第003話 城塞地帯
──あの夜から7年を経た初夏。
鮮やかな青空を突き破るかのようにそびえる、標高1,000メートル前後の連峰の総称、ツルギ岳。
その武骨な岩肌は、雨季を明けてもなお樹木の繁茂を許さず、ところどころに低木の藪を作らせるのみ。
「トーーーーーーーーンーーーーーーーーっ!」
16歳になったラネットは、ツルギ岳を間近に見上げる丘のピークで、トーンの名前を叫んだ。
麻製のシャツ、ノースリーブのジャケット、膝頭を覗かせるハーフパンツ、あちこち毛羽立った登山用ブーツ。
幼少期と変わらずボーイッシュないでたちだが、伸びた睫毛に曲線を帯びたボディーラインと、随所に女性らしさを滲ませる。
ラネットはトーンに救われて以降、病気や嵐の日を除けば、毎日ツルギ岳に向かって声を張り上げた。
年を重ねるにつれて山歩きにも慣れ、12歳を迎えるころには、かつて遭難した山を駆け足で登り、その頂からトーンの名を呼ぶようになった。
いまや腰まで伸びた金色のポニーテールを、高所の強風に泳がせながら、ラネットは回想に耽る。
「……あの夜のことは、いまでもはっきり覚えてるよ。トーン……」
あののち、ラネットが目を覚ましたのは、わが家たる孤児院のベッド。
山男たちは、仕事の請負先へと移動中のよそ者で、その道中でラネットの行方不明を知り、捜索に参加したと院長は言った。
山男たちの詳細を知る者は村におらず、トーンはその一行のだれかの娘だろうと、村人たちは口を揃えた。
「……きみはどんな女の子になってるのかな? ボクの声、一度くらいはきみに届いたかな?」
ラネットの脳裏に、7年前のままのトーンの横顔が蘇る。
鼻から顎の端正なライン、白い肌に赤い唇、憂いを帯びた眼差し、睫毛とふれあう折り目正しく揃った前髪。
ラネットは思春期を迎えてから、ひょっとするとあれが、自分の初恋ではなかったかと考える。
そして「いやいやボク女の子なのに……」と首を左右にぶんぶん振るまでが、近年のルーティン。
「きみが言ってた東のお城って、きっと
ツルギ岳を背にして、陸軍の城塞があるというのは、公然の秘密であった。
この国では要衝に軍の砦を設け、それを城塞と呼んでいた。
「
ラネットは、幼き日のトーンがメイド服に身を包み、無表情でスカートをたくし上げる様を思い浮かべる。
「あす城下町で開かれる、入團の予備試験。それに受かれば、一次試験会場の城塞へ行ける。そしたらきみに、会えるかもしれない」
ツルギ岳から裾野へ目を移すと、緑豊かな小規模の都市が、平地にかけて広がっている。
2階建ての建物が多く連なり、舗装された道が網目のように交錯しているその町は、農村部育ちのラネットの目に異世界のように映る。
「入團試験は、とっても難しいって。頭の良さに、強さに、歌に……それに見た目。ボクなんかじゃ、予備試験さえ通らないかもだけど……」
一瞬、弱気を顔に浮かべ、俯くラネット。
しかしすぐに顔を上げ、右手を握り締め、想いを言葉に変えながら紡ぎだす。
「……でも、命の恩人と再会するために、頑張ってきたよ。きみに救ってもらった命が、こんなに立派になったよって、見せたいから!」
「歌だけは自信あるんだ。どんな闇の中でも、声が希望を繋いでくれるって、トーンが教えてくれたから。レパートリーは少ないけど、練習頑張ったよ」
「それに、ずっときみの名前を呼んでたから、声量は抜群なんだ。これも、きみが授けてくれたものだね」
「自己流だけど、剣の練習にも励んだ。髪も伸ばして、女らしさもちょっとは磨いた。勉強はいまいちだけど……。でも、わがままを聞いて送り出してくれた院長さんと、推薦状をくれた村長さんのためにも頑張る!」
丸めた右手に、トーンの手の温もりが蘇る。
行く先にはトーン以外に知り合いはおらず、そのトーンが城にいる確証もない。
ないない尽くしの、16歳の一人旅。
ラネットは不安を覚えるたび、名を呼ぶように願った幼いトーンの心細さを思い、自身を奮い立たせる。
「……行くよ、トーン。ここはもう城塞地帯だから、しばらくきみの名を呼べないけど……。きっと、きみの目の前で、きみの名前を呼ぶから!」
ラネットは路傍の標石の頭を数回撫で、下り道へ歩みを進めた。
城塞地帯標は、城塞や城塞都市の周辺に設置される境界標。
城塞地帯内では、「メモ」「模写」「会合」「不要な滞在」「土地の改造」「烽火、空砲、旗、大声等による伝達行為」が、法律で固く禁止されている。
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