第8話 別れ

「ふざけるな」


 黒馬の剣士の答えは、案の定、けんもほろろもいいところだった。

 ここはクルトの叔父の住む村のはずれにある、小さな安宿である。ニーナは明るいうちに叔父の家族に別れを告げ、日が沈んで男が人の姿に戻るのを待った。その後は男があとを引き継いで、竜になった彼女を布袋に隠すようにしてその宿を取ったのだった。

 いま、クルトはそこへ、叔父の許可を得て訪問する形を取っている。


 粗末な木のベッドに腰掛けて、男は今にも暴発しそうな怒りを必死に堪えているようだった。翠色をした隻眼が、明らかな憤怒の色で今にも炎を発し、クルトの身体に風穴を開けそうに見えた。


「ここに親戚がいることは分かったんだ。妹とともに面倒を見てもらえ。それが心苦しいなら、なんでもして働くがいい。自分の食い扶持ぐらいは、自分で稼げばいいことだろう」


 静かであるのに、腹に轟くような声でそう言われ、クルトは彼の目の前に立ちすくんだ。

 男の言い分はもっともである。

 彼の肩にとまった白い竜が、申し訳なさそうに頭を下げながら、しずかにくるくると鳴き声をたてた。

 男はそちらには決して荒い言葉など投げつけることはしなかったが、それでも相当に承服しかねる様子で、ちらりと自分の肩先を見やった。


「……姫殿下。ご無理をおっしゃらないでください」


 そうしてまた、それだけでも人の殺せそうな視線でクルトを射抜くと、地を這うような声で言い放った。


「話は終わりだ。貴様の叔父の家へ帰れ」


 そうして一生、自分たちの事は忘れて生きろ。

 男はただもう、その一点張りなのだった。

 クルトは男の発する圧力のようなものに気圧けおされないように、必死に奥歯を噛み締めて両足を踏ん張っていた。ここが正念場なのは、クルトにもよく分かっていた。

 そしてとうとう、その手札を切ることにした。

 クルトはぐっと腹の下に力を入れて、ずっと考えてきたその台詞を言い放った。


「……いいのかよ? おっさん」

「なに?」

 ぎらりと、男の目が光ったようだった。

「ほんとに、俺を置いてっていいのかよ、ってきいてんだよ。俺、あんたたちの秘密、知っちゃったんだぜ? しかも、こーんな子供なんだぜ?」

 男はほんの少し、沈黙した。

「……何が言いたい」

 クルトは、自分なりに作った「不敵な」笑顔を懸命に浮かべて見せた。

「わかんないの? 俺、置いて行かれたら言っちゃうぜ? 村のみんなにも、妹にも。『こないだ俺たちを助けてくれた人たちは、一人は夜に小さな竜になって、もう一人は昼に黒い馬になる、不思議な生き物だったんだぜ』ってさ……!」

「…………」

 男が、ただ黙って、すっとその目を細めたようだった。クルトは構わず、先を続けた。

「だって俺、子供だもんな。約束なんて、すーぐ忘れっちまうかも知れないぜ? それに、竜なんて珍しいもん見たなんて、村の子供らに自慢したくってしょうがないしな。当たり前だろ?」

 クルトは必死に、声を震わせないようにしながら言い放った。

「言うね、ぜ〜ったい、言っちゃうね! 今だって俺、村中のみんなに言いたくって言いたくって、しょーがねえんだから――」


 その途端。 

 ぶわっ、と男の全身から黒い圧力が放散されたようになって、クルトの喉は凍りついた。そのまま、声も出せなくなる。それどころか、その圧力がそのまま風圧のようにクルトの身体を押し返すような気がした。両足がずるずると、勝手に後ろへと後退する。

 クルトは懸命に両足に力を入れて、それに対抗しようとした。


 が、次の瞬間には、鈍色にびいろに光る巨大な刀身が、ひたりと自分の首もとにあてがわれているのに気がついた。

 それを握っている黒い男が、地獄の使者さながらの声でひと言いった。


「いい度胸だな。その年で、もう自分の命が要らんと見える」

「…………」


 クルトはもう何も言えなかった。と言うより、みっともない悲鳴をあげまいとするだけで精一杯だった。ぎしぎしと、恐怖によって奥歯が鳴っているのを認識する。

 もしもこの男が本気なら、もう瞬きをする間もなく、自分の胴と頭は永遠の別れをすることになる。そのことはもう、全身にたった鳥肌が嫌というほど教えてくれていた。


 と、つぎの瞬間、その刀身とクルトの間に、白い竜がぱたぱたと飛んできて身体を割り込ませた。ちらりと見れば、片脚の爪で剣の刃をちょいとつまむようにして押しのけている。それはなんだか、いかにも無造作な動きだった。


「姫殿下……!」


 男は驚いた様子ですっと剣を引き、かちりと鞘に戻した。一連の動きが、なんの無駄もないのはさすがである。

 竜は今度はクルトの肩に乗ると、くるくる、ぴうぴうと不思議な声で男に向かって低く鳴き声を立てた。恐らくニーナが、昼間の約束どおり、いま必死にクルトの口添えをしてくれているに違いなかった。

 男は沈黙したまま、しばらくそれを聞いていた。しかしその瞳は剣呑そのものである。彼が苛立っているのは明らかだった。レオンはできることなら今すぐにでも、クルトの命を奪いたがっている様子だった。


 ぴるぴるる、と竜が麗しい小鳥のような声で鳴き続ける。

 それと共に、波立った男の感情は次第に落ち着いてきたようだった。

 やがて男は、どさりと元通りに寝台の上に座り込んだ。


「……まったく……」


 片手でちょっと顔を覆って、頭を抱えるようにしている。

 やがて男の口から、深い溜め息がもれ出たのに気づいて、クルトはへなへなとその場にへたり込んでしまった。今になって、急にがたがたと全身が震えだしていた。


(た……、助かった……)


 そう思ったとたん、全身の毛穴が開いて、どっと冷や汗が噴き出した。

 竜が心配そうにクルトの耳元に顔を寄せて、「安心して」と言うように、その碧瑪瑙色の瞳をそっと細めた。

 しかし、男は最後に、二人にこう約束させた。


「いいですか、姫殿下。そやつの引き取り手が現れるまでです。それだけはどうか、この場でお約束いただきたい」


 この男、この竜に対してだけは、ちょっと腹が立つほどの優しい声音でものを言う。

 男がそんな声を出してそう言うと、竜もさすがに首を横に振るわけには行かなかったらしかった。

 クルトは、なんとなくだったけれども、そんなを見て胸の奥にかすかな痛みを覚えた気がした。それにどんな意味があったのか、その時のクルトにはわかろうはずもなかったけれども。


 まあ、ともかくもその様なわけで、クルトはこの先の旅の中、引き取り手や落ち着く先が見つかるまでの間だけ、彼らに同行することを許されたのであった。



◆◆◆



 翌朝。

 クルトはニーナと、「彼女の黒馬」とともにその村を離れることになった。


 妹のアニカはびっくりして、しばらくは寂しさと心細さにクルトの上着にとりすがって泣いていた。けれども、クルトがそっと叔父の家の事情を説明し、もっと遠くの母方の親戚を頼るのだと言うと、一応は納得してくれたようだった。

 クルトは叔父夫婦にも同様の説明をした。叔父夫婦は「ああ、そうだったのかい」と、困ったような笑顔を浮かべたが、内心ではきっと、ほっとしたのに違いなかった。

 もちろん、その説明は事実ではない。クルトは母方の親戚のことなどまったく知らないし、当然、会いに行ったこともないからだ。叔父が、クルトの母の親類筋について詳しくなかったのは幸いだった。


「もっと大きくなって、俺がちゃんと稼げるようになったら、必ず迎えに来るよ。だからアニカ、それまでおじさんたちの言うことをよく聞いて、待っててくれよな」


 クルトはそう言って、まだ大泣きしている妹を抱きしめ、別れを告げた。

 叔父一家と妹は、村の出入り口までクルトとニーナを見送りに来てくれた。

 妹はまだ半べそをかいてはいたが、それでも母の形見の人形を胸に抱いて、必死にいつまでもクルトに手を振ってくれていた。



 さて。

 村から随分と離れたところで、そこまでニーナと共にクルトを乗せていた黒馬は、ニーナが下馬したところを見計らって、いきなり後肢で立ち上がった。


「う、わっ……!」


 それはもう、ほとんどクルトを振り落とすに近かった。

 危うく地面に頭を激突させるところだったクルトは悲鳴をあげ、それでもどうにか無事に着地して、振り向きざま馬にかみついた。


「ちょっとおっさん! 何すんだよ、危ないだろっ!」


 案の定、馬は完全に知らん顔である。というか、「俺は馬だから人語などわからんわ」と言わんばかりなのが忌々しい。

 村人たちの視線もあって、ここまでは仕方なくクルトを背に乗せたけれども、以降は自分の足で歩けと、この馬はそう言いたいらしかった。

 脇にいるニーナが困った笑みを浮かべる。


「レオンったら。結構、おとなげないのですね……?」


 しかし、そう言いながらもくすくすと、ニーナは何か楽しそうにも見えた。

 美しい人というのは、たとえ怒っていても、また悲しげであっても美しい。しかし、こうして心から嬉しげな笑みを浮かべれば、それはもう何百倍もの麗しさだ。クルトは思わずぼうっとなって、そんな彼女の花のかんばせに見惚れてしまった。


 隣に立つ黒馬の方でも、どうやら片方しかない大きな瞳でじっとそんな彼女を見つめる様子だったけれども、やがて勝手にとことこと土手を下って、下を流れる川へ歩いて行ってしまった。見ていると、彼はそこで水を飲むようである。

 そんな彼の後ろ姿を見やって、ニーナがぽつりとクルトに言った。


「普通の馬とは違って、まったく手が掛からないのはいいのですけれど。なにしろ、ああいう気性の人ですから。……ごめんなさいね」

 謝るニーナに、クルトはひょいひょいと手を振った。

「いやいや! 謝らないでよ、ニーナさん。俺、平気だし。おっさんとこうしてんの、けっこう楽しいから」

「そうなのですか……?」

 あんな態度の馬と同行するのが楽しいなんて、とニーナが不思議そうな顔になるのを、クルトはにこにこして見上げた。

「うん。それと、ありがとう、ニーナさん。俺、一緒に連れてってくれて。あのおっさ……レオンに俺のこと、頼んでくれて」

「いいえ。わたくしも、クルトさんが一緒だととても楽しいですから」


 その言葉にも表情にも、一片の嘘もないのを見て取って、クルトはひどく嬉しくなった。そうして、顔の横で両の拳をぎゅっとにぎって、にかっとニーナに笑って見せた。


「俺っ、ぜったい役に立つからね! おっさんにできねえことで何かあったら、俺になんでも言ってくれよ? 子供だから役に立つってこと、きっといっぱいあるんだぜ? なんてったって山育ちだし、きっときっと、ニーナさんの役に立つから!」


 胸を叩いてそう言うと、クルトはレオンの後を追うようにして坂を駆け下り、川の方へと走って行った。

 ニーナの嬉しげな視線が自分の背中を追っているのを、クルトははっきり感じていた。そうしてひどく不思議な、誇らしいような気持ちが、胸の奥からふつふつと湧き出してくるのを覚えていた。

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