第9話 薫風

 そして、「春の宴」の最後の宵がやってきた。

 レオンは当初の予定通り、いつもの持ち場で大広間の円舞する人々を眺めながらの警備についている。


 今日は宴の三日目の夜ということで、これまでは入れ替わり、立ちかわりしていた王族や招かれた貴族ら一同も、みなこの場に顔をそろえていた。

 隣国の「侯爵夫人クラウディア」としてこの宴に参加している雷竜国の王妃ティルデも、あの侍女の少女を伴って、今は広間の隅にある、酒や料理の供される席につき、楽しげに円舞を見守っている様子である。

 そのお顔はごく晴れやかだった。こちらで警備に立つレオンとふと目が合うと、彼女はさりげないながら、なんとも嬉しげに優しく微笑んでくださるのだった。そのお顔にはなんの底意もなく、ただただ喜びが溢れているだけだった。

 ティルデ王妃のそんなお顔を見て、レオンは少し安堵していた。


 少なくとも、今回の水差しへの異物混入に、あの王妃は関係ないということだろう。

 実際に手を下したのがその側に居る少女であることはもはや明白だったが、もしもその主人であるレオンの実の叔母が裏で糸を引いていたのだとしたら、さすがのレオンでもなにかやるせない思いは拭えなかったことだろうと思う。


 問題の少女、侍女のミカエラはと言えば、いつもの侍女の着る濃緑色のワンピースに白いエプロン姿だったが、レオンの姿を認めるなり、少しぎょっとしたように凍り付いて、しばらくこちらを凝視していたようだった。

 その顔は明らかに、「どうしてここに」と問うている。


(……やれやれ。)


 彼女とて、そうは言ってもまだ十五かそこいらの小娘なのだ。こんな不意打ちを食らってしまえば、なかなか表情でまでは嘘のつけないところは、まだ可愛らしいとも言えるのかも知れなかった。

 が、そうだとしても、うすら寒い思いは禁じえない。

 彼女は少なくとも今この瞬間、レオンがあのカールのような状態でいることを望んでいたには違いないのだ。

 しかし、その動機については、レオンの予想の範囲外だった。


 そう、その瞬間が来るまでは。



◆◆◆



「それでは、遂に今年の宴も、最後の宵、最後の踊りと相成りました――」


 王から今年の場を仕切る役目を賜っている文官長の中年男が、弦楽隊の演奏を一度やめさせ、場を静まらせてからそう宣言すると、それまでざわついていた大広間は急にしんと静かになった。

 心なしか、場に集う貴族の若い子弟らが、背筋を伸ばして緊張した面持ちになったようである。

 それもそのはずだった。

 王女アルベルティーナがその踊りの相手を指名する、この最後の踊りこそ、この宴の主眼とも言うべきものであり、貴族の男子らなら誰しもが、そのお相手を務めたいと願うはずのものだったからだ。


「アルベルティーナ姫殿下、どうぞ、お相手をお選びくださりませ――」


 文官長の声を受け、雛壇の上、玉座におられたミロスラフ王とその隣に座っておられるブリュンヒルデ王妃の傍らから、今日は淡い桜色のドレスを身に纏ったアルベルティーナ姫が軽やかな足取りで段を下りてこられた。

 その姿は、なにかとても嬉しげだった。頬が紅潮し、ただうきうきして見えるのは、これからの「豊穣祈念の踊り」について、それだけ楽しみにされていたからということのようだった。

 まあ、いずれにしてもそんなもの、レオンには関係のない話ではあったけれども。


 レオンはただ黙って、普段どおりにその場に直立不動の姿勢のまま、事の顛末を見つめていただけだった。

 今まで同様、ここに集った貴族の青年のなにがしと姫が、また手に手を取って踊る姿を眺めさせられる。レオンにとっては、この「春の宴」そのものが、一から十まで、ただそれだけの話だった。


「……オン」


 だから、レオンははじめ、アルベルティーナ姫のその言葉を聞き逃した。


「近衛隊、下級将校レオン。……いないのですか」


 よく通る涼やかな少女の声が、しんと静まり返った大広間に響いた。それは耳に入ったけれども、レオンはしばらく、その意味を理解することができなかった。

 やがて、広間にひそひそと人々の声がし始めて、初めてその違和感に気付く。


(な、……に?)


 さきほど聞こえてきた音声をあらためて何度か耳の奥で反芻してみて、レオンはそれがようやく、自分の名であることに気がついた。

 思わず呆然と広間の中央を見やると、そこでとても困った顔で真っ赤に頬を染め、立ち尽くすアルベルティーナ姫と目が合った。気のせいかも知れなかったが、その目が彼女らしくもなく、ちょっと泣き出しそうになっていた。


「あ、……はい。ここに」


 慌ててひと声そう応え、レオンは周囲の人々に会釈をしながら前に出た。

 それでもまだ、レオンはまさか、自分が踊りの相手に指名されたのだとは思っていなかった。姫の身に、何か急な、困った事情でも発生して、助けを求めているのだろうかと考えたのだ。

 周囲を取り巻く着飾った貴族の男女が、さあっとレオンの前に道を空ける様子だった。心なしか、おもに若い青年貴族連中から、こちらに向かって突き刺さるような視線が飛んできていた。


 二十歩ばかり進んで、アルベルティーナ王女の前へ出ると、レオンはその場に片膝をついて頭を下げた。

「お呼びでございましょうか、姫殿下」

 常の警護のときとなんら変わらず、「お召し」に預って参じたていいらえを返す。

「なにか、不首尾でもございまし――」

 が、それは最後まで言わせて貰えなかった。姫殿下はすっとたおやかな手をこちらへ差し出し、にっこり笑って言ったからだ。


「どうぞわたくしと、祈念の踊りをご一緒してくださいな」

「…………」


 有無を言わさぬ言い方ではありながら、その時の、姫の嬉しげな顔といったらなかった。

 勿論、この場での姫の求めには、誰であろうと、決して逆らってはならない。

 そのことはレオンも理解していた。

「……は」

 レオンは少し逡巡したが、覚悟を決め、やがて下から姫のお手を取って、頭を下げてから立ち上がった。


 楽団が、祈念の踊りのための楽曲を奏ではじめる。

 まさか自分から抱き寄せるわけには行かないので、レオンは遠慮がちに、軽く姫の身体に腕を回した。ところが姫殿下のほうでは、素早くレオンの手を取って力を籠めて握り締め、細い腰をすっとレオンの身体に寄せてこられた。まるでそれが、当然のことででもあるかのような様子だった。

 驚いて見下ろせば、もはやまぶしいほどの、輝くような微笑みが、じっとこちらを見上げていた。


(……血にまみれた、こんな手で。)


 この人の、この笑顔を守るためだったとはいえ、自分はすでに人の命を奪うことに手を染めた人間だ。

 いや勿論、兵士である以上は遅かれ早かれ、そうした立場になるのは分かっていたことだったし、当然、前々から覚悟もしていたことだったけれども。

 しかし、まさかレオンもこんな大切な場で、そんな手で、このような清らかな方に触れていいとは到底思えなかった。けれども、一応は士官のつける白い手袋をしていることで、そこは許していただくほかはないかと、己を納得させるしかなかった。


 幸い、あの腹を壊したカールとの練習の成果もあって、踊りそのものは概ね滞りなくこなすことができた。

 アルベルティーナ姫はまるで重みを感じさせない足取りで、まさに春風の精のようにかぐわしい微笑みを乗せたまま、人々が大広間の中央に丸く包んだ空間の中を、くるくると華麗に踊り続けた。

 周囲を囲む人垣の中からは、先ほど来と変わらずに突き刺さってくる青年貴族らの視線とともに、ほう、とあちこちから溜め息ももれ聞こえた。


 と。


(なんだ……?)


 それら青年貴族らのものとは段違いの、恐るべき殺気のようなものを感じ取って、レオンは背筋をぞくりと駆け抜けるものを覚えて眉を顰めた。

 くるりくるりと、姫と身体を入れ替えて踊りながら、その視線のあるじを目の端で探し続ける。

 その人物は、すぐに知れた。

 いや、ある意味、それは当然の人物だった。


(そういう、ことか――)


 ここへ来て、レオンはやっと理解した。


 雷竜国ドンナーシュラーク王妃、ティルデの傍ら。

 侍女の姿をした黒髪の侍女の少女が、唇を噛み締め、蒼白になり、その菫色の瞳を爛々と燃え上がらせて、こちらを凝視して立ち尽くしていた。

 その眼光は、まごうかたなき殺気そのものを乗せている。その視線は、レオン自身をと言うよりは、今まさに彼の腕の中にあり、輝くような笑みをたたえて踊っておられる、アルベルティーナ姫殿下を、ぎりぎりと睨み据えていたのだった。


 レオンが踊りながらもちらりと雛壇の上におられるミロスラフ王の方を見やると、王は玉座に座られたまま、「分かっている」と言うようにさりげなく首肯された。それはいかにも「大事ない」といったご様子で、姫との踊りを続けるようにと促しておられるようだった。


 腕の中のアルベルティーナ姫は、可愛らしいほどに頬を上気させたまま、ずっとにこにこと楽しそうだった。彼女は本当に、このままいつまででも踊っていられそうなほどに嬉しげだった。

 やがて、楽曲がみなで連なって踊る円舞のためのものに変わって、周囲の貴族や貴婦人たちがその踊りの輪に入り始めた。ここからは、皆で踊るのが毎年の慣例なのだ。


 ふと見れば、あの侍女の少女の姿はその場から消えていた。

 姫殿下があの恐ろしい少女の視線に気付かずにいてくださったのは幸いだったが、そう思って少し厳しい顔になったレオンのことには、彼女はすぐに気が付いたらしかった。

「どうしたのです? レオン……なにかありましたか?」

 不思議そうに、その澄んだ碧い瞳に見上げられて訊ねられ、レオンは僅かに首を横に振った。

「……いえ。なんでもございません」

 すると、姫は少し顔を寄せ、ごく小さな声で、そっと囁いてきた。

「本当に、踊りは初めてなのですか……?」

「はい、お恥ずかしながら。無粋なことで、まことに申し訳ございません――」

「あら、ごめんなさい。そうじゃないの。とても上手よ、レオン。それもこれも、カールのお陰ね――」

「はい。奴には感謝しております」

 表情を変えないままそう応えると、姫はちょっと苦笑したようだった。

「彼にはわたくしも、お礼を言わなくてはいけませんね? レオン――」

「は。是非とも、そうしてやって頂ければと」

 腹を壊してまだ床の上でうんうん唸っているあの青年が、このことを聞いたらさぞや喜ぶだろうと思った。

「…………」

 そこで少し、姫殿下は沈黙された。


 どうされたかと思ってちらりと見れば、少し不満げな顔でじっと見つめられていて、動揺する自分を意識した。

「あの、何か――」

「わたくしには?」

「……は?」

 唐突にそう言われて、目を二、三度、しばたたかせる。

「毎年、この最後の踊りに指名された殿方は、それはもう、大変なのよ? 何度わたくしにお礼を言ってくださることか。それはもう、本当に本当に、みなさま、嬉しそうにしてくださって――」

 言葉の裏に、明らかに「それなのに貴方ったら」という、こちらを詰る色を見て取って、レオンは「ああ」と理解した。

 そして、姫の身体から手を離し、動きを止めた。

 踊り続けている周囲の人々の邪魔になるので、彼女の手を取り、さりげなく輪の隅へと移動する。


 それから、姫に向かって改めてこう言った。

「申しわけございません、姫殿下。……あまりのことで、つい失念しておりました。ご無礼をお許し下さい」

 改めてその場で姫に深く礼をする。

「このたびは、卑賤の身である自分などに、このように晴れがましい場でお声掛けくださり、まことに有難うございました」

「……どこのどなたが、『卑賤の身』などでいらっしゃるの?」

「……は」

 怪訝に思って見上げると、姫殿下はさも可笑しそうに苦笑していた。そうしてそっとレオンの耳に口を寄せると、口許を片手で隠して、他の誰にも聞こえない声でこう囁いてくださったのだ。


「こちらこそ、わが国の豊穣祈念の踊りにお付き合いくださいまして、まことに身に余る光栄でございましたわ。……風竜国フリュスターン王太子、レオンハルト殿下――」


 そう言って、アルベルティーナ姫はしとやかにドレスの裾を少し持ち上げて貴婦人の礼をすると、悪戯っぽい光をその目に浮かべてレオンの手を取った。

 それは、優しく温かな微笑みだった。

 春風の精にも喩えられるその美しさにも相まって――いや、彼女の容姿がどうだからということは、この際どうでもいいことだった。


(姫……殿下――)


 レオンの胸に、先日、自分のまことの出自を知らされたあの日にあいてしまった風穴のようなものの中に、今まさに温かな薫風が吹き込んで、ゆったりと満たされてゆくような感覚があった。

 自分の指先をとらえている彼女の華奢なその指を、レオンは思わず、力を籠めて握りかえしていた。


 その時、自分の胸に溢れたその想いに、名前があることは知っていた。

 しかしレオンは、たとえそうだとしても、それを名づけようとは思わなかった。


 この方の、そばにいる。

 たとえどんな立場であろうとも、このお方の側にいて、この方をお守りし続けたい。

 ……その笑顔を、守りたい。


「さあ。祈念の踊りは、まだまだ続きます。ちゃんと最後まで、お付き合いくださらなければ。……ね?」


 彼女のそんな誘いの言葉に、否やなど言うわけもなかった。

 レオンは姫に手を引かれるまま、再び賑やかな円舞の輪の中へと、彼女とともに歩み入っていったのだった。

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