第4話 風竜の館



 翌朝、日の光とともに人の姿に戻ったニーナは、不思議なほどに晴ればれとした顔をしていた。なんだかそれは、憑き物が落ちたみたいな顔だった。


 そして開口一番、こう言った。

「クルトさん、カール。わたくしは、雷竜国ドンナーシュラークへ参ります」

「ド、ドンナーシュラーク……?」

 クルトとカールは、ちょっとぽかんとして、白銀色の鎧をつけたその麗しい女剣士の顔を見上げた。

「あの、姫殿下。それはいったい……」

 カールは目を白黒させてそう言った。


 昨夜、水底から吹き上げてきた水と一緒に水竜神の懐から戻って来た竜のニーナは、まっすぐにクルトの腕の中へとびこんできて、そのままことんと眠ってしまった。それはなんだか、持っている力のすべてを使い果たしたような感じに見えた。

 「碧き水源」の水辺で、その水の中に吸い込まれて行った竜の姿のニーナを待って、クルトはカールと共に恐らく数刻もその場所で待っていたのだ。

 クルトは彼女を布にくるんで抱いたまま、カールと一緒に湖のほとりで一夜を明かした。


「水竜のお義父様とうさまが、そのように仰せだったのです。雷竜神様のもとへ参って、わたくしにはこれから、やるべきことがあるのだと」

 「碧き水源」をとりまく山並みの稜線から差し込んでくる朝日を受けて、ニーナの顔は明るく輝いているようだった。

 ニーナはそれが、水竜と雷竜の望みであり、今この大地に生きる人々の命を守るためにも必要なことなのだと説明してくれた。それはつまり、あの「竜の眷属」である二人の者の力に対抗するためということである。


「わたくしも、そうしたいと思います。この五竜大陸に生きる人々のため、わたくしのような者にもできることがあるなら是非とも働きたいと、そう思っているのです」

 クルトはついぼうっと、その毅然としつつも美しい女性の横顔を見上げた。


(そっか……)


 ニーナはもう、後ろは向かないことに決めたのだ。

 レオンとのことが悲しくないなんてことは、絶対にないのだろうけれど。

 あんな女に、だまくらかされるようにして奪われたあの精悍な男のことを思えば、きっと今でも胸が痛むのだろうけれど。


(でも、あきらめないんだな。)


 彼女は希望を捨てていない。それどころか、この大陸の人々のため、自分の力を使って働きたいと言っているのだ。

 きっとそれは、クルトには分からないことだったけれども、レオンの願いでもあるのだろう。二人の思いも、心も、こんなことで簡単に切れたり離れたりするようなものではないのだ。

 きっと、そうなのだ。

 その顔を見て、そう思った。


 クルトは朝日が差し込むように、自分の胸も浮き立つのを覚えて言い放った。

「んじゃ、俺もついてくよ。いいよね? ニーナさん」

 思い切り胸をはり、ニーナを見上げる。

「あっ。もっ、もも、勿論、俺も行きますよ! 姫殿下のお供をするのが、陛下から賜った、今の俺の仕事なんですからね!」

 隣に立っていたカールも慌てて言った。

「え、でも、みなさん……」

 ニーナが困ったような顔になってなにか言おうとしたが、クルトは即座にそれを遮った。

「あったりまえだろ? だって俺、ニーナさんのこと、レオンから頼まれてるんだからな!」

 そう言った途端、ニーナがはっと一瞬だけ、暗いものをその瞳に閃かせたようだった。しかし、彼女は何も言わずに、すぐにその頬に笑みを浮かべた。

 痛々しい笑みだったけれども、クルトはそれには気づかない振りをした。

「ニーナさんの『護衛』って言うなら、俺がまっさきについてくって決まってるんだからな! カールのおっさんは、どうしてもって言うなら、まあついて来てもいいぜ?」

 へん、という顔で見上げたら、カールがあからさまに嫌そうな顔になった。

「なに言ってんのよ、この餓鬼は……。へいへい、どうせ俺は新参者ですからね。二番手でも三番手でもいいけどさ、この際……」

 寝起きでまだ寝癖のついている赤毛をもしゃもしゃ掻きながら、カールが辟易した顔になり、ニーナとクルトは声をたてて笑ってしまった。


 「碧き水源」を照らす朝日が、三人の行く手を寿ぐように、雲の隙間から爽やかに光の矢を落とし込んでいた。




◆◆◆




 さて。

 レオンたちはいま、風竜国フリュスターンのとある場所にいる。

 ニーナたちと別れたのち、皆はミカエラの「跳躍」の魔法によって一足飛びにこの国へと戻ってきた。そして、彼女が水面下ですでに参集させつつあった現王権排斥派の貴族らや商人たちなど、反政府分子である面々に引き合わされることになったのだ。


 ここは、王都からは少し離れた郊外に建つ、なかなかの大きさの別荘の建物である。聞けば、ミカエラが身分を詐称して潜り込んでいる貴族の家の持ち物のひとつだとかいう話だった。

 ミカエラの弁によれば、これは「風竜の眷属」の魔法によって関係のない外部の者からは目隠しされている物件だということで、隠れ家としては非常に都合がよかったのである。

 もともと貴族の持ち物だということで、屋敷は広さも十分にあり、至極快適なものだった。


 ともかくも、その夜、その屋敷の広い応接の間に、男たちは集まっていた。

 こちらはレオンとアネル、そしてファルコの三名だ。なお、あのミカエラはこの場にはいない。

 実は、基本的にこういった場にミカエラ自身が顔を出すということはほとんどない。彼女は飽くまでも裏で事態を動かす立場にあり、表に顔を出すことを好まなかったからである。また、過去のなにがしかの事情があって、ミカエラはどうも、男らに会うのを忌避しているようなのだった。

 レオンのことだけは例外なのだが、どうも彼女は、男という生き物全般に対してある種の嫌悪感が強い女であるようだ。



 今、レオンはミカエラやアネルの強い勧めもあって、もともと着ていた古ぼけた革鎧ではなく、風竜国の王族が着る軍装に準じる形の、濃緑色に金糸の縫い取り飾りのついた凛々しい姿になっている。

 そこに黒いマントを流した姿は、アネルが思わず涙ぐんでしまったほどに、父、ヴェルンハルトに生き写しであるらしかった。

 集まっていた貴族らは、その姿で応接の場に現れたレオンを見た途端、「おお」と言ったきりしばらくは声も出ず、まじまじとレオンの姿を凝視するようにしていた。が、やがてはっとしたようになってひざまずき、臣下としての礼をした。

 それはもう、彼が身の証として、「風竜の指輪」を出すまでもないかのようだった。


「ああ、どうか。自分は父ではないのですから」


 もう涙を流さんばかりの様子で必死にこちらに頭をさげ、慇懃いんぎんきわまりない様子で臣従のていを貫く年上の貴族たちに、レオンは何度もそう言った。そして、どうにかして彼らの頭を上げさせようとした。

 自分にはまだ、そんな資格があるとは到底思えなかった。

 しかし、レオンのそんな態度を見て、彼らはなお一層、頑強にその頭を上げたくないといった様子になるのだった。


「いえ、とんでもないことにございます!」

「も、勿体無きこと、この上もなく……!」


 傍らに立ち、彼ら貴族とレオンとの間でそれを見守っている養父アネルも、彼自身が涙ぐむようにしながら、非常に嬉しげな目でそんなレオンを見つめていた。



 応接の間にはいま、レオンとアネル、ファルコのほかに、参集した反乱分子の頭目らが顔をそろえている。彼らは、全部で十数名ばかりいた。

 ここに集められた男たちは、基本的にはアネル――もとの名はエリクだが――との知己が多い。まずはアネルがミカエラを通じて彼らとの接触を図り、その上で今夜はここで、この秘密の会合が持たれることになったのである。

 当然ながらその顔ぶれは、もとは先王、ヴェルンハルトに重用されていた重臣の子や、その親族らが多くなっている。

 やがて、最初の感動の奔流がややおさまってきたところで、アネルが皆に席を勧め、男らは銘々に席に着いた。


 レオンの最も近くに座った目つきの鋭い中年の男は、名をコンラディンと言った。がっしりとした体格に、太い眉。意思の強さと剛直さを感じさせる出で立ちである。

「お目にかかれて、誠に恐悦至極にございます、王太子殿下。ご存命であられるとの噂をお聞きしましたときには、この臣が、どれほどの喜びに満たされたことか、決してお分かりではありますまい――」

 男の声は朗々として、広間によく響いた。

「王家の御印みしるしたる『風竜の指輪』を拝見した時にはまこと、全身の毛が逆立ち申しました。まことに、喜ばしき限りにございまする」

 彼の家はもとは侯爵家であったものが、先の国王抹殺事件の折、降格を余儀なくされて子爵とされ、今は風竜国の辺境にあって、痩せた狭い土地をあてがわれ、ほそぼそと暮らしているのだという話だった。


 コンラディンの隣には、ベリエスというもう少し若い貴族も座っている。

 彼の家はもと伯爵家だったのだが、今ではもはやそのような階級は意味をなさないほどに落ちぶれてしまっているとのことだった。いまや彼自身がすきくわを手に農作業にいそしまなねばならないほどに困窮しているのだという。

 ベリエスの顔は、まださほどの年齢がいっているわけでもないはずなのに、真っ黒に日焼けをし、皺が幾重にもきざまれた、年季の入った農夫の顔そのものだった。


(……随分と、苦労をしたのだな)


 特にベリエスという貴族のごつごつと農作業に慣れてしまった手や、風雪に耐えてきた相貌を見ながら、レオンは思う。

 ひとくちに二十年とは言うが、その間に起こった様々の彼らの艱難辛苦かんなんしんくを思えば、それは単なる年月だけの話ではないはずだった。


 べつにこの男らの家に限らず、あの時、ヴェルンハルトにくみしていた貴族の多くは、そのようにして落ちぶれ、家によっては離散の憂き目を見たのだという。

 それでも、男たちはまだ良かった。文武の才のある者たちは、矜持を傷つけられることとはいえ、他の貴族の家に召し抱えられたり、商人の家に雇われたり、婿に入ったりなどして生きてゆくすべもないではない。


 しかし、女たちは悲惨だった。

 土地を取り上げられた貴族らは、いきなり収入の源を奪われて困窮し、家財を売ってしばらくは食いつないだが、やがて売るものがなくなると、やむなくその娘たちを「売る」ようになった。

 すなわち、貴族の家の子弟らへ、妻としてあるいは側妾や愛人として娘を差し出し、その見返りを得た。しかし、そのような待遇ならまだましだった。娘たちはそこで飽きられると、そのうちの多くがいともあっさりと娼館へ売られることになった。

 もちろん最初から、そうした人身売買を生業とする者の手へ娘を引き渡さなくてはならない貴族も多かった。親たちはみな泣く泣く、娘を手放さねばならなかった。

 今では、当時貴族の家に暮らしていた娘たちがどこでどうなってしまっているのか、消息をつかむことも難しいのだという。

 もちろん、農家に嫁入りするなどできた娘もいたにはいたが、これまで蝶よ花よと人にかしずかれて生きてきた良家の娘が、いきなり農作業をこなせるはずもなし、それはそれで相当の苦労を重ねることになっただろうことは想像に難くない。


「……そうでしたか」


 レオンは彼らのするそれら長年の苦渋の話を、暗澹たる面持ちで聞いていた。


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