第一章 鷹の男

第1話 宴の夜に



 ひとりの女が、広々としたバルコニーの手すりにもたれ掛かりながら、かちかちと爪を噛んでいる。


 ゆるやかにうねる黒髪。

 結い上げたその後れ毛がはらりと零れる、色香を帯びたうなじは白磁の色だ。

 夢見るような瞳は菫色で、いつも男の心を惑わせる。

 この世界に生きるどんな男から見ても、恐らく魅力的に映らないはずのない、女性らしく丸みを帯びた妖艶な肢体。


 背後では今宵もまた、王宮主催の踊りの宴が開かれている。

 弦楽器の奏でる上質な旋律が、軽やかに舞う貴族の男子や貴婦人たちのぜいを凝らした衣装を揺らしている。

 そちらを見るともなしに見返しながら、女の赤い唇がかすかに動いた。


「言わないことじゃないわ、あの王太子……。だから、ちゃんと自分でこっちへ来て、どうにかすればよかったのよ――」


 実際、この美しさでたらしこみ、利用した男も数知れない。

 しかし、そういう男たちは結局のところ、このにしか興味がない。

 どんなに美しい見た目を持ってはいても、そして、どんなに不美人な女たちがこの容姿に羨望の視線を向けようとも、彼女にとって本当は、それに大した意味はない。

 なぜなら。


(だって、彼は……それを見る人ではないもの。)


 今はひとつになってしまった、あの澄んだ翠の瞳をした青年は、決して女の容姿を見ない。

 いや、たとえきっかけは容姿それだったとしても、少なくとも、それを愛する基準にしない。

 だとすれば、容姿になんの意味があろう。

 しかし。


 かちり、とまた爪を噛む。


(ふん。でも、だからってあの女にどれほどの価値があるっていうのよ――)


 もとは水竜国の王女だった、やはり美しかったあの女。

 あの女だって、ああして蝶よ花よとばかり、優しい父王や母の王妃に可愛がられ、大切に育てられたからこそのあの穢れない性格であるはずだ。

 もしも彼女が自分のような目に遭って、自分のように育っていたなら、あんなふうに取り澄ました、お綺麗な心でい続けられたはずはない。 


(そうよ。絶対に、そうに決まっているのに……!)


 男なんて、みんなバカだと思う。

 どうしてみんな、あんな、人の手に守られてやっと綺麗に咲けるだけの切り花を、後生大事に愛でるのだろう。


 火竜の王太子にしてもそうだ。

 あの男の、あの女に対する執着の程は常軌を逸していると思えるほどだ。その理由については、自分の愛するかの青年とはだいぶ趣が異なるようではあるけれど。


 その後の噂で分かったことだが、聞けばあの王太子は、八年前のあの時に、彼の実の母親を呪いの祈願のための生贄として捧げたらしい。

 紅の瞳と髪色をした、それは美しかった火竜の妃は、あの日、王宮の自分の部屋で、とつぜん体から炎を発し、火柱になって死んだのだという。

 彼女の体は燃え上がり、一瞬で灰になって、その炎は部屋をまるごと焼き尽くし、あの王太子の住まいでもあった離宮を全焼させてしまったのだとか。

 いわばあの王太子は、おのが母を引き換えにしてまで、あの女を手に入れようとしたという事だろう。


 それでも、彼らは思い通りにはならなかった。


(忌々しい……!) 


 かち、とまた爪が鳴る。

 形が悪くなってしまうので、あまり褒められた癖ではないのだけれど、幸い、「風竜の眷属」となってからこちら、自分は多少の傷や痣などならすぐに治ってしまうという便利な体質になっている。

 まことに、風竜の治癒魔法は優秀だ。


(でも……、もうすぐよ。)


 にやりと、頬を引き上げる。

 どんな男でもいちころでうっとりと鼻の下を伸ばす、それは妖艶な微笑みだ。

 自分の価値は、もう十分に理解している。

 男のどこをどう押して、思うが侭の結果を引き出せばいいのかも。


 とはいえ、彼だけは例外だ。

 自分が愛し求めてやまない、あの精悍な男だけは、いくらこうして微笑んでも、ちっとも嬉しそうにはしてくれない。

 むしろとても嫌そうに、顔をしかめて眉間に皺を寄せるばかりだ。

 今ではそんな顔すらもがいとおしく、懐かしいなんて思うのは、あまりの焦燥と寂しさで、やや心を病んでしまった結果なのかもしれなかった。


(でも、そんなこともあとわずか)


 なぜなら。


(もうすぐ、あなたを本来の座に戻して上げられる――)


 この風竜国フリュスターンに戻ってきて、はや八年。

 まずは邪魔者を消すことから始め、次には王家に近しい貴族の男らを手玉に取って、自分は丹念に情報を集め、必要な噂を流し、ずっと下準備をしてきた。


 風の魔法は、相手の目をくらませることができる。

 かつての自分のことを覚えている者もいるわけなので、それが下手に殺せない相手の場合、自分は彼らの視覚を魔法によって誤魔化すのだ。

 名を変え、姿を変え、身分を偽り……これまで、多くのことをやってきた。

 王宮に招待された貴族の姫君を眠らせて隠しておき、そ知らぬ顔で彼女になりすますなどはお手のものだ。


 彼を、本来あるべき場に戻す。

 この風竜国のまことの王たる、先王ヴェルンハルトの遺児、レオンハルトを。


 現国王、ゲルハルトも、その息子たちもまことに凡庸の徒に過ぎない。

 今では、彼の王位簒奪の後押しをしたあの宰相ムスタファとその一派が、大いに重職を占有し、権力をほしいままにしているばかりだ。

 馬鹿だとまでは言わないが、先王の兄に比べれば遥かに覇気に劣るゲルハルトは、過去の顛末を知り尽くしているあの老人に楯突くことができずにいる。

 要するに、醜い蛆虫たちは一蓮托生というわけだ。倒れるとなれば、もろともに薄汚いごみ捨て場に放り込まれて、焼かれるよりほか道はない。


 国王のそんなありさまを見て、心ある臣下たちの中には、二十数年前のあのヴェルンハルト王と王妃フランツィスカ、そして赤子だった王太子レオンハルト殿下の山中での殺害事件を疑う向きも増えてきている。


 事実、王宮で折々に催される晩餐と踊りの宴に紛れ込み、貴族らの間に入り込んで様々に噂をながすうちに、人々の心は少しずつ、失われたはずの王太子殿下への望みを抱きつつあるのだ。


「ご存知でしたかしら? お亡くなりになったとばかり思われていたレオンハルト殿下がご存命なのではないかという、あの噂――」

「ええ、聞きましたわ。本当ですの……?」

「まあ、わたくし、噂だとばかり思っていたのですけれど。でも、聞くところによりますと、殿下はあの時、臣下の者にお命を救われて、遠く他国において健やかにお育ちであられたとか……まことのお話でしょうかしら?」

「それが、かなり信憑性のあるお話のようなのよ。まあ、かのヴェルハルト陛下と瓜二つの、それは美しくも素晴らしい男ぶりでいらっしゃるとかで――」

「ええ、でもお気の毒に、お目を片方なくされたお姿でいらっしゃるらしいですわね。何十年ものあいだ他国を放浪されて、さぞやご苦労なさったのでしょう。まことにおいたわしいことですわ――」


 かしましく小鳥たちが歌うに等しい、女たちの下らぬ噂ばなしでしかなかったそれは、次第しだいに大きくなり、真実味を帯びていって、遂に男たちの耳に入り、王宮の知るところとなった。

 慌てたのは、現国王ゲルハルトと王太子をはじめとする息子たち、それに彼らを後押しし、権力の甘い汁を吸い続けてきた宰相ムスタファとその一族である。

 ちなみに、王妃はムスタファの実の娘であるため、かの老人は国王の義父という立場でもある。


 老獪なムスタファは、子飼いの闇の仕事を行なわせる者どもに即座に下知し、自らが堂々と「かの殿下はあの時たしかにお亡くなりあそばされたのだ」と放言している当の人物を、べく行動を開始したらしい。


(……バカな男。そんな者らに、あの方が簡単にやられるものですか)


 女は、鼻でせせら笑う。


 まあ、切欠きっかけは何でもいい。

 ともかくそうして、彼を表舞台に引き出すのだ。

 彼の存命と、その素晴らしい為人ひととなりとを、この国の人々に知らしめなければ。

 ただ、できればその前に、あの女を彼から引き離しておきたかったのだが。

 残念ながら、このたびの火竜の王太子の目論みは失敗に終わったらしい。


(ほんと、忌々しいわ。あの王太子……!)


 男と言うのは、どこか詰めが甘くていけない。

 あの火竜の王太子にしても、あの女を苛め抜きたい、いたぶりたいというのは嘘でもないのだろうが、どこかに甘さを残しているように思えてならない。

 あんな女、ただ心も体もずたずたにして、引き裂いてやればいいものを。



 機は、熟そうとしているのだ。

 彼を、本来彼がいるべき場所、つまり風竜王としての立場に戻す機が。


 そして、その暁に彼の隣にいるのは、もちろん――


「く、ふふふ……」


 さきほどまで、かじり取られて歪んでいた爪の先は、もう元通りの美しい形をとりもどしている。

 つつ、とそこに指先で魔法の力を加えると、すうっとそれは美麗な血の色に塗り上げられた。


「待っていて……レオン」


 わたくしの、レオンハルト。

 この世にただ一人、命を懸けて愛する男。


「わたくしはきっと、やり遂げてみせる――」



 あなたを、風竜王にするまでは。


 この復讐に、終わりはないのだ。


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