第4話 待ち伏せ ※
日が沈む。
クルトはそれを、一日千秋の思いで待った。
夜になれば、夜になりさえすれば、レオンは無敵だ。
決して、彼の大切な人をとり逃がしたりなどしない。
クルトは、そう信じて疑わなかった。
相手がいかに
日のあるうちに、街道沿いをあちらこちらと物色した結果、レオンは街道からはやや小高くなって見えづらい場所を見つけた。そこにごろごろと見える岩場と灌木の繁みを適当に選び、その陰に陣取って、あとはクルトと共にじっとそこで待つことにしたようだった。
やがて遠い山の端に夕日がかかって、遠くまで開けた空が、次第に桃色から紺、さらに群青色へと落ち込み始める。
と、自分も小さな弓矢をいつでも撃てるように身構えているクルトの隣で、レオンが音もなく人の姿に戻っていた。クルトはもう、慣れっこだ。
本来、野盗などといった不埒な連中もこうした場所を拠点に商人の隊列を狙うものだ。
だから、そういう奴等と出くわす可能性も大いにあったし、逆にそれを取り締まる王国軍の警備隊と鉢合わせしてしまう可能性もあったのだったが、幸いそうした者らとは今日のところは出会わなかった。
日の落ちるまでにどうにかハンデルシュタットへ到着しようと急ぐ旅人の商隊が、北から何組か走りさった。
やがて、空に星がまたたき始め、周囲が暗くなった頃、遂に街の方角から、目指す馬車が走ってくる姿を認めた。
馬車は四頭立てで、かなりの速さで走っているのが遠目にもよくわかる。
自分たちが追われる身であることは、やつらも重々分かっているということか。
「……お前はここにいろ」
レオンはひと言そう言うと、ひとつだけ残った瞳でじっとその獲物の動きを追う様子である。クルトは黙って頷いた。今のクルトの弓の腕では、下手に援護などしようとしてもレオンやニーナに当たってしまいかねない。
クルトの弓矢や短剣は飽くまでも、今のところは自分自身が危難に陥った場合に身を守るための備えだった。
今度こそ、レオンの足手纏いになるわけにはいかない。
今のクルトは十分、そのことを理解していた。
レオンは十分に馬車が近づいて来たところを見計らって、クルトの弓を借り、まずは先頭の馬めがけて素早く放った。鋭い風鳴りがして、ぶつりと馬の胸に命中する。驚いた馬がいななき、後脚で立ち上がる。
周囲の馬も驚いて、わさわさとその場で暴れ始めた。
「どう、どうどう!」
御者台の男が馬をしずめようとする間にもう、レオンは抜き放った両手剣を背中に添わせるようにして、そのすぐ傍へ肉薄していた。
それはまるで、逆巻く真っ黒な奔流のようだった。
「敵襲ッ……」
御者の隣に座っていた男はそう叫び、腰から自分の得物を抜いたようだったが、それはまったく間に合わなかった。
真っ黒な塊が、大剣とともに空中に跳ね上がり、御者台の上の男らに襲いかかった。
ひゅがっと空を切る音がして、レオンの剣が一閃し、男らは二人ながら、上と下とに身体を切り離されて絶命していた。彼らには、なにほどのことをする間もなかった。
主を失った馬たちは驚き騒いで暴走しかかる勢いだったが、あいにく先頭の馬が負傷してその場にへたりこんでいるために、動きがとれずにそこで頭をふりたて、足を踏み鳴らしながらも不安げに
あと一人残った男は、馬車の後部にある足台に立っていたようだったが、そこからすぐさま飛び降り、クルトのものより大きな弓でぴたりとレオンに狙いを定めた。
前回と同様、三本同時に放つ撃ち方だったのだが、レオンはそれを顔の前に構えた刀身で難なくはじき飛ばした。
「つぁッ……!」
男が素早く弓を捨て、腰の長剣を抜き放って突進する。やはり常人の動きではない。敵は、非常に足が早かった。まるで小動物かなにかのような身軽さだ。
男はレオンの側面へ回りこみ、彼が大剣を振りかぶる隙を与えずに、その脇腹めがけて凄まじい突きを繰り出してきた。レオンは剣の切っ先を地面につきたて、再び刀身でそれを防いだ。
がきっと鈍い音がした。
しかし次にはもう、レオンはそのまま相手の腹に重い蹴りを叩き込んでいた。
男は子供のように吹っ飛ばされ、地面の上で鞠のように転がって素早く起き上がったのだったが、レオンに向かって身構えた時にはもう、大剣の刀身がその身体を左右に両断し終えていた。
ぶしゅっと嫌な音がして、びちゃびちゃと液体の飛び散るのが聞こえた。男の身体は左右に分かれて、ものも言わずに崩れ落ちた。
クルトはその一瞬、思わず目を瞑ったけれども、すぐに目を開け、レオンが馬車の後部に駆け寄るのを見た。
「姫殿下! お下がりを」
レオンがひと言だけ馬車に向かって大声で言い放つ。
そうしてそのまま、太い鎖と大きな錠前の掛かった後部扉へ、渾身の力をこめて大剣を振り下ろした。
がきん、と金属の弾け飛ぶ音がして、じゃらりと重い音をたて、鎖が地面に落ちる。
レオンがすぐさま、壊れた扉に手を掛けた。
クルトはそこでもう、茂みのところから飛び出していた。一応は身を低くしながらも、なるべく急いでそちらへ近づく。
ぎぎい、と扉の軋む音がして、それはゆっくりと両側へ開いた。
敵が飛び出してきた場合の用心ためか、レオンは一旦そこから数歩下がり、中をじっと窺っているようだ。
馬車の中は、真っ暗だった。
やがて、ことり、とごく小さな音がして、あの懐かしい金属鎧のささやかな音が聞こえた。
「レ、……オン……?」
細く高い声がして、そろそろとその人が現れる。
その姿を見て、クルトは声を失った。
いや、彼女は美しかった。
クルトのよく知る、優しくも凛々しい碧い瞳も、蜂蜜色の長い髪も。
やや
ただ。
その鎧は、異様だった。
それはぼろぼろに錆び付き、崩れていて、以前の白銀の輝きを失っていた。腕にも胸にもところどころ穴が開き、下に着ている服や肌さえもが露出しているところまである。あの紺地のマントはどこにも見えなかった。
(ニーナ、さん……?)
が、やがてあることに気付いて、クルトは思わず目を見張った。
今は、夜だ。
確かに周囲は夜だというのに、彼女はいま、人の姿をしている。
どういうことだか分からないが、その馬車には、彼女を竜の姿にしないような仕掛けが施されているらしい。
「レオ、ン――」
正面に立つレオンを見て、気丈なその人が一瞬だけ、くしゃっと泣きだしそうに顔を歪ませたように見えた。
レオンが大剣を地面に突き刺し、両腕を広げて、大股に彼女に近づく。
今にも、彼女を抱きしめようとするように。
ニーナも両手を伸ばして馬車からとび降り、そちらへ駆け寄ろうとした。
しかし、二人が今にも抱き合おうとした、その刹那。
月の光を浴びた瞬間、ニーナの姿がぱっと光の粉のように霧散して、レオンの眼前で消え去った。
それはきらきらと輝きながら、あっという間に収束し、レオンの両腕の中に小さくまとまるかのように見えた。
クルトが何度か瞬きをするうちに、そこにはもう、あの小さな白い竜がいるだけになっていた。
いや、それは今、「白い」とはとても言えないような姿に見えた。
竜は、体じゅうが、あの鎧のようにぼろぼろだった。美しかった鱗はあちこちが惨めに剥げ落ち、変色して、全体に赤銅色のように見える。
薄く白い皮膜に包まれていた美しい羽根は、見る影も無くずたずたになり、今はほとんど骨の部分しか残っていない。
「姫、で……」
さすがのレオンも、言葉を失ったようだった。
しかしそれでも、彼は歯を食いしばり、優しい手つきでその竜を両腕に抱え、抱き寄せて、彼女の碧瑪瑙の瞳を覗き込むようにした。
竜とレオンが、同時にそっと目を閉じる。
そうして二人は互いの額を、まるで人間の恋人がそうするように、ひどく優しく押し付けあい、触れ合わせた。
「…………」
クルトはほんのしばしそんな二人を見つめていたが、すぐにくるりと後ろを振り向き、足早にざくざくとその場を離れた。
なんだか、ここに居てはいけない気がした。
彼らの大切なその時を、自分が邪魔してはいけないような。
それより何より、必死で声を殺さなかったら、なんだかもう、クルトはその場で、大声で泣き喚きそうだったのだ。
(ちくしょう、……ちくしょう……!)
これ以上ないほど歯を食いしばっても、ぼろぼろと留めようもなく、涙がこぼれて仕方がなかった。
クルトはそれを拳の形にした手の甲で、何度も何度も乱暴に拭いつづけた。
「かわいそうだ」、なんて言うつもりはなかった。
彼らは今でさえ、ただ共にいられることを感謝している。
そのことは、傍で彼らを見てきたクルトだって、ようく分かっているのだ。
(……だけど。)
こんな時、かれらはちゃんと、互いを抱きしめあうことすらできない。
普通の人間の恋人だったら、毎日、嫌というほどしているようなことなのに。
悔しいのか、情けないのか、腹が立つのか。
とにかくもう、訳がわからなかった。
ただただ、腹の底からぐらぐらと、真っ赤に焼け爛れたような何かがせりあがってきて止められなかった。
(ちっくしょう……!)
クルトは、ぎりっと唇を噛み締めると、ぱっと走り出した。
どっちに向かうかなんて、考えてはいなかった。
ただもう闇雲に、滅茶苦茶に、月に照らされた暗い草原をどんどん走り続けた。
それは、何の呪いなのか。
一体、だれのせいなのか。
そんなことは、分からない。
(わかんねえけどっ……! ちっくしょう……!)
彼らはずっとこんな風に、長い旅を続けてきたのだ。
二人きり……いや、
ずっと、一人と一匹で。
(絶対に、ゆるさねー……!)
そいつを、けっして許さないと思った。
もしかして、彼らが何か、かつて大きな間違いをしたのだとしても。
たとえそうでも、こんな罰があるだろうか。
「ばっきゃろおっ……!」
クルトは、吼えた。
自分を見下ろす、「竜の星」。
それに向かって、声の限りに吼えてやった。
あいつはきっと、地上にいる自分たちを虫か何かのように見ているのだろう。
自分たちがこうやって、地べたを這いずり、どんなに泣いても、苦しんでも。
あいつはいつも涼しい顔で、
地上の自分たちが、こうして苦しみ、もがく姿を。
獣のように吼えたける少年の声が、暗い草原を抜ける風に吹き散らされる。
丸い月と沢山の星ぼしが、暗い夜のしじまの中から、黙ってそんな少年を見下ろしていた。
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