第7話 願い

 翌朝。

 クルトとアニカが目を覚ますと、もう空は朝の色に変わっていた。

 当然のように、あの男の姿は消えていて、ふたたびあの美貌の女剣士が二人の傍に座っていた。


 みなはすぐに朝食を済ませて出発し、その日の昼ごろには目指す村に辿りついた。

 広い農地や牧草地に囲まれた、規模の大きな村である。村人は、三百人ほどはいるようだった。クルトのいた寒村とは比べ物にならない大きさで、村の中心部では物々交換が中心のいちも立つような村である。

 クルトも数年前に父に連れられて訪れたきりのことで、その時の記憶をたどりながらの旅だったけれども、幸い一本道だったので、ここまで迷わずに済んだのだ。



 父の弟の家も、すぐに見つかった。叔父は大柄な身体に陽気な様子の男で、八人も子供がいる。おかみさんも明るくて元気な人で、クルトもアニカも、この人たちが大好きだった。

 小さな甥と姪だけでの急な訪問に、ふたりはさすがに驚いたようだったが、すぐに家の中に温かく迎え入れてくれた。しかし、ことの顛末を聞き始めると、見る見るその顔色はかげってしまった。


「そうか、あんちゃんも、かみさんも……」


 実の兄を亡くした叔父は、しばらくは洟をすすりあげて男泣きに泣いていたが、「そういうことなら、お前たちはうちにいりゃあいい」と、すぐにそう言ってくれた。

 おかみさんの方でも、「そりゃ、八人が十人になったからって、何が変わるもんかね!」と敢えて明るく笑い、「女の子が増えるのは嬉しいねえ! アニカは本当に可愛いからさあ」と、本心から嬉しそうにしてくれた。


「ありがとう、おじさん、おばさん」


 しかし、そう答えながらもクルトは気付いていた。

 家の中の様子を見ても、叔父の家は昔ほど裕福そうには見えなかった。子供たちの様子は明るかったけれども、末っ子の少女は母親であるおかみさんの服の端をずっとにぎって、「かあちゃん、おなかすいた」を繰り返していた。

 他の年上の子供たちのうち、クルトより少し大きな男の子たちは、朝からもう地主のもつ農地へ手伝いをしに出かけているとのことだった。つまり、そうやって少しずつでも賃金を貰わなければ、この家はやっていけないということだ。

 この家も、経済的に決して楽なわけではないはずだった。

 いま、ろくな働き手にもならない二人の子供をすぐに受け入れるのは、きっとこの二人にとって、相当な負担になるのにちがいなかった。


 クルトは妹の手を握ったまましばらく考えていたが、やがて「ちょっと待ってて」と叔父に言い、さきほど村の市の広場へ出かけていったニーナの姿を探しに行った。

 彼女は最初に叔父に挨拶をしたあと、彼に馬を預けて、ちょっとした必要物をそろえるからと言って席を外していたのである。



◆◆◆



 ニーナはいちの広場ですぐに見つかった。

 周囲にいる村人たちは、いきなり現れたこの美貌の女剣士に度肝を抜かれている様子だったが、見た目に反して気さくな様子の彼女と話をするうちに、すぐに打ち解けてしまったらしい。

 彼女は一応、布を巻いてその美しい金色の髪や顔立ちを隠してはいたけれども、あまり役にたっているとは言えなかった。こんな田舎の村に居るには、彼女はあまりにも場違いだったのだ。


 ニーナは店をあちこち見て回りながら、店主の中年女や男たちらと楽しげに話をし、馬の手入れをするためのブラシなどを探していたらしかった。

 その紺色のマントを流したすうっと背の高い細身の姿は、埃っぽい市のなかで嫌でも人目に立った。なるほど、黒馬の男と彼女がこうした村などを避けて行動するのも、無理からぬ話に思われた。これでは隠密の旅など不可能だろう。

 クルトは急いでそちらへ走ってゆき、その背中に声をかけた。


「ニーナさん!」

「ああ、クルトさん。叔父様のお宅はいかがでした?」


 ニーナはすぐに振り向いて、優しくそう訊いてくれた。クルトは思わず、ちょっと視線を彷徨わせた。


「あ、……うん。えーと、二人とも家に来ていいって言われたよ。面倒みてくれるってさ。でも……」

 ニーナはクルトの表情を見て取って、少し首を傾げるようにし、次の言葉を待ってくれている。クルトは少し、目線と一緒に声を落とした。

「お、おじさんちも、やっぱり、大変みたいでさ……。二人ともってのは、ちょっと無理そうでさ」

「そう、なのですか……」

 女剣士は、クルトと同様、少し声を落としたようだった。

「この村の皆さんも、おっしゃっていましたわ。ここのところ、治安が本当に悪くなったと。せっかく収穫した小麦の倉庫を襲われたり、農地を荒らされたり、働き手の男たちが殺されたりで、村の収入がどんどん減っているのだそうです」

「あ、そうなんだ……」


 なるほど。叔父の家が逼迫するのも、背後にはそういう理由があるのかも知れない。

 ここ、土竜の国ザイスミッシュの王、バルトローメウスは、水竜の国の王ほどの音に聞こえた賢王というのではないが、それでも慎重、かつ常識的な施政を敷く、至って穏健派の王だ。

 王もその臣下らも、国内にこうした犯罪のはびこることはそのまま物流を阻害して国力の疲弊を招くことを重々承知している。ゆえに各地に王国軍警備隊を派遣して、経済の拠点を守ることにも目を向けてくださっているのだろう。

 しかし、ここまでの辺境ともなると、当然ながらその力は及びにくくなる。今回の一連の騒動は、その末端で起こった悲劇のひとつに過ぎないのだ。


 クルトはそのまま、少し考えるように自分のつま先を見つめていた。しかし、やがて意を決して顔を上げた。


「あのっ……ニーナさん。俺……、俺だけ、ついていっちゃだめ……? ニーナさんと、あの……馬のおっさんに」

「馬の、お――」


 ニーナが思わず瞠目してそう言いかけ、さらにぱしっと、口許を覆って絶句した。

 慌てて横など向いているが、クルトにはすぐに分かった。彼女はちょっと噴きだしそうになっているのだ。しかし、クルトの不審げな目線に気付いてその顔を取り繕い、ニーナはこほんと咳などして見せて、真顔になってこちらを向いた。


「……いえ、あの。クルトさんから見れば十分年上だというのはわかっていますけれど。その呼び方は、やめてあげていただけませんか? そうは見えないかも知れませんが、彼もそんなに年を取っているわけではありませんし。それではあんまり、彼が可哀想なので……」


 言いながらも、ニーナはまた、「くくくく」と喉の奥からせり上がって来た笑声をおさえこみ、くるっと横を向いて肩を震わせている。見れば、ちょっと目尻に涙まで滲んでいるようだ。なんだか知らないが、おかしくてたまらないらしい。


(なんだろーなあ……。)


 クルトは奇妙な気持ちになってそんな彼女を見上げた。

 こんな年上の、綺麗で上品な女性なのに、ふしぎに可愛い人のような気がする。

 やがてニーナは笑いをやっとおさめると、クルトの訊ねたことについて真面目に思案する顔になった。


「……ついて来たい、とおっしゃるのですね。わたくしたちに」

 思ったとおり、ちょっと困ったような表情である。

「そうですね……。事情はお察ししますけれど、こればかりは、彼の意向もきいてみなくてはなりませんから。わたくしから、勝手にお返事はできかねますわ」


(ああ。やっぱり、そうだよなあ……)


 それを聞いて、クルトは正直、がっかりした。

 あの男が、そんな話をあっさりとうけがうわけがない。それどころか、最悪の場合、「そんな鬱陶しいことを言いだすなら」とばかり、あの大剣でぶった斬られても文句は言えないような立場である。

 しかしこちらも、だからと言って「ああそうですか」と簡単に退くわけには行かなかった。


 どうしてかは、分からない。

 しかしクルトは、今やどうにかしてこの二人について行きたくて仕方がなくなっている。こんな短期間にどうしてこんな気持ちになってしまっているのか、それはクルト自身にもよくわからなかった。


 二人の秘密については、もはや十中八九、疑う余地はない。


 男は夜に生き、昼はあの黒馬の姿に。

 女は昼に生き、夜はあの白銀の竜の姿に。

 どうしてかは分からないが、彼らはそのように運命付けられて生きる者たちなのだ。


 その謎が、知りたい。

 いや、そればかりでなく、クルトはこの女のことが、もう大好きになってしまっている。もっともっと、まだこの先も、その姿に、笑顔に、声に触れていたいのだ。


 それどころか、実は自分でも不思議なのだが、クルトはあの陰気で無愛想な剣士のことも、なんとなく本気で嫌いにはなれなくなってしまっている。

 非常に不器用なものではあるけれども、彼の根底にあるものも、決して意地の悪さや酷薄さなどでないことは、もう十分にクルトにも知れていた。

 あんな態度ではあるし、思い出してみればやたら腹の立つことも多いのだけれども、あの男も決して根っからの「悪い奴」というのではないのだ。

 そして、クルトは自分の、この子供らしい勘とでも言うべきものに、実はそれなりの自信を持っているのだった。


(……だから。)


 彼らに、ついて行きたい。

 その謎の、本当のみなもとを知ってみたい。

 その望みは、かれらに出会ってからずっと、クルトの心の芯のところでぶすぶすと火種をもち、いまやちろちろと炎を見せて、輝きを放ち始めている。

 それが真に燃え上がるのに、もうさほどの時間は要らないように思われた。いや、すでにもう、燃え上がってしまっているかも知れなかった。


 そんなわけで、クルトは改めてニーナを下から真っ直ぐに見上げ、ここに来るまでの道々考えていたことを、恐る恐る口にだした。


「じゃあさ、ニーナさん。ニーナさんは、俺の味方になってくれる……?」

「え?」

 ニーナは何を訊ねられたのか分からないといった顔でまた首をかしげた。クルトはここぞと言い募った。

「だってさ。ニーナさんは、あのおっさ……いや、えっと……レオンだっけ。あいつのご主人様か何かなんでしょ? だったら、ニーナさんが『どうしても』って命令すれば、あいつだって言うこと聞いてくれるんじゃないの……?」

「それは……まあ、そうなのですけれど――」

 それを聞いて、ニーナはさらに困った顔になってしまった。そうして、銀色の手甲をつけたその指を優雅な仕草で細い顎にあて、しばし考え込んでいた。


「でも、クルトさん。誤解なさっていますわ。わたくしは、そんなに偉そうに彼に命令できるような立場ではありません」

「え? そうなの……?」


 あの男の様子からしてとてもそうは見えなかったので、クルトは奇妙な気持ちになった。しかし、ニーナはきっぱりと言った。

「ええ、そうですわ。それどころか、わたくしは……」

 と、ニーナはふと暗い顔になり、言葉を切った。そうして、周囲にちらりと視線を投げた。それはいかにも、自分たちのまわりにいる沢山の村人の耳を気にする風だった。

「……こちらへ」

 そう言って、ニーナはクルトを村はずれの人気ひとけのない方へといざなった。


 周囲に人のいないことを慎重に確認して、ニーナは改めて口をきいた。それでも、やっぱり囁くような声だった。

「クルトさん。彼をあんな身体にしてしまったのは、わたくしなのです」

「……え?」


 「あんな身体」というのがどういう意味だか、クルトにはよく分からなかった。

 それは、昼間は馬の姿になるという、あの奇妙な体質のことだろうか。

 それとも、あの顔の片側にあるらしい、傷かなにかのことだろうか。


 そう聞いてみたら、ニーナはあっさり、こう言った。

「そうですね……。その、両方ともですね」

 そう言った彼女の碧い瞳は、深い悲しみを湛えていた。それはそのまま、彼らの過去に関わりのある話であるらしかった。

 ニーナはその瞳のまま、敢えてにっこりとクルトに微笑みかけた。

「でも、クルトさん。本当に、わたくしたちについて来られると言うのなら、あなたも相当の覚悟をせねばなりませんよ?」

「かくご……? って、どんなことを?」

 ニーナは少し言葉を切って考える風にしていたが、やがて再び、こう言った。


「もうお分かりかと思いますが、わたくしたちはできるだけ、人目を避けて行動せねばならない身です。実際、わたくしたちを必死に探している者たちもおりますし」

「そ、そうなの……?」

「ええ。この身の秘密も、人に知られるわけには参りません。実を言えば、こんな風に人のいる村に出てきたのも、本当に久しぶりのことなのです。基本的には、人のいない森や山などを中心に、野宿しながら移動しているので」

「あ、そうなんだ……」

「わたくしたちについて来るとなれば、普通の人間の少年であるクルトさんには、相当、つらい旅になることは間違いありません。それどころか、悪くすれば命にも関わるようなことに巻き込んでしまうかも……。あなたは、それでも構わないのですか……?」


(あ……)


 そう言われて、クルトはふと合点がいったような気になった。

 ニーナもレオンも、自分が見ていたこの数日の間、人間としてまともな食事などほとんどしていないようだった。

 どういう仕組みになっているかは分からないが、彼らは人間なら生きるために当然必要とするものをさほど必要とはしないのだろう。そこに普通の人間であるクルトがついていくということになったら、彼らの負担は倍増どころでは済まないことになる。


 これはいよいよ、あの黒馬の男が「うん」と言いそうにはない。

 そう思って、クルトは希望の光がどんどんしぼんでくるのを覚えた。

 クルトが少し肩を落としてしょげた顔になったのを、ニーナはさも心苦しいという顔で見つめていた。


(だめ、なのか……?)


 ついて行けないのか。

 やっぱり、ついては行けないのか……?


 もうこれで、この二人とはお別れなのか――。


(いや、だ……!)


 そんな思いが閃いて、クルトは必死に両の拳を握り、唇を噛み締めた。

 腹の底で、熱いなにかが沸き立っていた。


「で、……でもっ、でも、俺――」 


 どうしてそこまで、こんな風に思ってしまうのか。

 それはやっぱり、良くわからなかった。

 それでもクルトは顔を上げ、自分の声を励ました。


「それでもいい。それでも俺、ニーナさんたちと一緒に……」


 ニーナがじっと、考え深げな目でクルトを見つめている。

 クルトはもう必死で、ニーナの金属鎧の胸元にかじりつかんばかりにして言い続けた。


「がんばるよ、俺。絶対、二人に無理いわない。だって、する。二人が誰かから逃げてるんだったら、それの手伝いだってするし! 子供がいたら、絶対、きっと役に立つって! そんで、もし……」


 言いかけて、クルトはさすがに、ほんのちょっと言いよどんだ。


「もしも、それで死んじゃうようなことになっても……俺、ぜったい二人のこと、うらんだりとかしないからっ……!」

「…………」


 ニーナはさすがに、最後のこの言葉には絶句したようだった。

 そうして、その形のよい柳眉をひそめ、悲しみに満ちた碧い瞳でしばらくじっとクルトを見つめていた。


 長い長い、沈黙があった。

 しかし、ニーナは最後には、とうとうこう言ってくれたのだ。


「……わかりました。約束しましょう。わたくしもできるだけ、彼に対してクルトさんの口添えをいたします」

「ほんとっ……?」

 ぱっと顔を輝かせたクルトに、彼女はそれでも宥めるような、困った笑顔で釘を刺した。

「けれど、それでも彼がどうしても『駄目だ』と言うなら、その時は諦めてくださらなくてはいけませんよ……? どうか、それだけは約束してくださいね」

「うんうんうん! わかってるよ……!」


 ぶんぶん顔を縦に振っているクルトはしかし、この時「そんなことぜってーしない!」と心に誓っていたのだった。

 なぜならクルトは、ニーナに対しては決して言うまいと思っていたあることを、あの男に対してはまっすぐにぶつけてやるつもりでいたからである。

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