第13話 変貌 ※


「レオン! いや、……いやあああああッ!」


 それを目にした瞬間、アルベルティーナは我が顔を覆った。

 目の前のことが、とても信じられなかった。いや、信じたくなかった。


 レオンの右目に炎をまとった剣を突きたてたアレクシスは、口角を上げてさも楽しげに、それをぐりぐりとさらに彼の頭にねじ込むようにした。

 レオンの体がびくびく痙攣し、がくりとその場に膝をつく。

 と思うと、もう次には、彼の体全体が真っ赤に燃え上がった。


「ひっ……きゃあ……あああ!」


 もう、声も出なかった。

 気を失ったレオンの着ていた軍服があっという間に黒焦げになり、皮膚が焼け爛れてゆくその様を、とても見てはいられなかった。

 アルベルティーナは自分の剣を取り落としたまま、もう這うようにして彼の体に近づいた。そして、震える手で自分のマントを外し、それでどうにかこうにかレオンの火を消しとめた。

 それでもまだ、どうにか自分もレオンも、あの水竜神の加護である青白い光をまとっていた。


「レオン……レオン! しっかりしてください、レオン……!」


 そう言っているつもりだったが、実際はアルベルティーナの喉から出ていたのは、かすれきった悲鳴のような声だけだった。

 体じゅうを酷い熱傷にやられ、右目は抉られて眼球が潰れ、レオンの姿はそれは無残な状態だった。

 アルベルティーナは自分のマントでレオンの上体を包み、そのまま胸に抱きしめた。

 気のせいかもしれなかったが、抱きしめたその体が次第に次第に、形と重みを変えていくようだった。

 その時、彼女はまだ気づいていなかったが、マントの端から少しずつ、人のものではない足がぬうっと突き出し始めていた。



 この有り様を見たミカエラも、韻律を唱えるのをやめて猛然とアレクシスに喰ってかかっている。

「アレクシス様! なにをなさるのッ……!」

「心配するな。こやつにもどうやら、水竜の加護があるようではないか。それなら、即座に死にはせんさ。あとでいくらでも、治癒の魔法を掛けてやれ」

 レオンの顔から引き抜いた剣をびゅん、と無造作にその場で振って、アレクシスがこともなげに言い放った。炎熱の刀身からは、そこにこびりついたはずのレオンの血肉がじゅうっと音をたてて霧散したようだった。

「いいから貴様は、とっとと呪いを完遂させろ。……ああ、ただし。さっきは蛆虫だなんだと言っていたが、人間にあっさり踏み殺されるような、小さな生き物は遠慮しろよ。あまりすぐに死なれても、あとあと面倒だからな――」


 頬を歪めるようにして、王太子がまだ燻っているレオンの体を抱きしめて座り込んでいるアルベルティーナを見やる。

 ミカエラは忌々しげにそんな王太子を睨んだが、時間を喰えばそれだけレオンが危険だということは分かっているのか、改めて天に向かって両腕をあげ、風竜神への語りかけを再開した。


 やがて、頭上をうずまく赤黒い雲のなかから、どす黒い竜巻の足がしゅるしゅると降りてきて、レオンを抱きしめてうずくまっているアルベルティーナの背に襲い掛かった。

 すると、彼女を包んでいる青白い光がそれに対抗するように一段と光を増した。

 赤黒い熱波、そして黒い風が、光を浸食しようとして唸り声を上げる。二竜による呪いの力が、どうにかして水竜の加護の光を食い破ろうとしているのだった。


 びゅうびゅう、ごうごうと耳元で唸りを上げる竜の魔力の拮抗する音を聞きながら、アルベルティーナはひたすらに祈っていた。


(お助けください。どうか、助けて……!)


 その時はもう、誰に祈っているのか、何を祈っているのかも分からないほどだった。

 しかし、青いマントにくるんで抱きしめた彼の頭に涙を注ぎかけながら、アルベルティーナはひたすらに祈った。


 そのときだった。

 はるか東の空の彼方から、がらがら、ごろごろと腹に響くような轟きが聞こえたかと思うと、周囲がかっと薄紫の稲妻に満たされた。

 そしてたったひと言、竜のものであるらしい、荘厳な声が聞こえてきたのだ。



《水の朋輩が娘よ。うけとるがいい――》



 それが何なのか、考えるいとまもなかった。

 アルベルティーナの全身に、びりびりとした衝撃を伴ったとてつもない力が叩き込まれて、それまでそこに満たされていた、水竜神による加護の力と混ざり合ったようだった。


 つぎには、激しい爆発が起こった。

 いや、そう思うような衝撃だった。


 アルベルティーナの体は発光し、まばゆい光がその場を満たした。

 彼女の意識を構成していた糸がすべてほぐされ、ばらばらにされ、その一本一本が激しく火花を散らして光り輝き、霧散していった。


 散り散りにされた彼女の意識は、

 その時、聞いた。


 それは、どこか遠くで、

 満足げに頷く古老たちの声のようだった。



 ……そう。

 その声たちは、言ったのだ。


 ただ、ひと言。

 温かくも叡智に満ちた、深い声音で。



 《我らが子、降誕せり》……と。







 以降、彼女にはっきりとした記憶はない。

 そこから先のことはすべて、後になって他の者から聞かされた話でしか分からなかった。

 それでもいまだに、そのからどうにかこうにか生き残った、ごく僅かの人々によって伝えられたことだけだ。


 すべては、謎だ。

 あらゆる謎は、おそらく竜たちが握っている。


 地を這う子らに、その謎が明かされる日が来るのかどうか。

 塵に過ぎない自分たちには、それすらも分からない。


 すべては、今に至るまで、

 大いなる闇と、謎とに包まれたままなのだ――。




◆◆◆




 ぱちぱちと、目の前で静かに焚き火の炎が燃えている。

 そろそろ、日没の頃合いだった。


 ここまでの話を固唾を呑んで聞いていた少年は、ほう、とひとつ溜め息をつくと、今まで身動きもせずにいた体の力を抜いた。

 そうして、もうすぐまた、あの美しい夜の姿に変わってしまうはずの女剣士の手を、隣からそっと触った。


 彼女はそれに気づいてこちらを見返すと、いつものように静かで優しい笑顔を浮かべた。でも、その笑顔は、とても悲しげなものだった。

 片目の黒馬は、彼らの座る木の根方からは少し離れた叢で立ったまま、深い翠を沈めた瞳でじっとこちらを見つめている。


 彼女と彼の、その不思議な長い長い物語は、

 そろそろ終わりを迎えようとしている。


 少年は、湯を沸かすために焚き火の上にかけている銅鍋の様子をちょっと見て、小さな木製のコップに少し白湯をつぐと、彼女に手渡した。そうしてまた、彼女のほうに向き直る。

「で? それから……どうなったの? ニーナさん」

 ニーナは礼を言って少年の手からコップを受け取ってから、少し考えるように沈黙した。

「その時、なにが起こったのか……。分かったのは、随分あとになってからでした」


 ひらひらと橙色に燃え立つ炎が、ニーナの碧い瞳の色と混ざり合う。


「その時、わたくしは恐らく、生まれて初めて竜になりました。それも、今のあの小さな姿ではなく……とても大きな、そう……あの『蛇の港』の街ほどの、白くて巨大な竜だったと聞いています」 

「えっ……」


 クルトはさすがに驚いて、隣の麗しくも優しい女ひとの顔をしばらくまじまじと見返してしまった。


「えーと……。その事件の時に聞こえたの、水竜じゃなくて、他の竜の声っぽかったよね?」

「……ええ」

 ニーナはそっと頷いた。

「思うに、あのとき聞こえたあの声は、雷竜神さまのお声だったのだと思うのです」

 クルトは目を丸くする。

「かみなり……ってことは、雷竜国ドンナーシュラークの守護竜ってこと?」


 ニーナは木の根元に横座りをし、篭手をした手にコップを持って膝の上に置いたまま、首を縦に振った。

 そうしてただじっと、昔を思い出す風情である。


「わたくしは、何も覚えていないの……。でも、その白い竜は、大きな爪の生えた手に、青いマントに包まれた黒い馬を抱いていて……そして、真っ白な光の熱を吐いて、周囲をすべて焼き尽くしたと……」

「…………」

「そして、すべてを滅ぼしたあと、大きな翼を広げて、東の空へ飛んで行ったのだという話です――」


 クルトは絶句したまま、沈んだ顔の彼女を見上げるばかりである。


「たぶん、そこにいたすべての人……、水竜国軍の兵士だった人たちも、火竜の兵も、残っていた民のみなさんも……わたくしが、焼き払ったのだと、思います……」

 ニーナの声は、訥々としていて、微かに震えているようだった。

「もちろん、アレクシスも、ミカエラも、自分の魔力を使ってすぐに逃げたものでしょう。かれらはいまだ、存命なのは明らかですから。けれど、あの時、あの場にいた普通の人たちが助かる方法など……きっと」

 彼女はそう言うと、唇を噛み締めて、ぎゅっと目をつぶった。

「ニーナさん……」

 クルトもそれ以上は何も言えずに、ただ自分の膝に目を落とした。


 大いなる、過ち。


 たとえ、その極限で、意識もないままにしてしまったことだとしても。

 それでもこの人は、その罪の意識に苛まれ、今も苦しみ続けているのだ。


(こんな、……優しい人が。)


 そう思えば、クルトも暗澹たる気持ちになった。

 そして、その後の多くのことも想像がついた。

 その事件の後、彼らは二人で、ずっとこんな旅を続けてきたのだ。

 昼と夜とに、人としての時間を隔てられたまま、ずっと。


(けどさ……!)


 でもそれは、そのひどい事件が起こってしまったのは、あの竜の眷属どもがそこまでこの人たちを追い込んで、仕向けたからこそのことではないか。

 どうしてこの人が、こんな優しい人たちがこんな罪を背負って、こんな風に人目を避け、逃げ隠れしながら生きていかなくてはならないのか。

 どうしようもなくせり上がってくる怒りを噛み殺し、クルトはまた訊ねた。


「それで? アレクシスがニーナさんを追っかけてるのは分かるんだけど、ニーナさんたちはミカエラを追いかけてるんだよね。それはなんで?」

「ああ、……そうですね」

 ニーナは少し、夕日の場所を目だけで確認してから言った。彼女が今日、人としていられる時間はもうあまりないようだった。


「呪いというのは、結局のところ、呪いびと自身の祈りのようなものなのです。その者がやがて考えを変えて願いそのものを翻すなら、その効力は失われます。……あるいは」

 ニーナはそこで、少し言いよどんだ。

「……あるいは、彼らが命を失うことになれば、自然に解ける……。ですから……」


 「ああ」、とクルトは合点した。

 だからレオンは、竜のニーナがミカエラの声を聞いたとき、彼女の姿を探そうとしていたのか。

 それは恐らく、ミカエラの命を奪うため。

 レオンにしてみれば、「せめて姫殿下の御身だけでも、もとの人としてのそれにお戻しして差し上げたい」と、そういうことなのだろうと思う。


 しかし、ニーナは見たところ、あまりそのことに積極的ではないらしい。

 もしかしたら彼女はまだ、ミカエラが翻意してくれることに期待しているのだろうか。だからミカエラに会ってまず、彼女を説得しようと考えているのだろうか……?


(でもなあ……。)


 クルトはちょっと、黒馬のほうを見やって考える。


 もしも彼女に、アレクシスの心の声と同様に、ミカエラの声も聞こえ続けているというのなら、ニーナは彼女の過去もある程度知っているということになる。

 それがどんな過去であるかは知らないが、恐らくはきっと、アレクシスに匹敵するようなひどくつらいものであるはずだった。


 この優しいニーナが、それに同情しないだろうか。


(それは……難しいよなあ……)


 そう思ってちらりと黒馬の方を見やると、馬はクルトの意を汲んだように、ふと困った風情になったように見えた。

 どうやらこの件に関しては、この二人の間でも、まだ意見が割れているのかもしれなかった。


 ミカエラを見つけて、どうするのか。

 彼女を殺すことが可能なら、話は随分と簡単なのかもしれないが。

 しかし、それは多分、ニーナの望むところではない……。


 それに、夜の間に彼女が竜の姿になることは、決して悪いことばかりではないだろう。竜には不思議な魔力があるし、レオンが怪我をしたりした場合、強力な治癒の魔法も使うことができる。

 こう言ったら失礼だけれど、ただの人間の女性でいるよりも、現状では竜でいるほうが数倍、役に立つのではないのだろうか。

 「呪い」というより、今の二人にとってそれは、やっぱり「加護」と言っていいのでは。


 へたな「蛆虫」だの、そこらの汚らしい生き物に変わるというミカエラの発した酷い呪いを跳ねのけ、それどころか二竜は彼女に、むしろ素晴らしい加護をくれたのだ。

 それはもしかしたら、ミカエラがレオンの人としての命の半分しか捧げられなかったことも理由としてあるのかも知れなかった。


 そしてそれは、恐らくレオンにも言えることだ。

 レオンは、その体の変化へんげをアレクシスによって操作された。あの男が、レオンをやっぱり人が忌み嫌うような、醜く不快な生き物にしようとしただろうことは想像に難くない。

 だから水竜と雷竜は、ミカエラよりもずっと強力だったはずのアレクシスの呪いを跳ねのけ、呪いの効力を減じて、彼をそうした醜い生き物ではなく、こんな綺麗な馬にしてくれたのに違いなかった。

 二竜の呪いを完全には退けられず、単に減じたのみにとどまってしまったのは、あちらの二竜双方に、その魔力を強化する竜の眷属の存在があったからかもしれなかった。


「で、その……ニーナさんがなった白い竜っていうのは、つまり、なんの竜なの? 水竜と、雷竜と、両方が力をくれて、ニーナさんは竜になったってことなんだよね? でも、なんで――」


 しかし。

 クルトの声に答えてくれる人は、もうそこにはいなかった。


 ころり、とニーナが手にしていたカップが地面に転がり、目を上げればもう、彼女の姿はそこから消えてしまっていた。

 そしてその代わり、落ちたカップを拾い上げたのは、くたびれた革鎧と黒いマントに身を包んだ、黒い蓬髪の、隻眼の男だった。

 その肩に、ふわりと美麗な白銀の竜が舞い降りてきてとまる。


「……あ。日、沈んじゃったかあ……」


 もはや見慣れた光景に、クルトはちょっと苦笑しただけだった。


 そうして、遂に終わりを迎えた最後の話が、男の口から語られ始めた。


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