第8話 翠の霧

 王宮敷地内のやや中央からは外れた場所に、その兵舎は建っている。

 王都内に家と家族のある兵士らの中には、わざわざここに寝泊りせずに家に戻るという者も多いのだったが、地方からやってきているカールのような者や、親も王宮内に勤めていてほかに家族もいないレオンのような者は、こうした兵舎で皆と寝泊りしつつ軍務につくことが殆どなのだ。


「カール。体調が悪いと聞いたが。具合はどうだ」

 相棒であるカールの部屋を訪れて、レオンは開口一番、そう訊いた。

「あ〜。う〜。悪い、レオン。面目ねえ……」

 カールは自分の狭い部屋の中にある一人用の兵舎の寝台の上で、青い顔で掛け布にくるまっていた。彼もレオンも下級とはいえすでに将校なので、小さいながらも一応は個室を与えられている。レオンの部屋は、このすぐ隣だった。


 レオンは寝台の脇にあった木製の丸椅子に腰掛け、相棒の青年の顔を覗き込んだ。

「何か、いつもと違うものでも口にしたか? お前らしくもない」

「いや、そんなはずは、ねえんだけど……」

 カールはいつもの明るい様子もすっかりなりを潜めて、ちょっとしょぼくれた情けない顔だった。

「そう言やあ、なんだか水が、いつもと違う味だったような気は……したかなあ」

 あまり自信はなさそうだったが、カールは思い出したようにそう言った。レオンはすぐに、木製の卓の上に置かれていた陶製の水差しを手に取った。

 蓋の代わりにかぶせられている陶製のカップを外し、少しにおいを嗅いでかいでみるが、特に普段と変わった様子はなかった。


 と、何かに気づいたように、カールが目を上げた。

「あ! 違うんだ、レオン。俺、実は戻ってきたとき、最初、お前の部屋に間違って入っちまってさ――」


(なに……?)


 つまり彼は、レオンの部屋に入ってそこに同様にあったはずの水差しの水を飲んだと、そういうことらしかった。

 兵舎そのものの入り口には、警備の兵が常にいるが、中の個別の部屋には普段、特に鍵は掛けていない。その代わり、中で部屋の主が休む場合だけ、内側から鍵を掛けることが許される。だから部屋の内部には、基本的に貴重品などは置かないことが原則なのだ。そうしたものは、身につけておくもの以外は貴重品預かりのための専門部の士官が一括して管理してくれている。

 レオンは立ち上がり、自分の部屋に戻って問題の水差しを確認した。

 その匂いを再び嗅いで、ほんの少し、手のひらに出して舐めてみる。


(これは……)


 舌先に僅かな苦味を覚えて、レオンはそれを吐き出した。

 父、アネルが医師であるためもあって、レオンは幼いころから様々な薬草や薬品その他に関する知識を身につけてきている。

 これは、父がまだ町医者をしていた時分、便秘などに苦しむ患者に処方していた薬品と、非常に似た味がするように思われた。


(誰かが、何か仕込んだのか……?)


 しかし、いったい何のために?


 この兵舎にいる警備兵全員の水差しに同じものが仕込まれているのだとすれば、それは明らかにこの王宮に対する攻撃だろう。しかし、ここまでで見たところ、他の兵士に同様の症状は出ていない。もしもこれが、ただ一人レオンを狙ったものだとしたら、その意味とはいったい何か。

 もしもレオンの出自を知っている誰かがこの場にいて、風竜国の王族である自分に害をなそうとするならば、逆にこのような生ぬるい薬ごときを仕込むとは考えにくい。もっとはっきりとした殺意をもって、致死量の劇薬を入れるはずだ。

 この程度の下剤では、カールのようにしばらく腹を下して寝込む程度のことであって、命に関わるほどの問題にはならないはずだからだ。


(どういうことだ……?)


 敵の目論見の意味が分からず、しばし眉間に皺をたててレオンは考え込むばかりだった。しかし、ともかくもその意見を聞くべく、王宮付きの医師であり、魔法研究指南役でもある養父、アネルのもとへ行くことにした。

 父の勤める魔法研究塔は、兵舎から歩いてもすぐの場所にあるのだ。



「……うん。間違いないね。これはアブフュー草の匂いに間違いないよ」


 魔法研究塔内の研究室にいたアネルはそう言うと、眉を顰めて、レオンの持ってきた水差しを研究用の台の上に戻した。

 なお、あれ以来、レオンが必死に頼んだ結果、アネルはその言葉遣いも態度も、今までどおりに彼の父として振舞うようになってくれている。

 王宮の中で彼がレオンにしばしば跪いたり、敬語を使って話しかけるようなことがあったのでは、周囲の皆に変な目で見られることは必定だったし、何よりレオン自身が、父に今までどおりの父でいて欲しかったからである。


 今、部屋の中は、レオンとアネルの二人だけである。内密の話であるため、レオンが事前に父に人払いを願ったからだ。

 研究室内部には様々の薬や竜の結晶から抽出された薬品が木製の棚に所狭しと並べられ、卓の上にも研究材料であるさまざまの種類の竜の結晶、粉末などが乳鉢や壷の中に入れられて置かれている。

 書棚には各種様々の魔法に関する書物が並んでおり、いくつも置かれた卓の上には、魔法薬を抽出するためのものらしい、レオンには使用法もよくわからない器具がごちゃごちゃと置かれていた。



「しかし、自分の部屋だけに外部の誰かが侵入するというのは難しいと思われます。かといって、兵舎内部にこのようなことをする人間がいるとも思えず――」

 そうなのだった。

 これまで、特にレオンの出自について知っていたはずもない同僚の兵士らが、急にここへきて自分に対して何かの悪意を抱くというのは不自然な話だった。それに、畏れ多くもここは王宮の中なのだ。しかもあそこは、その中でも、王家のみなさまをお守りする近衛隊士官の入る兵舎ではないか。

 入り口は常に警備の士官が厳しく人の出入りを確認していることだし、宴が行なわれて訪問客が増えるこんな時期ならなおのこと、そうそう隊外の人間を中に入れるはずもない。


「ううん……そうだな」

 アネルは少し考える様子だったが、やがてその現場、つまりレオンの部屋をその目で確認したいと言い出した。ついでに、あのカールの容態も少し診察してくれると言うので、レオンは父を伴って、再び兵舎に戻ったのだった。



◆◆◆



 ひととおりカールを診察して、「ともかく水分だけは絶やさぬように」等々、彼に様々の指示を与えてから、アネルは隣のレオンの部屋に入った。


 父は慎重な足取りで部屋に入ると、一度ぐるりと部屋の中を見渡してから、「少し下がっていなさい」とレオンに注意して、長衣ローベの懐からそっと大切そうに小さな袋を取り出した。

 それは、彼の持ち物にしては珍しく、絹糸で織られた華やかな布でできた袋だった。よくよく見れば、その布地には、風竜王家の紋章であるらしい、風竜の姿が織り込まれているようだ。


 アネルはその中から、ほんの爪の先ほどの小さな緑色の粒を取り出すと、てのひらの上に置き、音もなくその場に膝をついて目を閉じた。そうして、口のなかでなにかを静かに唱え始めた。

 それは、不思議な韻律を持つ単語の組み合わせだった。言葉そのものも聞いたことのないもので、何かの古代語を組み合わせたような、大地の奥底を流れる奔流を思わせる重厚な響きを帯びている。

 レオンはそちらのことには詳しくないのでよく分からなかったのだが、どうやらこれが、風竜国の医術魔法官だった父の面目躍如ということのようだった。


(これは……)


 レオンは思わず、目を見張った。

 アネルの手の上にあった粒が、ゆらゆらとその形を空気の中に溶かし込み、その代わりにそのあたりに、翠色をした煙のようなものが広がったのだ。

 その煙は、しばらくそこでふわふわと滞留していたようだったが、やがてアネルの手の上から音もなく移動し始めた。


(なに……?)


 やがてそれが、ゆっくりと人の形を取り始めたのに気付いて、レオンは息を飲んだ。

 色目は翠色のままだったけれども、それは間違いなく、とある人物の姿を形づくっていたのである。


 その人影は、すたすたとレオンの部屋の卓上の水差しのあった場所に近づくと、蓋にしてあるカップを持ち上げ、その中にさらさらと、何かの粉を溶かしいれたように見えた。そしてその後、ワンピースの上につけたエプロンのポケットから小さな何かを取り出して、いまアネルがしたように、それにぼそぼそと何かを唱え始めた。

 次の瞬間、その姿はぱっと翠の霧のようなものに戻り、やがてそれも、空中に溶けるようにして消えてしまった。


「……ふむ。なるほど……」

 アネルは非常に難しい顔をして、目の前で起こったすべての事を見ていたようだった。そして、いま行なったのが、「過去視」という魔術のひとつだと教えてくれた。

 要するに、いま目の前に再現されたのは、レオンが大広間の警備のためにここを不在にしていた間に、この部屋で起こったことだということらしい。


「わたしは、今の人物の姿に見覚えがあるように思うのだがね。……レオンはどうかな?」

「はい。自分も恐らく、あれは父さんが思われるのと同じ人物だと思います」

 レオンはそう即答し、眉間に皺を寄せて考え込んだ。

 この件を報告しないという選択肢はないけれども、はたしていつ、誰に、どこまでのことを報告すべきかを考えたのだ。


「それにしても、君は彼女に、こういうことをされるような心当たりがあるのだろうか? ……わたしはそれが心配なんだが」

 本当にそれを焦慮する様子で、父がそう尋ねてくる。

「いえ……。正直申し上げて、そこまでのことは自分にも分かりません。申しわけありません……」

 その時のレオンには、ただそう答えるよりほかはないことだった。


 しかし、少なくとも先日までの段階では、彼女から感じるのは、非常に歪んだものであるとはいえ強烈なまでの自分への好意だけであって、こんなことに及ばれるような悪意や嫌悪といったようなものまでは感じなかった。

 とはいえ、レオンにとってはすでに完全に「お手上げ」状態のあの少女のことだ。心の中で何を考えているかなど、とうに想像の外ではあったのだが。


 アネルはそんなレオンの表情をじっと見つめるようにしていたが、やがて慎重に言葉を選びながらこう言った。

「私の予想に間違いがなければ、その人も私と同様、『風竜の結晶』の利用方法をある程度は知っていると思われる。これは明らかに、その結晶を用いた『跳躍シュプルング』の魔法だからね――」


(『跳躍』……?)


 その単語の意味からして、くだんの「風竜の結晶」の使い手も、父と同様、空間を飛び越える術を使うことができるということなのだろう。

「しかし……不思議だ。どこでどうやって、彼女はこの魔法の韻律を知ったのか――」

 父は、難しい顔をして考え込んでいるようだった。


 父曰く、風竜国のものに限らず、竜の魔法に関する韻律、つまり魔法を発動させるための呪文の体系は、それぞれの国における最高機密のようなものだ。一般の人々の人口に膾炙かいしゃしてしまったのでは、それこそ即座に国防上の問題が生じるからである。

 魔法にもさまざまの段階があって、魔法官の階級によって、その知識を得たり使用するには厳しい規定が設けられている。つまりそれぞれの役職によって、使える魔法に上限があるのが普通なのだ。


 たとえば父が、赤子だったレオンハルトを連れて用いた「跳躍」の魔法などは相当にその段階の高い魔法ということになる。こんな魔法が世に知られでもした日には、今回の例を見ても明らかなように、世界中の王室や貴族の家に暗殺が頻発するという、恐るべき事態を招くことになるからだ。

 もちろん各王室は、敵の攻撃を防ぐために防御魔法によって結界を張るなどの手段も講じているのだが、まずはその知識を漏洩させないことこそが第一義なのは当然である。


 だからこそ、各王室お抱えの魔法官たちはごく限られた人数しかいないわけだし、その人選も細心の注意を払って行なわれている。もと医術魔法官だったエリクが、レオンハルトの父、ヴェルンハルトから絶大な信頼を得ていた理由も、ここにあるというわけだった。

 つまり、ここ水竜の国でのアネルは、そんな様々の事情もあって、もともと風竜の国で得ていた階級よりは随分と低い地位にとどまっているということでもある。


(それにしても、厄介な――)


 あの少女が、そんな機密に類する魔法の韻律を知っていたのは、やはり彼女の出自によるものなのだろうか。そのあたりはもう、本人に聞いてみるより仕方がなかった。

 アネルもその点では、レオンと意見は同じだった。

「背後に何が隠されているのかもわからないうちは、対処には、十分に気をつけねばならないだろう。どうか、終始、怠りのないようにしておくれ」

「はい」

「ともかくも、陛下にだけはこの件、内々にお伝えしておこう。だからこの件はしばらく、私に預らせてもらえないだろうか。……あ、いえ」

 そこで、アネルははっとしたように言い直した。

「どうか、わたくしに預らせてくださいませ、レオンハルト殿下。どうか殿下はこのまましばらく、予定通りに『春の宴』への警護におつきくださり、何もご存知なかったていでいらしていただければと思います。陛下とご相談の上、すべて細かく殿下にご報告いたしますので――」

 アネルはそう言うと、その場ですっと膝をつき、レオンに深々と頭を下げた。

 どうやら父はまた、以前の「医術魔法官エリク」としての自分に戻ってしまったようだった。


 レオンは困って、そんな父の手をとって無理にも立ち上がらせた。

「父さん。お願いしたではありませんか。……どうかもう、それはご勘弁を」

「あ、ああ……これは、済まない。そうだ、そうだ。そうだったね……」

 父は困ったような様子で、それでも優しい笑顔を湛え、じっとレオンを見返してくれたのだった。

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