第2話 白き竜

 次に少年が目を覚ましたとき、周囲はまだ暗かった。

 瞼が重く、なかなか目を開けられずにいる少年は、しかし、川に落ちたのにも関わらず、自分があまり濡れておらず、さほど寒くもないことを不思議に思った。

 胸の辺りに、軽い重みと、奇妙なあたたかさを感じる。

 そこからじわじわと、自分の身体の中に何かが流れ込んできているような気がした。


 うっすらと目を開くと、仰向けになった自分の胸の上に、ぼうっと明るい何かが座り込んでいるのが分かった。

 鳥か、とそう認識しかけて、はっとする。


(え……)


 いや、それは、鳥ではなかった。

 その体表は、鳥のような羽毛に覆われてはおらず、代わりにあるのはなんだか見惚れてしまいそうになるほどつややかに美しい、白銀色の鱗の流れだった。

 優美な曲線を描く細面の頭には、何かを思い巡らすような深い色を湛えた青い青い瞳があり、その真ん中に、縦に細長い虹彩を浮かべている。

 そうしてその背には、薄い皮膜に包まれた蝙蝠こうもりのような白い翼が見えた。


(りゅ、竜……!?)


 少年は驚いて、飛び起きようとした。しかし、それはうまく行かず、ただ少し体をびくつかせた程度のことだった。

 少年の胸の上にいた小さな竜は、ぱっと翼を開いて舞い上がり、ぱたぱたと近くの焚き火の方へと飛んでいった。すると、胸の上にあったあの懐かしいような温かさが急に失われたのが分かった。


「あ……」


 少年はそこではじめて、その焚き火の脇に真っ黒な小山のようなものが座っているのに気がついた。

 それは先ほど、少年を助けてくれた男だった。

 男は、少年が覚醒したことに気付いているらしかったが、特にこちらを見ようともせずに、ただ焚き火の中をじっと見ていた。少年の胸から飛び立った小さな竜が、はたはたと彼の傍へ飛んでゆき、さも慣れた様子で、その広い肩にとまって翼を閉じた。

 くるる、と竜が小さな甘い声を立てると、男は初めてこちらに気がついたかのように、じろりと少年を睨みやった。

 顔の右側を大きめの黒革を渡して眼帯のように覆っているので、少年を睨んだのはあとひとつ残ったほうの目だけである。

 男はその背に、大きな剣らしいものを担いでいるようだった。


「あ、……あの」


 少年が出した声はかすれきっていて、男には届かなかったようだった。

 少年はもう一度、どうにか腹に力を入れて言ってみた。


「あの、ありがとう……助けてくれて」


 それを聞いても、男は何も答えなかった。ただその眉間に一瞬だけ皺を立て、目線を再び焚き火に戻しただけだった。

 別に、耳が聞こえないということでもなさそうだったが、とにかく男は、少年と話をする気がないようだった。終始、ひどく陰気な様子で、その長旅のせいなのか、旅装は汚れ、横顔は鋭く尖り、全身から疲れが見えた。

 しかし、ふいと横を向いたその顔は、どこか品のある、端正なもののようにも見えた。


 くるるる、と彼の肩にいる白竜が優しい声を立て、少年と男とをちょっとかわるがわる見るような仕草をした。姿かたちばかりでなく、その動きまでが優美な竜だ。

 少年は、そんな竜の姿にちょっと見とれた。本当に、現実とは思えないような、それは美しい竜だった。そうやって動いていなければ、本当にどこかの高級な美術品だといわれても、少年は疑わなかったかも知れない。


「竜……だよね? それ……」

「忘れろ。俺のことも、この生き物のこともだ」


 いきなり口を利いたと思ったら、男はその低い深みのある声でそう言い放った。

 再びこちらを睨んだその隻眼が、明らかな殺気を湛えているのが少年にもはっきりと分かった。


「もしも誰かに話したら、貴様の命はないと思え。目が覚めたのなら、どこへなりと行ってしまうがいい」


 もはや、取り付く島もない言い草だった。

 少年はしばし呆気に取られた。しかし、すぐに自分が置かれている逼迫した状況のことを思い出した。


「いや、あのっ……あのさ!」


 そうして、まだよく動かない四肢を励まして、まるで這うようにして男の傍へ近寄った。男はそんな少年を見てあからさまに目を細め、びりっとその身体に警戒の色を走らせた。


「行け、と言った。近寄るな」

 が、少年は男の言葉はきれいに無視した。

「あの、そうじゃなくって! あんたと竜のことは、誰にも話さないよ。それでいいんだろ? そんなことより……!」

 自分たちのことを「そんな事」呼ばわりされて、男はちょっと奇妙な目の色になったようだったが、特に何も言わなかった。

 少年は構わず、言い募った。


「近くで、山賊のやつらを見なかったかい? む、村が、おそわれて……! アニカが……妹が、さらわれてっ……!」


 足もとの砂利に手をついてそう言う間にも、胸の底からぐらぐらと、怒りと悔しさがあふれ出し、少年の目の前はあっという間に熱い雫に滲んだ。


「父さんも、……か、母さんも――」


 ぼたぼたと頬を滴るそれを、どうしても止めることができない。必死にそれを腕で擦り取るのだったが、それにあまり意味はなかった。

 言葉は嗚咽にすぐに詰まって、続きを言うこともできなかった。


「ひっ……ぐ、えぐ……」


 地面にうずくまるようにして、声を殺すように泣く少年を、男はしかし、氷のような目で見下ろしているだけだった。

 一方で、その肩にとまっている白竜は、そっと長い首をしおれさせ、その美しく優しい瞳で、じっと少年の震える肩を見つめているようだった。


「お前の都合など知らん。救いたいもの、護りたいものがあるなら、貴様のその手でそうするがいい」


 男の言葉は、やはり無情なものだった。

 と、男の肩にいた竜が、小さく男の耳にくるる、と囁きかけるようにして、ふわりと宙に舞い上がった。男ははっと驚いたように目を見張った。


「いえ、しかし、姫で――」


 立ち上がってそう言いかけ、はたと少年の存在を思い出したかのように押し黙る。

 竜は男の頭上でぱたぱたと数度羽ばたき、もう少し鳴き声をたてたかと思うと、制止しようとする男の手を逃れるように、はたはたと暗い森の向こうへと飛んでいってしまった。

 ぼんやりと光るその体躯は、木々の梢に隠れてすぐに見えなくなった。竜の飛び去ったあとには、小さな光の粉のようなものがきらきらと後をひいた。


「…………」


 男が、小さく口の中で舌打ちをした音が聞こえた。

 少年は呆然と、そんな彼と、竜の消えた森の方を見ていた。

 なんだか男は、あの生き物と話をしているように見えた。まるで普通の人間と会話をするようにして、男は竜と話ができるらしかった。


 男はさも忌々しげに、砂利の上に座り込んだままの少年を見下ろした。そして、小さく吐息をつくと、再び焚き火の前に座り込んで動かなくなった。

 少年は、何故だかわからないがほんの少し、希望と勇気が湧いてくるのを覚えて元気が出てきた。

 きっと、あの竜は、妹を探しに行ってくれたのだ。

 何故かしらないがそんな確信が、ふつふつと胸うちから湧いてくるのだった。


 少年はのそのそと、また這うようにしてその焚き火に近づいた。

 男はもう、少年を追い払う素振りは見せなかった。


「あ……のさ」


 話しかけても、男はまるで何も聞こえないかのように無反応だった。

 少年はそれには構わずに言葉を続けた。


「俺、クルト。クルトってんだ」


 やっぱり、男は無言である。


「どうも、ありがと……。そんでもって、よ、よろしくお願いします……」


 ちょっとぺこりと頭を下げると、男はちらりと目線を動かしたようだったが、その顔は不機嫌そのもので、やっぱり何も言わなかった。

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