第二章 怨嗟
第1話 声
『きらい。……嫌い。だいっきらい――』
夜風に乗って、狂おしい女の声がする。
小さな竜は、愛しい男の膝の上で、ぴくりとその頭をあげた。
『あの女、絶対に許さない。わたくしの邪魔をして……』
竜はそっと、悲しげにその碧い目を曇らせた。
『彼の、心を奪うなんて。彼は、わたくしのものだったのに……!』
狂気を孕んだその思念が、あちらの梢、こちらの梢へと飛び違い、霧散し、また収斂しては駆け抜けてゆく。
竜がそっと身を起こすと、片方しかない目を閉じていた男が囁いてきた。
「……姫殿下。いかがなさいましたか」
ぴるるる、と返事をすると、男ははっとしたように彼女の体を抱き上げて立ち上がった。その目には、すでにいつもの鋭い光が宿っている。
あの日以来、この男がきちんとした睡眠を取るということはない。
夜は、この男の世界だ。
そして夜は、彼の狩りの時間でもある。
「参りましょう。どちらですか」
言って、いつものように走り出そうとした男を、竜は低く鳴いてとどめた。
今夜から、自分たちは二人きりではなくなったのだということを、彼に思い出してもらうために。
彼がはっと足を止め、低く舌打ちをしたのが聞こえた。
彼の傍ら、木の根元には、小さな体に掛け布をぐるぐる巻きにしてぐっすりと眠る少年がいる。
彼女が止める間もなかった。男は即座に、その小さな体に容赦のない蹴りをくれて、もう低く言い放っていた。
「起きろ。走るぞ」
「え、……えっ……?」
いきなり蹴り起こされて、少年は飛び起き、ぼさぼさの頭できょときょとしている。少年の
普段は澄んだまっすぐな光を放つ、彼の大きな鳶色の瞳が、いまは眠気でまだ半分夢の中にいるようだった。
竜の瞳は、夜陰の中でもよく見えるのだ。
竜は少年の肩まで飛び下りて、ぴるぴるとその耳もとで優しく鳴いてやり、彼の目を覚まさせた。
「なに……? どしたの??」
まったく事情が飲み込めていない少年に、もはや男はどやしつけるようにして荷物を担がせ、次にはもう後も見ないで走り出した。
竜の魔力の加護があるとはいえ、素晴らしい脚力だ。
竜はその頭の上を、うねる梢を縫うようにして羽ばたいてゆく。
「わ、わわっ……ちょっと、まってよ!」
少年が泡を食った顔になり、必死に彼についてゆく。
いつもなら、ただ心の塞がるようなこの追跡も、この小さな明るい命と共になら、少しは気が晴れるような気持ちがした。
男は自分の、そういう気持ちに気付いている。
そうでなければいくらなんでも、あの宿でああまで容易く少年の同行を許してくれたはずがなかった。
彼が一度「駄目だ」と思えば、それはどんなことをしても、何を言っても、決して許してもらえることでないのは、竜もよく知るところだ。
こんなに無愛想で、人からはただ無骨でぶっきらぼうにしか見えないだろう男だけれども、竜だけは知っている。
こんな優しい男はいない。
そうでなければ、こんな姿になってしまった自分と共に八年も、これほどまでに過酷な旅を続けようなどと思うわけがないのだから。
あの少年の父母や、村人らの埋葬のことだってそうだった。
別にあれは、自分が頼んだからしてくれたことではない。もしも自分がそう頼まなくとも、男は面倒臭そうな顔はしながらも、きっと黙って同じことをしたはずだった。
この男は、そういう男だ。
どんなに人の命を手に掛けて、こんな真っ黒の泥濘のなかを、何年も彷徨うようなことを続けていても。
その真芯にあるものは、ずっと輝きを失わない。
あの、まだ昼も夜も人の姿をしていた頃の自分と出会った、
十年前の、あの日から。
『ざまを見るがいいのよ。あの王女――』
と、懐かしい過去に遡りそうになった竜の想いを、棘だらけの思念が打ち破った。
『醜い虫けらにしてやろうと思ったのに。あの女が、つまらない邪魔をするから――』
『それでも、もう彼から愛されるはずもない。そんな醜い姿じゃね……!』
あははは、と、
憎悪にまみれたその思念は、竜の心を矢ぶすまにする。
(……どうして。)
どうして、そこまで。
何が
若く美しいミカエラ。
貴女を愛さない
ただ、たった一人のその
しかし、竜は涙を流せない。
どんなに悲しくとも、心は張り裂けるように痛んでも。
身体を覆うこの鱗が、はがれるほどに軋んでも。
と、突然、全身を強く殴打されたような感覚があって、竜の視界は真っ黒になった。
「姫殿下ッ……!」
遠くで、彼の声がする。
温かな手が、そっと自分を抱き上げるのを感じた。
駆け寄ってくる、少年の足音と息づかい。
そこからは、なにも分からなくなってしまった。
◆◆◆
クルトは月明かりを頼りに、周囲の水場を探して湧き水を見つけ、そこに浸して絞った布を持って二人のもとに戻った。
男は小さな白い竜を布にくるんで赤子のように抱きかかえ、木の根方に座り込んでいる。
夜目は利くはずの竜なのだが、どうしたことか、突然木の幹に激突して気を失ってしまったのだ。竜は木の葉と一緒にきりきり舞いをしながら落ちてきて、驚いた男にすぐさま抱き上げられた。
(けっこう、どんくせえのかなあ……ニーナさん)
いや、竜は竜でも、もとが人間だからなのかも知れない。
ともかくも、クルトは彼女の頭を冷やすために水場を探しに行ったのだ。人間にするようなことが役に立つかどうかは疑問だったが、「何の役にも立たない奴」とこの男に思われるのだけは癪だった。
「これ。頭に乗せてあげてよ」
そう言って濡らした布を差し出すと、男は案外と素直にそれを受け取った。
「……すまん」
そしてさらに意外なことに、素直に礼の言葉まで返ってきた。
クルトはちょっと我が耳を疑って目をぱちくりさせたが、男がそっとそれを竜の頭にあてがうのを、しばらくじっと見ていた。その手つきは、とてもこれがさっき自分を蹴り起こしたのと同じ人間のものとは思えないほどの優しさだった。
竜はそれでも、じっと目を閉じたまま動かない。
クルトは近くの小枝や石などを集めてきて小さな竈を作り、慣れた手つきで火をおこした。
ついでに、小ぶりの銅鍋に汲んできた水も火にかける。こういうことは、山育ちの子供でなければこうまで手際よくはいかないだろう。ともかく、少しでも役に立つということを、こいつに見せ付けておかねばならないのだ。
「大丈夫そう? ニーナさん……」
「ああ。多分な」
言葉すくなだったが、男がそう言うなら問題はないのだろう。
クルトはやっと少し安心してそこを離れ、焚き火の傍に座り込んだ。少し長い木の枝で、時々つついては火の番をする。
しばらくそんな風に黙って座っていたクルトだったが、やがて何となく、さきほどから気になっていたことを男に訊いてみることにした。答えてもらえないことは予想の範囲内だったが、まあきいてみるだけならタダだろう。
「なあ。さっき、どうしたの? 急に二人とも、慌てて走り出しちゃってさ……」
いや、正確には「二人」でもなければ「走った」とも言えないけれども。
「…………」
案の定、男は無言である。
レオンは相変わらず、ただ腕に抱いた竜の様子をじっと見ているだけだった。
「ま、いいけどさ」
クルトはちょっと、溜め息をつく。
「ニーナさんは、誰かに追われてるって言ってたけど。さっきのは、どっちかっていうと何かを追っかけてる感じだったよな? 何があったんだよ?」
男はやっぱり黙っている。
仕方がないので、クルトは自分のほうで勝手にしゃべり続けることにした。どちらかが何かしゃべっていないと、どうにもこうにも間がもたない。ニーナが意識を失っているとなると、もうこればかりは絶望的だった。
「追っかけられてて、追っかけて……って、大変じゃねえ? ずーっと、そんなことやってんの? あんたはともかく、それじゃニーナさん、もたないんじゃね?」
これは、クルトのごく素直な疑問だった。
竜の体力がどんなものかなんて知らないが、少なくともこの竜に関して言えば、半分はかよわい人間の女性なのだ。それも、かつては恐らくどこかの貴族のお屋敷かなにかで大切に育てられたお嬢様だったに違いない。
こんな、人の住まない場所ばかりを選んで、毎日、野宿につぐ野宿の旅など、身体に無理が来て当然ではないのだろうか。
「…………」
そこで初めて、男のひとつしかない瞳がわずかに揺らいだように見えた。
しかしすぐさま、その目が剣呑な色を湛えて、じろりとこちらを睨んできた。
「そこへ、無理やり割り込んできたのは誰だ」
「……あ」
これは失敗。やぶ蛇だ。
「彼女の負担だと思うなら、早々に落ち着き先をみつけて俺たちから離れるがいい。だれも貴様を引き止めんぞ」
「……あっそ。へへーんだ!」
べえっと舌を出して、クルトはふんと横を向いた。
まあ今のところ、彼らにとって大して役に立っていないのは確かなので、こう言われるのは仕方がない。
ともかく今は、彼らの足手纏いにならないことが目標だろう。
と、しゅわしゅわと湯が沸いてきたのに気付いて、クルトはそれを小さな木製のカップに移した。
茶葉なんて気のきいたものはないので、ただの白湯である。それを持って、クルトはそろそろと男に近づき、ぐいと差し出した。
「ほらよ。ニーナさんにぶっかけんなよ?」
竜が熱湯をかぶったからといって火傷なんてするかどうかは分からなかったが、クルトはそう言って、男ににやりと笑ってやった。
男は無言で、またじろりとクルトを睨みやったが、何も言わずに大人しくカップを受け取った。
と、くるるる、と男の腕の中から小さな声がして、竜が美しい
「姫殿下。……ご気分は」
男が、やっぱりクルトには信じられないような優しい声で、竜を覗き込んで囁いた。
竜はふわりと翼を開き、くるくるる、と柔らかい声で鳴いて首をゆらゆらと男に振って見せた。まだぼんやりとしているのか、クルトの方は見ていないようだ。
「……良うございました。どうか、お気をつけを」
男のひとつしかない瞳がふと微笑んで、口角がそっと上がる。
と。
竜が軽くはばたいて男の顔へと首を伸ばし、
その口許にごく軽く、静かに自分のそれを触れさせた。
(う、……わ!)
クルトは途端、自分が耳までぼっと赤くなったのを自覚した。
なんだか、見てはならないものを見てしまったような気がした。
だがそれは、なんだか夢のように綺麗な綺麗な、そして何故だか泣きたくなるような、一幅の絵のようにも見えた。
「おっ……、おおおお、おれおれおれっ……!」
気がつくと、クルトはもうじたばたしながら、どこから出たのかと思うような大声で喚いていた。
竜がはっとこちらを向いて、明らかにぎょっとしたようだった。
それを見て、クルトは更に、かあっと耳が熱くなった。
「ね、ねねね、寝るっっ……!」
クルトは最後にそれだけ叫ぶと、もう一目散に自分の寝具である掛け布のところに走っていって、それを頭からひっかぶり、木の根元のところで丸まった。
男はちょっと変な顔で、片手で口許を覆うようにしてそんなクルトを見ていたが、やがてひとつ吐息をつくと、膝の上の竜に向かってこう言った。
「……姫殿下。子供の前では、ご容赦ください」
クルトはもう、聞きたくもないのに聞こえてきた男のそんな台詞に、掛け布の中で真っ赤になって耳を塞ぎ、意味もないのに目のほうも、力任せに閉じていた。
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