を胸元に上げ、覗きこむ。
「グエッ」
「げっ」に聞こえるほどの早口で「ぐえっ」と呻き、無表情になるメグリ。
楽器の表面には、青少年二人が裸体で抱き合った漫画の一ページが、映っている。
メグリは色を失った瞳を、無表情のままリムへ、ゆっくりと向ける。
「リム……。あんたこれ……」
一方のリムは、顔を茹でた甲殻類のように真っ赤にし、火照りと発汗で眼鏡を真っ白に曇らせ、見えなくなるほどに鼻の穴をすぼませ、唇を口内へ巻きこんでいる。
「お、お、お願いというのは……それのこと、でして……。そ……その漫画の……つ、続きを見……見せて……。いただけない……でしょう……か……?」
「続き……?」
「そ、その楽器……。いえ、恐らくは楽器で……ないのでしょう。指で左右に擦れば、漫画のページをめくれることが、わかりました……。でも、そのページから……どうしても、めくれないのです……」
リムはテーブル上にあるピッチャーを掴むと、メグリが使っていたコップに並々と注ぎ、まるで燃える体を消火するかのように、一気に飲み干した。
「そ……その二人は……その先どうなるのですかっ!? そしてその繊細なタッチの漫画を描かれたのは、どこのどなたですかっ!? お師匠様の故郷には、そのようなすばらしい漫画が……ほかにもあるのですかっ!?」
質問をまくしたてたリムが、冷水のおかわりを口へ運び、喉を通らせる。
メグリは色のない瞳と真顔のままで、淡々と回答を始める。
「最初の質問……ね。この漫画は、これで終わり。続きは……ないの」
「えっ……?」
「漫画は16ページ、表紙と裏表紙、中表紙と奥付で24ページ……。これが、薄い本でよくある体裁……。だからあの漫画は、あれで終わり。続きは皆さんでご想像ください……という、限られたページ数に美味しいところだけを詰めた体の作品なの」
「うす……異本?」
「あとの質問にはノーコメント。それから、この漫画のことは忘れなさい、リム。あなたはこれから、漫画家を目指すんでしょう? あなたならきっと、お天道様の下でまっすぐに伸びる漫画道を、邁進できるわ。この刺激が強い漫画は、その道から外れた藪のその奥にある、毒の沼のようなもの……」
「ど……毒の沼、ですか……」
「あなたには、その沼の毒素に当てられてほしくないの。さもないと、わたしのような腐った女になるわ……。ふふ……ふ……ふ……」
口を薄く開いてようやく表情を見せたメグリが、自嘲気味に笑う。
少し顔から赤みが失せたリムは、さらにもう一杯冷水を飲み、食い下がりを決意。
「で……では、その機械の中に、別の漫画は……ありませんか? お師匠様は、毒素と言われましたが……。わたしにはあの、美しい男性同士が戯れる姿が、尊く思えてしかたがないのです……!」
「ダメ。引き返せるうちにお帰り。シッ、シッ……」
手首から先をブラブラと振り、野良犬を追い払うようなしぐさを見せるメグリ。
その手を両手で掴んだリムが、メグリへ顔を寄せ、不敵に口角を上げる。
「そう言えば、お師匠様が貸してくださっている、あのカラコン……。あの用途も、わたしわかっちゃいました。その機械のおかげで……」
「えっ……?」
「お師匠様の……仮装用だったんですねぇ? 髪型も……衣装も……あんなに子どもっぽいものにして……。お師匠様って意外と、少女趣味だったんですねぇ……。皆さんにお話ししたくて、しかたありません……アハッ」
いまだ強い赤みが残るリムの顔と対照的に、メグリの表情が一気に青くなる。
「ま、ま、ま、ま……まさか見たの!? アレもっ!?」
リムは眼鏡の曇りの隙間から細めた瞳を覗かせ、荒い鼻息で鼻腔を広げ、白い歯を見せてにやけ始める。
「……ええ、見ました。お師匠様ぁ? なぜあのような愛らしい格好を、されていたのですかぁ?」
「うっ……。そ、それはね……。わたしは、起きて半畳寝て一畳で十分な性分だから、贅沢な暮らしなんて、求めていないんだけれど……。それでも急な物入りが、あったりするから……」
異常に歯切れの悪い口調で、メグリが弁明を続ける。
「あのかっこうは、副業的なアレで……。こんなわたしでも、メイク決めて派手な格好すれば、それなりに、スパチャも……ね」
「……すぱちゃ?」
「と……とにかく、忘れなさいっ! きょうの出来事すべてっ!」
「なにぶん刺激が強いものをたくさん見たので、すべてを忘れるというわけには……。ですがお師匠様が、ほかにも漫画を見せてくださるというのなら、仮装しているお師匠様の姿は、忘れることができると思いますぅ……アハッ❤」
「……リム。あんたいま、すっごい悪い顔してるわよ」
「お師匠様の影響かもですねぇ……クスッ。さて、どうしますぅ?」
ニタニタと笑うリムが、メグリへと顔を寄せていく。
その碧色の瞳に映る自分の姿が、メグリには自分の仮装を揶揄されているようにも思えた。
「わ、わかったわ! わかったわよ! 別の漫画見せてあげるから、わたしの仮の姿は忘れてちょうだい! ただし、二次試験終了後にして! 漫画にどハマリされて、試験失敗されても困るから」
「わかりました! 試験終わってからですね! あのっ、わたしお手洗いに行きたくなったもので、これで失礼しますっ! アハッ!」
体全体をメグリへ向け、胸元で手を組み、悪い笑みを満面の笑みに替えるリム。
内股気味の姿勢で立ち上がり、いそいそと食堂をあとにする。
メグリは気疲れで崩れ落ちそうになった上半身を、右腕の頬杖で支えた。
「……はぁ。ま、スマホ貸した時点で反則みたいなもんだし、いっか……。それにしてもまぁ、ずいぶんとちょろく
メグリの手が気だるそうに、ピッチャーの取っ手を掴む。
先ほど満タンにしておいたピッチャーが、軽々と宙に上がった。
「……あら、空っぽ」
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