第107話 誘惑

 ──ラネットとカナンが詰めた防音室。

 トトトト……と正面から歩み寄ってくるカナンと一定の距離を取るべく、後ずさるラネット。

 しかし2メートル四方ほどの狭い防音室では、すぐに進退窮まった。

 壁に背をつけて直立するラネットへ、後ろ手を組んだカナンが、体を左右へリズミカルに揺らしながら、衣類の胸元が擦れあうほどに接近。

 黒目がちな丸い瞳でラネットを見上げたのち、薄桃色の唇の両端を上げ、両目を閉じてニコっと笑う。

 思春期の少女の愛らしさと、小動物の愛らしさを併せ持ったその笑顔に、ラネットの頬も自然と緩んでしまい、口内に甘酸っぱい唾液を湧かせてしまう。


(ひいい~! 間近で見るカナン、やっぱめちゃカワ! お目々くりくり……ほっぺたプニプニ……唇つやつや……。うぅ……おとといみたいに、楽しくデュエットしたいところだけど歌の練習が……)


 ラネットはメイド服のポケットから、團歌を書き写した紙を取り出して広げ、カナンの目の高さに合わせて広げる。


「……ご、ごめん。ボクこれから、歌の練習しなくちゃいけないから、デュエットは無理かなぁ。あはっ、あははは……」


「あ~! ラネットちゃんもあしたのお歌の試験、お團歌だって読んでるんだぁ。でもどうして、従者のラネットちゃんが、お歌の練習するのかなぁ?」


「……ぎくっ! え……えっとね、それはね……。ええと……」


 返答に詰まったラネットは、見つめ合っていた目玉を斜め下へと逃がした。

 すぐにカナンがトトト……と横移動し、首を小さく傾けて、逃げたラネットの目玉と再び見つめ合う。

 その愛らしいしぐさに思わず口元が緩むラネットだが、脳内では小パニック状態。


(……や、やばい! うまい言い訳思いつかないっ! もしかしていまのヘマで、替え玉受験の企み……バレるっ!?)


 ──ぱんっ!


「あ~! カナンわかっちゃったぁ!」


 カナンの小さな両手が、柔らかな音を立ててぶつかり、ひらめきのジェスチャー。

 その愛らしい音と笑顔に、ラネットの胸が緊迫とときめき交じりに高鳴る。


「どきっ……!?」


「ラネットちゃん、受験者さんのお歌チェックするために、ここで待ってるんだぁ!」


「あっ……うん! そうそう! うちのチームリーダーはリムっていうんだけど、リムちょっと用事ができてさぁ。ボクは先に場所取り! あはははっ!」


「ん~……。じゃあ、その受験者さんが来るまで、カナンとデュエットしよっ! ねっ!?」


 カナンが逆方向へ首をかしげながら、かるく握りこぶしを作っていたラネットの手の甲へ、掌を重ねてくる。

 その柔らかな掌の感触に、ラネットの指すべてが思わず弛緩。

 指が伸びきったのを目ざとく察したカナンが、すぐに両手で恋人繋ぎを作った。

 カナンの握力はラネットよりも遥かに弱いが、幼子のような小ささと、しなやかな肌触りには、ふりほどくことができない魔性じみた磁力がある。


(いいいっ!? 待ち合わせなんてしてないんだから、百年待ってもリムは来ないよぉ! でも無理に追いだしたら疑われそうだし……。ん゛ん゛ん゛ん゛……)


 ラネットは怪しさを最低限へとどめようと、へらへらとした半笑いをかろうじて維持しながら、うまい言い訳を思いつこうと脳みそをフル回転させる。


「あ、あのさ……。これから練習するのは團歌だから、デュエットは無理かなぁ。地味な曲だしね……うん」


「え~! お團歌ってみんな揃って歌うものだから、ソロのほうが変だよぉ?」


(あうっ……正論っ! ごまかそうとすればするほど、墓穴掘るなぁ!)


 そんなラネットの嘘や腐心をよそに、カナンはデュエットやりたさに、先行で團歌を歌い始める──。


「──つるぎみねに~かがげきし~♪ 乙女おとめ結願けちがん同胞ともす~♪」


(わわっ、カナン……すごいっ! 堅っ苦しい戦姫團の團歌を、とっても楽しそうに歌ってる! この声……この……あまあまボイスを聞いちゃうと、デュエットに引きこまれちゃうんだよなぁ! あああぁ……口が勝手にぃ!)


 ラネットがたまらず、恋人繋ぎの姿勢のままで、二小節から合流。

 待っていたかのように少し間を作っていたカナンが、ラネットの開口に合わせて、滑らかに声を紡ぎだす。


「「──せんはた山風やまじけ~♪  はんこころおどつ~♪」」


 歌い合わせてすぐ、共鳴するかのように、尻上がりに声量を高める二人。

 二日前のデュエットで得ていた歌合せの感覚が、互いの中ですぐに蘇った。


「「──さあ~いま~ゆかん~♪ あの明星みょうじょうは~わがけんかがやき~♪」」


 ラネットの強くたくましい声。

 カナンの甘く柔らかい声。

 それらが團歌のサビを、勇ましくも軽やかな、歌謡曲のような曲調へと変える。


「「──刀光剣影とうこうけんえい~なにものぞ~♪ 嗚呼ああ嗚呼ああぁ~~~♪」」


 歌詞のラストに内包された、長めの余韻。

 デュエットの終わりを惜しむように、二人の余韻が長く続く。

 「いつやめようか?」と相談するかのごとく、正面から身を寄せ合いつつ、声をフェードアウトさせる唇を近づけていく二人。

 やがて声が消え、二人の体は離れる──。

 そうラネットが思った瞬間、カナンがつま先立ちをして、ラネットの唇を奪った。

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