第6話 出立
村人たちと両親の埋葬が終わり、クルトとアニカは自宅だった小さな小屋に戻って、荒らされたその中からごくわずかのものを持ち出した。
このように治安の悪くなっている中で子供二人だけでこの村に住み続けることは考えられず、二人はこのまま少し遠くの村に住む父の弟、つまり叔父の家を頼るため、その村を訪ねることにしたのである。
アニカは母に端切れを寄せ集めて作ってもらった小さな人形を、クルトは父が堅い樫の木を少しずつ削って作ってくれた小さな馬の玩具を、それぞれ自分の布袋に入れた。他にも、どうにか無事だった衣類や掛け布や小さな鍋など、旅の役に立ちそうなものを吟味して荷物をまとめた。
次は、旅の間の食料探しだった。
食べ物を入れていた
ニーナは、当然のように「お二人をその村までお送りさせてください」と言ってくれた。彼女がそう言ったとき、クルトは思わず、またあの黒馬の表情を
ともあれそんな訳で、一同は村をあとにした。
ニーナが日のあるうちになるべく進んでおきたいと言うので、荷物とアニカを馬に乗せ、彼女とクルトは早足で山道を下っていった。
時折り、疲れたところをみはからって、ニーナはクルトも馬に乗せてくれたけれども、やっぱり自分は決して騎乗しようとはしなかった。
「心配しないで。こう見えて、けっこう健脚なのですよ、わたくし」
クルトがそれを気にして馬に乗るのを遠慮すると、ニーナはそんな風に言って笑うのだった。それはいかにも毅然とした、しかしたおやかに優しい笑顔だった。
とは言え、女性が着るにしては恐らく重いものだろう金属鎧を身にまとって、長い山道を歩くのは、ニーナにとって決して易しいことではなかったのに違いない。昼食をとり、午後になってから、明らかにみんなの歩く速度は落ちてきた。
ちなみに彼女は、クルトたちの持ってきた食料にはほとんど手をつけなかった。彼女はただ、腰に下げた小さな革袋から木の実のようなものを取り出して、ほんの二、三粒口に入れ、近くの川から汲んできた水を飲んだけだった。
馬のほうでも、道端の草などをちょっと
目指す村まではまだ相当に遠く、以前、父に連れてきてもらったときよりもはるかに進みが遅いのがわかった。今日のうちに着けるかと思っていたが、今日のところは、どこかで野宿でもするよりほかないようだった。
山の中からは随分前に抜け出して、周囲はところどころに岩の覗くだだっ広い草原になっている。
整備されているわけではないが、行き交う人や牛に踏み固められ、一応街道のようになったその道には、特に歩く人はいなかった。
夕刻が近づき、道の脇の木の根方に馬をつないで、ニーナは火を起こす準備を始めた。
(……さあ、今夜はどうなるんだろ)
クルトは夕食の支度などをしながら、美しいその人の横顔を盗み見て、密かにそう思っていた。
ここまで毎晩のように不思議なことが繰り返されて、クルトにもそろそろ、この奇妙な恩人たちの正体がぼんやりと分かりかけてきている。
どうやらこの人たちが、クルトのことはともかくも、妹のアニカにまでそれを知られることはどうにかして避けたいと思っているらしいこともだ。
もの問いたげなクルトの視線に気付いているのか、女はとうとう、夕日に照らされ橙色や桃色に輝き始めた雲を見上げて、クルトに言った。
「ごめんなさい。わたくしまた、少し離れていますけれど――」
「うん。……気をつけてね、ニーナさん」
そう答えたら、彼女はびっくりしたようにクルトを見つめたが、「え? どうしたの?」ときょときょとしているアニカをちょっと見やって、安心させるように優しく微笑んでくれた。
「大丈夫よ、アニカさん。また――」
「あのおっさんが来てくれるってよ。だから大丈夫だよ、アニカ。心配すんな」
すかさずクルトがにかっと笑ってそう言うと、ニーナはもう困ったような顔で、笑って頷いただけだった。
◆◆◆
ニーナが馬と共に立ち去り、日が沈むとすぐに、またあの男が現れた。
アニカはびっくりしていたが、男が何か言うまえに、もうクルトはこう言っていた。
「俺たちの後ろから、ずっとついてきて守ってくれてたんだよ。な、おっさん?」
そしてにやりと笑ってやったら、男は心底から不承不承といった様子で、ひとつ頷き返してきた。
さらに忘れないうちにと、クルトはアニカを促して、二人で男に、村人と両親の墓を作ってくれたことで礼を言った。
「ありがとな、おっさん。ほら、アニカも礼、言いな」
「あ、ありがとう、おじさん……」
が、男は相変わらずの仏頂面のまま、ただそっぽを向くようにして、「ああ」とさも面倒そうに答えただけだった。
どうやらあの白銀の鱗をした竜は、アニカに姿を見せるつもりはないらしい。
まあ、それも無理はなかった。
クルトだって、むかし、村のお
アニカがあの竜を見てしまったら、驚き騒ぐのは当然のことだし、これから行く先々でそのことを誰に話さないとも限らない。それは恐らく彼らにとって、非常に困った事態を招くのに違いなかった。
それほど、今のこの時代、竜は人の目には触れない、珍しい生き物なのだ。
この世界は、人がこの地に生まれたそのはじめから、巨大な五頭の神竜の、その魔力によって均衡を保ってきたのだという。
それは恐らく、数千年とか、数万年とかいう長さのことだ。
巨大な竜は、それぞれに得意とする属性の魔力を奉じている。
自分たちの国、この土竜の国の竜ならば、それは土の属性となる。水竜ならば水と氷、火竜ならばもちろん火である。ほかに、雷と風の属性も存在し、それぞれの守護する国も存在している。
それらの竜は、それぞれの国で神として崇められてはいるものの、滅多に人の目に触れるようなことはしない。
竜はおのおの、それぞれの国のいずこかに潜んで普段は眠っているらしいけれども、よほどのことがない限り、地を這う虫に過ぎない、人間たちと関わりを持とうなどとはしないからだ。
かれらは、野にいるほかの獣たちとはまったく違う。人よりもはるかに優れた叡智を誇り、人の賢者を何百人集めたよりもずっと多くのことを知り、かつ思索してきた存在なのだという。
かれらは太古の神代の昔、あの「竜の星」から落ちてきた。
そうしてそれぞれの属性の魔力によって、地上を五つに分けて棲みついたのだ。
「人の子は、その神竜さまの鱗より生まれいでたのじゃ。神竜さまがたは、われらの祖先であり、神でもあられる。言い伝えによれば、われら人の子は、その命をもって心より願うとき、神竜さまによってその願いを聞き届けられるというが……」
当時ですら非常に高齢だったという村のお婆は、腐れた赤い
竜はもちろん、人語を解する。
しかし、身体の造りが人とは異なるため、口を使っての意思の疎通はしないらしい。
竜の言語は人の耳には、ただの雷鳴のような咆哮にしか聞こえない。
かれらは直接、人の心に語りかけてくるのだそうだ。
「長らく分け隔てられ、離れ離れて暮らすうち、人の子らは愚かにも、神竜さまがたの尊き霊験を忘れ、地に堕ち、さらに獣の道にまで堕した。……以来、神さまがたは穢れた人の子らを忌み
しかしそれでも、八年前、その神たる竜たちによって保たれていたはずの平和は崩れた。
その日に、何があったのか。
それを語れる者は誰もいない。
ただその日、その夜に、山々は鳴動して巨大な地震が起きたのだという。
その時、お婆は恐ろしいような叫び声を上げ、目の見えない身であるにも関わらず、狂ったように村から走り出ていって、行方知れずとなってしまった。
翌朝、地鳴りが落ち着いてから村人が山へ入って探してみると、彼女は深い滝つぼに落ちて、川岸に流れ着いたところを発見された。その時にはもう、お婆は腐れた目をかっと見開き、とうにこと切れていたのだと言う。
「なにか恐ろしいことが起こったのだ」と、村のみんなは言い合った。お婆はある種の霊感のようなものを持つ、特異な体質の女だったからだ。彼女の異変はすなわち、神たる竜たちの異変を意味しているのではないかと、村の皆は畏れおののいた。
しかし、それもこれも、クルトにしてみれば随分と成長してから、親や村人によって教えられた話である。当時、まだほんの幼児だったクルト自身が覚えているはずもないことだった。
焚き火の脇、木の根元で、アニカは掛け布にくるまってもうすっかり眠りこけている。そのそばでじっと黙ってそんな事を考えていたら、不意に男が口をきいた。
「約束は守っているらしいな、小僧。上出来だ」
「…………」
クルトはちょっとしかめっ面をして、ぐいと男をにらみつけた。
あの女性はあんなに優しくて、高貴で気高い人なのに、どうしてこちらのこの男は、口を開けば自分の気分を逆撫でするようなことしか言わないのだろう。
「そりゃ、まあね。あの山賊どもみたいにゃ、なりたくねえし?」
身体を寸断された無残な姿でこと切れた男たちのことを思い出し、口の端をゆがめて皮肉を言ってやったら、男はすっと目を細めてこちらを睨み返した。
「それは残念だ。お望みなら、今すぐにも叶えてやらんこともなかったんだが」
腹に響くような声で脅しつけているような口ぶりだったが、今のクルトは不思議と、この男が少しも怖くはなかった。
「あれっ、いいの? そんなことしちゃったら、ニーナさんにめちゃくちゃ叱られるんじゃねえの、あんた」
「…………」
案の定、男が押し黙る。
明らかに、その不機嫌の度合いが何段階か増したように見えた。
やっぱりだ。
理由はよく分からないが、この男はあの女に頭が上がらないのだ。
恐らくそれは、身分の違いによるものではないかとクルトは考えている。
ニーナはあの風情からして明らかに、どこか位の高い貴族かなにかの出なのだろう。対するこの男は、そこに仕える剣士かなにかなのに違いない。
そうして、こうやってクルトたちを助けることは、この男のではなくて、明らかにあの女性の望みなのだ。だから男は、女の意向に逆らえず、苛立ちながらもこうやって、自分たちの助けになってくれている。
クルトはアニカが本当に眠っているのをそっと横目で確かめてから、男をじっと見つめなおした。
「……なあ。あんたたちってさ……なんで、そんなことになってんの?」
「…………」
途端、男の眉間に、明らかな皺が刻まれた。もちろん、唇を真一文字に引き結んで、なにも答えない。無表情に見えるその隻眼に、苦渋の色が一瞬だけひらめいたようだった。
クルトは構わずに言葉を続けた。
「いま、ニーナさんどこに居んのさ? ひとりでどっかに隠れてんの? こんな暗い中、ひとりでかわいそうじゃん」
「黙れ」
ぴしりと言い放たれて、クルトは仕方なく口をつぐんだ。
まあ、男が怒るのも仕方がない。彼女がこの暗闇の中、あの美しくも不思議な姿で一人で過ごさねばならないのは、ここにクルトとアニカがいるからに他ならないからだ。
しばし、なんとも言えない重苦しい沈黙が流れた。
ぱちんと、金色になった焚き火の中の枯れ枝が微かな音をたてて崩れる。
やがて男は、ほんの少し口角をゆがめると、じろりとクルトを睨み据えた。
それはひどく疲れたような、しかし凄絶な笑顔に見えた。
「そんなに知りたいなら、教えてやらんこともないぞ。ただし、その後すぐに、貴様の命はこの手に貰い受けるがな」
その声音は、心底から冷え切っていた。
「あはは。……やっぱりね」
クルトはその予想どおりの答えを聞いて、そう言って苦笑するしかなかった。
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