第2話 竜の魔法

 翌朝、鳥たちの声でクルトが目を覚ますと、いつものように傍らには、ニーナと例の黒馬がいた。

 基本的にこの二人は、自分たちの姿が変じるさまをクルトに見せようとはしない。

 朝の光が木の葉の形に切り取られ、ちらちらと周囲の森の幹を照らしていた。


「……あ。クルトさん……」


 馬のほうは特段、いつもと比べて変わった様子はなかったのに、ニーナはクルトと目が合ったとたん、必死に普通の顔をしようと努力しつつも、あっという間に真っ赤に茹で上がってしまった。


「お、おはよう、ございます……」


 蚊の鳴くような声とは、まさにこれだ。

 彼女の努力は、この時点で完全に失敗に終わっている。

 そんなニーナを見て、クルトは逆に、一気に昨晩のことを思い出し、彼女以上に真っ赤になった。


「え、えっと……うん、お、おはよ……」


 思わずばりばりと頭を掻き、あまりニーナの顔を見ないようにしながら、クルトは顔を洗うために近くの小川に下りていった。


 朝食の間も、その後の行程でも、ときおり必要な会話をちょっとする以外、二人の間にはなんとも気まずい沈黙が流れ続けた。

 ちなみに、馬は至って平気な顔である。今は少し険しい山道のため、ニーナは引き馬をしていることが多い。岩などの多い、余りに険しい場所で無理をすると、馬が足を傷めるもとになるからだ。


 とは言え、たとえ怪我や病気などになっても、夜、ニーナがあの白い竜になりさえすれば、その魔力によって大抵のものは治癒できるらしかった。

 考えてみれば、山賊にあれだけひどい傷を負わされた上、川に落ちて死に掛かったはずのクルトがその後とくに問題もなく走り回れたのも、竜の姿をしたニーナのお陰だったということらしい。

 あの時、胸の上にいた竜から感じた不思議に温かな感覚は、竜から流れ込んできた治癒の魔力そのものだったようなのだ。


 先日、その馬から豪快に振り落とされたクルトだったが、その後ニーナの熱心な説得のお陰もあって、今ではどうにかこうにか、彼女と一緒にならその背に乗せてもらえるようになっている。

 そういえば、蹄鉄などはどうしているのかと聞いてみると、それは時折り、剣ともども村の鍛冶屋に手入れをお願いすることもあるという話だった。

 二人ともに言えることだが、姿が変わると、当然、つけた装備なども変化する。黒馬の場合、その鞍やらあぶみやらくつわやらといった馬具一式が、そのまま男の着ている革鎧やマントといった装備一式ということになるらしかった。


 水筒そのほかの持ち物についても同様で、姿が変わる直前に身につけていたものは、そのまま形を変えて身につけているていになるらしい。どういう仕組みだかはさっぱり分からないが、それについては二人も似たような認識であるらしかった。

 このあたりも、ニーナは詳しくは語らなかったけれども、クルトの思うに、「魔法」と呼ばれるなんらかの力が働いているようである。


(魔法……かあ。)


 気恥ずかしくてニーナとあまり世間話もできない状況なので、クルトはついつい、歩きながら考えごとに耽ってしまう。

 今までは、自分の生活に直接関わりのあることでもなかったので、「魔法」と呼ばれるものについて、クルトはほとんど興味もなかった。


 「魔法」は、この地にあってはあの神竜たちの専売特許だ。

 人の身で魔法を用いる者、それを職業のようにしている者らもいるにはいるが、それはごく少数であって、ほとんどは各王家に召し抱えられ、普段、一般の民が目にすることなど滅多にない。要は、彼らはこの世界での上流知識階級とでもいった者らなのだ。


 魔法を扱うとはいっても、人間に魔法を使う能力があるというのとはちょっと違う。

 彼らはこの地のあちこちに残された竜たちの遺物、つまり鱗だとか爪や牙の欠片だとか、そういったものを探し出し、素材にして、そこに残留した魔力を抽出し、練り上げて、人に使いやすい形にするぐらいのことなのだ。

 例えばそれは、霊験あらたかな神薬といったようなものになる。

 もちろん、頭に馬鹿がつくほどの高値の品だ。どの薬も、クルトのような一般庶民が目にすることなど一生ないような代物ばかりである。

 基本的には、王家やそこに近しい貴族たちだけが用いるような貴重品だ。



 竜と各王家とは、切っても切れない間柄にある。

 そもそも、この地のいにしえの伝説によれば、それぞれの王家はその国を守護する竜たちの直系の子孫ということになっている。

 それぞれの国は、それを守護する竜の姿を意匠とする旗を擁し、抱える魔術師らもそれぞれの属性の魔法を得意とすることが多い。

 竜と話ができるのも、王家の血を引く者に限られるとも言われている。それも全員ではなくて、数百年に一度ぐらいの頻度で現れる、特にその才能に長けた者に限られるのだという話だった。


 これらのことは、村の年寄りらの話を普段聞き流しているだけだったクルトですら知っているようなこと、つまりはこの世界の常識である。

 いま、クルトと旅を共にしているこの二人にも、間違いなくその竜の魔法が関係しているに違いなかった。それもおそらく、相当に稀有なものだろう。

 いったい過去に何があって、二人がこんな身の上になってしまったのか。それが気にならないと言えば嘘になる。しかしそれは、ほんの数日彼らに関わっただけのクルトが遠慮もなしに聞けるはずもないことだった。

 もしもクルトが彼らの立場でも、そうそう話しはしないと思う。

 だからクルトは、最初にレオンに訊ねて以降は、彼らにこのことを突っ込んで聞くことはしていない。



 やがて、昼近くになって水筒の水を取り替えるなどするために再び川辺におり、馬が二人の近くを離れた折を見て、ニーナがクルトにそっと囁いてきた。


「あの……クルトさん。昨夜はその……ごめんなさいね」

「え? ……あ、えーと……うん。いや……」


 またその話を蒸し返されて、クルトは改めて耳が熱くなった。そんなことを真面目な顔で謝られても、なんと返せばいいのやらさっぱり分からない。

 ニーナはいたたまれない気持ちを隠すことも出来ないようで、やっぱり少し頬を赤らめて、組み合わせた指をもじもじさせながら項垂れていた。


「彼に、叱られてしまいました。『子供連れになったのだから、もう少し気を遣うように』と……。本当にもう、ごめんなさい――」

「え? あのおっさん、ニーナさん叱ったりできんの? ほんとかよ?」


 話の内容どうこうよりも、クルトはそのことに驚いた。

 いや、きっと「叱った」なんていうのはニーナ個人の見方だろう。どうせ実際は、「相当やさしくたしなめた」ぐらいなことに決まっている。

 あの男、こと、このニーナ相手になると、もう滅茶苦茶に、ちょっと救いがたいほどに優しいのだから。


(どんだけ惚れてんだよ。……あっほらし。)


 そう考えて、半眼になる。

 なんだかもう、クルトですらも呆れてしまう。

 いや、もちろんクルトだって、レオンの気持ちが分からないわけではない。というより、一応は同じ男として、ある意味、分かりすぎるぐらいに分かる。


 ニーナは、その容姿は勿論だけれども、その心根がとても綺麗な人だと思う。ほんの数日関わっただけのクルトですらそう思うのだから、恐らく何年も彼女とつきあってきているレオンなら、もっとそうに違いない。

 レオンがどのぐらい面喰いかなんて知らないが、やっぱりそれは、見た目でなくて中味に由来するはずだ。

 しかし、それが分かれば分かるほど、クルトの胸はしくしくと痛み出す。

 その痛みの理由がなんだかは、やっぱりわからなかったのだけれど。


「ね、ニーナさん。こないだ村で買ったアレ、貸してくんない?」


 無駄に考え続けていても仕方がないので、クルトはぱっと話題を変えた。

 そうして、ニーナから求める物を借り受けると、にこにこしながらあの無愛想な黒い馬に近づいていったのだった。



◆◆◆



 そして、夜。

 暗くなっていつもどおり、ぬっと現れた男をひと目みて、クルトは一瞬で吹きだした。そしてそのまま、地面の上で腹を抱えて笑い転げた。

 男はなにか、むっとした顔でそんなクルトを睨み下ろしている。


 昼間、ニーナから馬の身体の埃を払ったりするブラシを借りて、クルトは黒馬の手入れをしたのだ。

 勿論、馬は嫌がって、早々に逃げる素振りをしたのだったが、ニーナにすかさず「暴れてはいけませんよ」と窘たしなめられ、じっとしているよう命令されてしまったのだった。

 いや、それは妥当な命令だった。馬がそんな大きな図体で至近距離で暴れたら、小柄なクルトなどその拍子に、簡単に蹴り殺されてしまいかねない。少し足など踏まれただけでも、即座に骨折の憂き目を見る。彼女の言い分はもっともだった。


 その手入れがやっと終わって、女剣士はとても満足そうに笑っていた。

 黒馬の身体は日光を受けてつやつや光り、たてがみくしけずられて、それはどこの貴族の持ちものかと言うような、立派な姿になっていたのだ。

「あら! とっても綺麗にしてもらったのですね。良かったですね、レオン」

 と、あの女剣士は心から嬉しげに言ったのだったが。


「ぶ、っはははは……あは、あはは……」


 今、クルトは男の足もとで、痛む腹を抱えてなお転げまわっている。

 ぼうぼうだったはずの男の黒髪が、綺麗に整ってつやつやになり、なんと今、さらさらと夜風に靡いているのだ!


「お、……おお、おっさんて、けけ、結構、いい男だったんだ。っは、うっひゃひゃひゃひゃ……」


 クルトはもう、ばんばん地面を叩いて涙を流し、息も絶えだえに喘いでいる。


「そ、それなら確かに、『おっさん』は、か、か、かわいそーかも……!」


 そうなのだ。

 あまり身なりや何かに構わない男なのはわかっていたが、きちんとすればこの男、実は相当の美形だった。

 いつもは本当にばさばさの蓬髪で、しかも顔半分を眼帯がわりの黒革に覆われているために、下手をすると顔立ちもよく分からなかったのだけれど。

 これでちゃんとした貴族風の装いでもしたら、どこぞの国の王子様だとか言われても、誰も疑わないかも知れない。


「…………」


 相変わらず足もとで笑い狂っているクルトを冷ややかな目で見下ろして、男はしばらく無言でいた。が、やがてさも忌々しげに、その髪を元通り両手でぐしゃぐしゃにしてしまったのだった。

 頭の上で木の枝にとまり、それを見ていた小さな竜が、なんだか非常に残念そうな目で、そんな男を見下ろしていた。

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