第053話 唾液ブリッジ

 武技堂へ退出の一礼し、通路へ出るルシャ。

 ルシャの一礼を真似て会釈をし、あとに続くセリ。


「……………………」


 ルシャは苦虫を噛み潰したように、目を細め、真横に口を閉じる。

 その細い目で、直線の通路の両脇を見、周囲にだれもいないこと、そして、身を隠す場所がないことを確認する。


「じゃ……じゃあ、勝負の取り決めだかんな」


 ルシャが通路の壁に背とヒップ、そして腰に回した両手をぴたりと当てる。


「ほら……人がいないうちに、ちゃちゃっとすませろよ」


 ルシャは上目遣いで、セリの顔を誘導。

 セリはルシャの正面に立ち、その右肩へ軽く手を載せ、顔を近づけることなく、口を開く。


「フフッ……まあそう急くな。ルシャのその照れた顔、じっくり楽しみたい」


「照れてねぇ! くそっ……。なんでオレが、こんなことを……」


「その理由は、ルシャが勝ったら……という話だったろう?」


「ぐ……」


 戦いの勝ち負けには厳格なルシャ。

 取り決めを反故にすることはない。

 自ら壁を背にしたのも、取り決めから逃げないというルシャの性根が、無意識に取らせたしぐさ。

 セリもそれは汲み取っている。


「……まあ、勝敗と言っても僅差だしな。少しだけなら話そう。わたしはな、そう遠くないうちに、親が見繕った男と結婚せねばならんのだ。家の事情で」


「えっ……? 結婚って……。おまえ、年いくつだよ」


「十六歳だ。年末で十七になる」


「タメじゃねーか……」


 ルシャはいままで、大人びたセリを年上だと思っていた。

 しかしそれ以上に、自分と同じ年の少女が、結婚を間近に控えていることに驚きを隠せなかった。


「戦姫團に入れれば、退役となる二十四歳までは独り身でいられる。入團はわたしにも家にも箔がつくからと、親もチャンスを与えてくれた。ここは女の園で、悪い虫がつく心配もないしな」


 特に表情を曇らせるでもなく、真顔で淡々と話を続けるセリ。


「……だが、わたしの頭では、やはり入團は無理だ。歌も不得手だしな。だからせめて、ファーストキスの相手くらいは、自分で選びたいと思った。そういうわけだ」


「だったらますます、オレなんかとキスすんじゃねーよって話……だろ? この入團試験、国中から選りすぐりのイイ女が集まってんだからよ……」


「その選りすぐりの乙女たちから、わたしが選んだのが……ルシャだ」


 真顔からまったく表情を変えず、目を合わせたままでセリが答える。


「お、おまえの美的センス……どうかしてんぜっ!?」


 重い話で冷めかけていたルシャの火照りが、一気に再燃。

 耳たぶと首筋までもが、赤く染まる。

 これまで道場の看板娘として、門下生からかわいがられてきたルシャだが、いまのセリの台詞は、これまでの人生で最高の賛辞だった。


(やべぇ……やべぇぞ! なんか話しこんでると、だんだんキスに抵抗なくなってく! とっととすませて逃げねぇと!)


「わーった! わーった、もういい! とにかく早くすませてくれ! これでもオレは、けっこー忙しいんだ!」


 ルシャは瞳と口を閉じ、努めて無表情を作った。

 ルシャが目をつむってからは、セリも言葉を発するのをやめる。


「……………………」


 視覚情報のないルシャに、セリの体温がじわじわと迫ってくる。


「ルシャ…………ンッ……」


「ンむぅ……」


 ルシャの下唇を挟むようにして、セリが唇を重ねる。

 その瞬間ルシャは、心臓がきゅっと縦に萎むような動悸を覚えた。


「ンッ……ちゅっ……。ルシャ…………」


 乙女同士の、初めて同士の、キス。

 不思議とルシャに、嫌悪感はなかった。

 勝負に敗れたその結果であることはもちろん、セリが容姿端麗であること。

 そして、武人としてリスペクトに値する、よきライバルであることが理由。


(しかし……なんか……長いな。さすが……エロ眼鏡……)


 キスは口をつけたらすぐ離すもの……というアバウトな認識しかなかったルシャには、ほんの十秒ほどの密着がとても長く感じられた。

 しかし、キスの時間の取り決めておかなかったことと、自分がキスの知識皆無でやめどきがわからないことから、無抵抗でセリの唇を受け入れ続ける──。


「……ふぅ。美味だったぞ、ルシャの唇」


 セリが名残惜しそうに、ゆっくりと顔を離す。

 二人の唇が一本の透明な糸を紡ぎ、それが一滴の雫となって床に落ちる。

 半開きなままの、ルシャの熱い口内。

 息継ぎによって入ってくる周囲の空気が、ルシャにはひんやりと感じられた。

 セリはドレスの隠しポケットから取り出した白いレースのハンカチで、ルシャの濡れた唇を拭き、ハンカチを四つ折りにしてから、自分の唇を拭いた。


「いまの思い出……わたしの一生の宝物だ。ありがとう、ルシャ」


 セリが向き合ったままで一歩退き、身を翻す。

 ルシャはメイド服の袖で口を拭ったあと、一歩だけその後ろ姿を追った。


「あっ……」


 なにか声を発しようとしたルシャだが、まとまりのない言葉が絡まり合って喉の奥で引っかかり、無言。

 ルシャは壁から背を離して直立し、去っていくセリの後ろ髪を見つめる。

 距離を空けて小さくなっているセリの全身、その向こう側。

 壁際で直立し、苦笑で小さく手を振るラネットの姿が現れた。

 ルシャが瞳と口を限界まで開きながら、無言で驚愕────。


「!!!!!!!!」


 ラネットの顔には、ほんのりと赤み。

 二人のキスを傍観していたのは明らか。


「おおおおぉ……おいっ、ラネット! どっから見てたっ!?」


「え……? ルシャが壁に寄り掛かったところから……だけど?」


「最初からじゃねーかっ! ざけんなっ! つーかオレがキスされる前に、気を利かして割り込んでこいよっ!」


「いや、気を利かせて割り込まなかったんだけど……。あと後学のため……あはっ」


「なんの後学だっ! 忘れろ忘れろっ! いまの記憶……全部消せっ!」


 ルシャが四肢を曲げて、カニのようなポーズで暴れながら狼狽。

 その照れ隠し全開の挙動が、ラネットを笑顔にする。


「強烈すぎて、忘れるのは無理っぽいけど……。だれにも言わないから安心して。ボク、女の子同士の恋愛も自然なことだって、思ってるし」


「そりゃおめーは、チーンだかツーンだかって女を追ってきたんだから、そうなんだろうけど……。オレはちげーんだよっ!」


「トーンだってば。あっ……ルシャって男勝りだけど、しっかり彼氏欲しいんだ?」


「そ……そういうことじゃねーっ!」


 ルシャが顔を真っ赤にしつつ俯き、早歩きでラネットのわきを通りすぎる。

 その荒々しい歩みを目で追いつつ、ラネットは笑顔をやや真顔寄りにする。


「……もし再会できたら、ボクもトーンと……したいな。キス」

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