第5話 大地の聲(こえ)

「くあ……あ!」


 万力のような力でくびり殺されかけて、クルトは身をよじってその場でのた打ち回った。しかし、女の手にはまったく容赦というものがなかった。

 むしろ女は、苦悶する少年の最期のあがきを、楽しげに観察して味わっているようですらあった。


 殺される。

 この女は今、自分を絞め殺そうとしているのだ。

 それも、心の底から愉しみながら。

 まるで、ちっぽけな虫けらでも殺すように。


 と、意識をうしなう寸前、クルトはだしぬけにその呪縛から解放された。そして、地面にばたりと倒れた。


「かっ……かは……、げほ、げほっ……」


 激しく咳き込み、必死に周囲の空気を吸い込もうとする。生理的に溢れた涙で、しばらく前が見えなかった。

 やっと視界がはっきりしてきて、クルトが初めて見たものは、上体を起こし、女の細くて白い腕を握ってなかば捻り上げるようにしている、レオンの姿だった。


「レ……レオ……」


 レオンの目は、これまで見たどんな場面よりも怒りの炎に燃えているように見えた。彼はこちらのことは見ないまま、女の腕をぎりぎりと握り締めていた。


「堕ちたものだな、ミカエラ。こんな子供まで手に掛けるのか」

「あら、ご挨拶ね。今までさんざん、この子をそうしようとしていたのはあなたの方じゃなくて?」


 女は特に痛みを感じている風もなく、うふふ、と妖艶な笑みを浮かべてレオンの顔を見返しているばかりである。レオンはそれを聞いてすっと目を細め、不機嫌に押し黙った。


「わたくしはほんの少し、そのお手伝いをしてあげようとしていただけ。感謝してほしいものだわ、レオンハルト」


 女が聞きなれない長い名前で彼を呼ぶことに、クルトは不思議な気持ちがしていた。

 その会話を聞く限り、かれらはどうやら知り合いのようである。

 よく考えてみれば、女は今、彼の命を救ったのだ。あの気持ちの悪い口付けには、そういう意味があったのに違いない。

 その理由がなんであれ、方法がどうであれ、助けてくれたことには変わりない。そんな相手に、レオンはどうして、こうまで忌避するような口ぶりで話をするのだろう。


 ミカエラと呼ばれた女は、しっとりと艶を含んだ微笑を頬にのぼせたまま、レオンにそっと顔を近づけて柔らかな唇を開いてみせる。それはまるで、彼に先ほど勝手にほどこしたのと同じ行為を強請るかのようだった。

 両者の顔は、いま非常に近いところにある。あともう少しで、唇が触れそうなほどだ。それを見ているだけでも、なんだかクルトは胸の中がむかむかしてくるのだった。

 レオンはあからさまに顔を顰め、不快げに顔をそむけた。

 ふふ、と女が余裕たっぷりの吐息を漏らす。


「さ、あの女はもう去ったわ。ようやく厄介払いができたところで、わたくしと一緒に帰りましょう、レオンハルト」

「ふざけるな。用が済んだら、さっさとここから去るがいい」

「あら。分かっているでしょう? わたくしの目的はあなただけ。共に戻りましょうと言っているのよ」


 レオンはさも面倒くさげに、握っていた女の腕を放り出した。そして、ぐいと立ち上がる。彼のマントから、ぱらぱらと落ち葉が舞い落ちた。

 彼にはこれ以上、この女と問答する気はないらしかった。見れば、先ほどの首や足の傷が、血糊の跡はあるものの、すっかり塞がっているようだ。

 後も見ないで行こうとするレオンに、女は立ち上がって、恨めしげに声を投げた。


「なんなの? それが命の恩人に対する態度なのかしら。たった今まで、そこで死体になりかかっていた人が、随分といいご身分ですこと!」


 が、レオンは足を止めないでどんどん行ってしまうようだ。

 クルトは慌てて立ち上がり、ふらふらとそれについて行こうとした。

 女の声が、嘲るように追いかけてくる。


「あの女はもう、戻らないわよ。分かっているでしょう? 色んな噂はあるけれど、あの男はあれで、十分に慎重だし、用意周到よ。でなければ八年も、むざむざとあなたたちを泳がせておくはずがないでしょう」


 途端、ざ、とレオンが立ち止まって女の方に振り向いた。

「……なんだと?」

 もはやその隻眼は、不快感を隠そうともしていない。その眉間には、クルトが今まで見た中でも一等深い皺が刻まれていた。対する女は、口許に蕩けそうな笑みを浮かべたままだ。

「もっとも、最近ではさすがに苛立っていたようだったけれど。ああ、今回はそこの坊やの功績かしら? あなたたちが村へ下りてきてくれて、追っ手の男たちも随分と手間が省けたようだったから」

「…………」

 レオンは、厳しい瞳で射るように女を見つめたまま、無言である。

「え……」

 クルトはその女の言葉を聞いて、ぎゅうっと胸やら胃の腑のあたりに、刺しこむような痛みを覚えた。


(俺の、……せい……?)


 女の言葉が、耳の奥でぐるぐる回る。


 そうなのか。

 そういえばニーナは自分のために、最近になって村などの人の多い場所に下りてくることが増えたと言っていた。


(じゃあ、これ……俺の……?)


 すべて、自分のせいなのか。

 そう考えて、クルトは目の前が真っ暗になるような気がした。

 ニーナが連れ去られたのも、レオンが死にかけたのも。

 みんな、全部、自分が彼らに無理を言って、ついてきたりしたからなのか――。


「竜になりさえすれば、すぐにも逃げられるとでも思ってたんでしょうけれど。あなたもあの女も、少しおめでたすぎたわね、レオンハルト」

 いまやそれは、冷笑といっていいものだ。女はわざとらしく腕組みをして、華奢な指先でそっと顎を叩くようにしている。

「夜になれば、あの女が戻ってくるなんて思ったら大間違いよ?」

 その声も、もはや完全に相手を嬲るものになっている。

「考えてもごらんなさい。あの男がそうそう、手に入れた獲物を逃がすような愚を犯すものですか」

「…………」


 黙り込んだレオンの翠色の目が、明らかな怒気を纏っていた。

 それに睨まれたわけでもないクルトまでが、思わずぎくりと足を止めてしまったほど、その瞳は恐ろしい光を放っていた。

 ぎりぎりっと、レオンが奥歯を軋らせ、拳を握り締めたようだった。


「……アレクシス……!」


 食いしばった歯列の間からそんな低い声が漏れ出たのを、どうにかクルトは聞き取った。


(アレクシス……?)


 それは、クルトもどこかで聞いた名である。

 どこだったろう、と思ううちにも、背後の女がレオンに向かってまたその細腕を上げ、にやにやとその妖しい美貌を歪ませていた。


「逃がさなくてよ、レオンハルト。あなたは、わたくしと一緒に帰るの。あなたが本来、居るべき場所へね……!」


 女がそう言った途端、暗かった周囲がまた更に暗さを――いや、それはもはや「黒さ」とでも言うべきだった――増したように思われた。

 森の木々をつつむ靄が、なにか真っ黒な重たい霧のようにじっとりと身体にまといつきはじめ、思うように足が動かなくなったのだ。その霧は、まるで意思をもっているかのようにクルトやレオンの身体の周りにたゆたった。


(なん……だ、これ……!)


 気のせいか、また呼吸が苦しくなり始める。それは丁度、あの川に落ちたときのように、周りじゅうを水に取り巻かれたような感覚だった。

 ふたたび気が遠くなりだして、クルトは息を詰めた。

 女の甲高い哄笑が耳に響く。


「諦めなさい、レオンハルト。こちらに来るのよ」

「断る」


 唸るような男の声にも、女は特に動じない。


「あらそう。でも、急いだ方がよくってよ? あなたには耐えられても、きっとその子が先に死ぬわよ――」

「貴様っ……!」


 レオンが背中の両手剣に手を掛けて、女のほうへ足を踏み出そうとした時だった。

 ごごごご、と足元が揺れ始めて、ふっとその黒い靄の圧力が弱まった。


「う、……わ!」


 クルトは思わず膝をついた。

 地面が鳴動している。地震だった。

 山全体が、がたがたと縦に揺れている。

 ずざざざ、と、どこかで大量の土が流れ落ちるような轟音がした。

 女も、レオンも、その場でやや腰を落とすようにして立ち尽くしている。


 と、いきなり頭の中で声が響いた。



《風の朋輩の、眷属か――》



(えっ……?)


 クルトは心底、驚いた。そんな経験ははじめてだった。

 それは非常に重厚な、山そのものが発しているかのような声だった。

 しかしそれでも、どこか知恵に満ちた、矍鑠かくしゃくたる老人の発するそれのような趣のある声だった。

 見れば、さっとミカエラが顔を青ざめさせたようだった。

 レオンも厳しい顔のまま、じっとそんな女を見つめている。

 声が、さらに言葉を続けた。



《答えよ。眷属風情が我が領域を侵すは、何ゆえか――》



「く……」

 ミカエラが唇を噛んだようだった。

 その声が答えを求めたのは、どうやら彼女に対してであるらしい。

 彼女がその声にどう答えたかは分からなかったが、声は重々しくこう言った。



く去れ。我が眠りを妨げるな》



 つぎの瞬間。

 女の周囲に、さきほどの濃く黒い靄がぶわっとその幕を広げた。

 そして女は、来た時と同様、雲の上を滑るようななめらかさで、すうっと背中からその靄に吸い込まれたかと思うと、その中に消えていった。


『わたくしは諦めないわよ。……レオンハルト』


 先ほどとは違う、明らかに女の思念らしいものが最後にひとこと、怨念めいた声を残した。


 気がつけば、先刻襲撃してきた男らの死体が忽然とその場から消えていた。

 ずず、ずず、とまだ震動を繰り返している地面に佇み、クルトとレオンは、しばしその場に立ち尽くしていた。

 周囲に立ち込めていた暗雲のようなものが次第に晴れて、森がもとの穏やかな光を取り戻し始める。

 それと同時に、レオンの姿がふっとぼやけて、クルトが目を二、三度またたくうちに、それは見慣れたあの黒馬に戻ってしまっていた。


(おわ、……った……?)


 そこにあるのはもう、今までのことがすべて夢だったかのような、至極平和な森の姿だった。

 そよそよと、優しい風が頬を撫でる。

 クルトはぐらりと、自分の視界が回転するのを覚えた。


「レオ、……ン」


 控えめな馬蹄の音が近づいてくる。

 それを聞きながら、クルトはもう、彼のほうへと手を伸ばしながら、ほとんど意識を手放していた。


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