とんこつTRINITY! -思春期少女三人組の、替え玉受験奮戦記!-

椒央スミカ

第一部 替え玉受験編

序章

第001話 闇

 標高800メートルほどの、高木がひしめく夜の山。

 その中腹の斜面で、幼い少女は膝を抱え、座り込んでいた

 少女の名は、ラネット・ジョスター。

 麓の村の孤児院に身を置く、明るく活発な9歳児。

 男の子のようだとよく評されるお転婆だが、肩まで伸びた繊細なブロンドヘアーと、大きな丸い瞳には、美女の素養が見え隠れする。

 しかしいま、その顔に普段の快活さはなく、髪と瞳からは輝きが失せている。


(痛い……。お手々が……痛いよ……)


 山道のへりにあった石を踏み抜き、足下から滑り落ちたラネット。

 とっさに体を支えようとした両手は、固い土の表面を擦るだけだった。

 両掌からヒリヒリと火傷のような痛みが生じるも、けがの程度、出血の有無は、闇夜の中では確認できない。


(あ、お月様隠れてる……。さっきまで出てたのに……)


 先ほどまで、ラネットの黄金色の髪を輝かせていた月も、いまは厚い雲の中。

 ラネットは麻製の薄手のズボンを膝までたくし上げ、両手でふくらはぎをさすり、触感で皮膚の損傷を確認する。


「つっ……!」


 痛みに反応して上がった左手を、ぷらぷらと宙で振って刺激を逃がそうとする。

 右手は少し擦りむいただけだが、左手は皮膚が剥げ、滲み出た血に泥や小石が絡みついていた。

 ラネットはジンジンと熱を発する左掌を顔に近づけるが、けがの度合いはおろか、手の輪郭すら視認できない。


(真っ暗……。なんにも見えない……)


 夜と山の闇が、ラネットから視界と感覚を奪っていく。

 自分自身の体、後頭部と背中が触れている斜面、臀部と足の裏が接している地面、それ以外はもう存在が知れない。

 ラネットは尻もちをついたまま、曲げていた両脚を伸ばし、かかとでトントンと地面を叩いて、辺りの様子を伺った。

 その挙動を数回繰り返すうち、右踵が空を切った。


(ひっ……!? この先……地面ないっ!?)


 両脚がすぐさま引っ込められ、顎に膝頭がくっつく。

 ラネットは右手で地面をまさぐり、掌に収まるほどの石を拾い上げ、前方の闇夜へと放った。

 石は、音をいっさい返さなかった。


(この先も……崖……なの? ボク……崖の途中にいるの?)


 時折吹く冷たい横風が、ラネットの体を揺らす。

 そのたびにラネットは背中を斜面へ押し当て、体勢を保った。


(院長さんが、隣の山には人食いグマがいるって言ってた……。風がボクのにおいを、隣の山に運んじゃうかも……)


 ラネットは不安を膨らませながら、きょうの出来事を振り返る。

 孤児院の自由時間に一人で森へ深入りし、初めて見る川に遭遇したこと。

 川の中に大きな赤いカニを見つけて、大興奮したこと。

 飛び石を伝って川を渡ったこと。

 川に沿って、かなりの距離を登ったこと……。


(……ああっ! ここ、もう隣の山かも! あの川……谷底っぽかった!)


 道に迷ってからは、山を下ったり上ったりを繰り返したこと。

 太陽が沈む方向へ進めば村へ近づくはずなのに、知らない景色ばかりだったこと。

 孤児院から遠く離れてしまったかも……という不安が、ラネットの中で確信に変わった。


「あぐっ……ひっぐ……うぐ……うえぇん……。おうち帰りたい……帰りたいよぉ……」


 両腕で両脚を抱え込み、揃えた膝頭に額を置き、瞳を閉じてすすり泣くラネット。

 しかしさほど間を置かずに顔を上げ、目を見開いた。


「ああぁ……これ……やばい。目を開けても……つむっても……真っ暗……」


 光源が皆無の闇夜。

 それに飲み込まれて消えてしまうような錯覚が、幼い少女の心身を蝕む。

 ラネットは自分自身の存在を保つかのように、それからは泣き言を声に出した。


「ぐすっ……あぐっ……。助けてぇ……誰かぁ……。ボクを……見つけてよぉ……うぅ……うううぅ…………」


「……あそこ」


 突如ラネットの頭上から、自身のものではない声が降ってきた。

 やや低い声質の、幼そうな少女の声。

 ラネットが顔を上げると、松明たいまつの明かりが複数、近づいてきている。

 やがて松明が大きくなるのを止め、その明かりの中に、一人の少女の顔を浮かび上がらせた。

 灰色の髪、白い肌、碧眼の幼い少女が、両頬のわきから長い髪を垂らして、ラネットを覗き込んでいる。

 少女の背後には、松明を手にした大人のシルエットが複数。

 少女は、行方不明者を見つけた歓喜も、遭難者に遭遇した驚きも見せることなく、無表情のまま、口を小さく開く。


「……あなた、ラネット・ジョスター?」


「ぐすっ……うっ……うん!」


 名を呼ばれたことで、ラネットの全身からこわばりが消え、筋肉が弛緩。

 2メートルほど上にある少女の顔を眺めながら、ラネットは喉に生じた甘酸っぱさを笑い声に換えた。


「あは……あはは……。すごい落ちた気がしたけど、そうでもなかったんだ……。あははは……」

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