第2話 水竜王ミロスラフ ※

 アルベルティーナがその少年に会ったのは、王宮付きの医師兼、魔法研究指南役でもあるアネルという男が、息子だという彼を伴って王宮にやってきたときだった。

 アネル自身はごく穏やかで、地味な雰囲気の中年男だったけれども、連れてきたその息子は、とても血がつながっているとは思われないほどの精悍な風貌だった。


 彼らは、父がいそがしい政務の合い間に、自分たち家族と僅かの時間を割いてくれるお茶の時間にやってきた。

 見なれた王宮付きの医師の男の背後に長身の少年の姿を認めて、父王ミロスラフをはじめ王妃である母ブリュンヒルデ、そしてかれらの娘であるアルベルティーナ、さらにまだ幼かった弟たちは目をみはった。


 少年は一見して武官に相応しいと思われる鍛えられた体躯と、きりりとした物腰をしていた。下級士官の身につける薄青の軍服に黒い軍靴を履いた姿は、非常に凛々しいものだった。

 その印象は、彼の隣で王宮文官服である長衣ローベマントマンテルマンテルを身に纏い、見るからに文官然とした大人しい様子の父親とはまるで違っていた。


 なによりアルベルティーナの目を奪ったのは、彼の涼やかで澄んだ色をした双眸だった。それは、水の国クヴェルレーゲンのあちこちに存在する深い森に囲まれた美しい峡谷の水面みなもにうつる、新緑の色を思わせた。

 彼はこの国ではちょっと珍しい、癖のない漆黒の髪をしていた。それをやや長めに伸ばして、無造作に後ろで革紐で束ねている。よく日焼けした肌色が、ごく健康的にその若々しく鋭角的な細い顎や頬をいろどっていた。


 すでに王家から重用されている父を持つ身であるために、彼は本来、一般庶民であれば下級兵から始めるところを、最初からその年で下級士官としてこの王宮に配属されることになったらしかった。

 もちろんこの年で経験もないわけなので、はじめは部下はつかず、士官見習いという身分になるらしい。



「陛下。皆様の貴重なご歓談のお時間に、お邪魔いたしまして申し訳ございません。ほんの少しだけ、お時間を頂いてもよろしゅうございましょうか」

 当然ながら、事前に王付きの侍従を介して訪問の許可を貰っていてのことではあるが、アネルは生真面目にまずはそう切り出した。

「もちろん構わぬ。遠慮なく入ってくれ、アネル」

 父は微笑んでそう答えた。

「ありがとうございます」

 王の前に腰をかがめ、毛足の長い絨毯の上で控えめにそう言ったアネルの言葉も、その時のアルベルティーナの耳にはちゃんと入っていなかった。

 普段であれば、それこそ「大切なお父様との語らいの時間なのに」と、少し不満に思わなくもなかったはずだったけれども、その時ばかりは彼女にもそんなことを考える暇はなかったのだ。


「息子のレオンと申します。このたび、こちらの王宮にて、若輩ながら武官としてお仕えする僥倖を得ました。大変僭越なこととは思いましたが、どうか皆様にお見知りおきいただけますれば幸いに存じます」


 少年は、王とその家族に自分を紹介する父親の言葉の間、ごく謙虚な佇まいで、父親同様腰を低くし、じっとそこに片膝をついていた。

 王族に対する不敬にあたるため、その目線はけっしてこちらへは流れてこず、足許に落とされているばかりだったが、アルベルティーナにはひどくそれがもどかしいように思われた。

「これはこれは。指南役殿も、なかなか凛々しいご子息をお持ちだったのだね。たのもしいことだ」

 父王は、穏やかな碧い瞳で二人を眺めやって、鷹揚に微笑みながら頷いた。

 父はいつも、泰然と優しいなかにも強靭な意思を感じさせる人だった。自分の父のことなので、アルベルティーナとしてもあまり客観的になれない部分はあるけれども、父は臣下の皆に言わせると、数百年に一度出るか出ないかの稀有な賢王なのだという。


 実際、本当か嘘か知らないが、「かのミロスラフ王の御前おんまえ、そのお傍にお仕えすると、一日あれば一日分、二日あれば二日分、かの御方への愛慕が生まれる」「十日も共に過ごさせていただけば、もはや『この御方のためならば我が命すら惜しからず』と衷心より思うまでになる」とすら、噂される父なのだった。

 とは言え実の娘のアルベルティーナにとっては、いつも穏やかに優しく、時には厳しくも知恵に満ちた、大好きな父である以上のことはなにもない。


 しかし他国の、そう、とりわけ隣国ニーダーブレンネンの国王などに言わせると、父は「この五大竜王国始まって以来の、まさに稀代の人たらし」ということになるらしかった。

 かの好戦的な火竜の国は、いずれ攻め込む際の判断材料を得るべく、他国へさまざまに間諜を紛れ込ませては大いにその国の内情を探らせているらしい。

 しかし、ことこの国に限って言えば、こちらの王宮に潜り込ませていたはずの間諜や暗殺者がいつのまにやらこの父王に心酔してしまい、寝返ったり、逃亡を図ったこと、数知れないのだという。


 以来、かの王は事前に間諜の家族を盾にとり、「裏切れば子供に至るまで家族を犯し、拷問にかけ、指を切り鼻をそぎ、苦しみ抜かせた挙げ句に殺す」との、聞くも無残な脅しをもってでしか、この国での諜報活動をする人員を求められなくなっているという話だった。

 しかしそんな事をすればするほど、かの王から人心は遠のくだろう。どんな緘口令を敷いたところで、人の口に戸は立てられないものだからだ。


 国は、人だ。

 人あってこその国だとも言える。

 そして人には、心があるのだ。

 人心を虐げ続ける苛烈な王家に、果たして未来はあるのだろうか。


 アルベルティーナには、そうと分かっていてもなおそうせざるを得ない、かの国の王の苦虫を噛み潰したような顔が、まるで目に浮かぶようだった。

 力と恐怖と、富によって臣下を押さえ込み、また取り込もうとする非情の王制には、いずれ限界が訪れるはずだった。

 こうした彼女の思いはその後、かの国の王太子にまみえることでさらに強められることになるのだったが、それはこの時、まだまだ先の話である。


 アルベルティーナがそんな思いに耽っているうちにも、父は、今度はレオンに向かって穏やかに言葉を続けていた。

「レオンと言ったか。どうか、今後のこの王国と我が臣民のため、その若い力を尽くして励んでもらいたい」

「は。肝に銘じます」


 王の深く優しい声で紡がれた言葉と目線を受けて、少年もすぐに頭を下げてそう返答した。やはり、身のこなしが紛れもなく武人としてのそれであって、ひとつひとつがくっきりと美しかった。

 彼らが早々にその場を辞していなくなってからも、アルベルティーナはしばらく、閉じられた扉の方を見てぼうっとしていたらしい。

 母、ブリュンヒルデがふくよかな頬をそっと緩めて、高く結い上げた蜂蜜色の頭をかしげ、娘のそんな横顔を見ながら言った。

「あらあら。わたくしの愛すべき『じゃじゃ馬姫』様にしては、ずいぶん珍しいお顔だこと」

 くすくす笑うその母を、隣にいた父が不思議そうに眺めやった。


「楽しそうだね、ブリュンヒルデ。アルベルティーナがどうしたのだい」

「いえいえ。なんでもございませんわ」

「もう。からかわないでください、お母様……」


 アルベルティーナは、途端に首や耳のあたりに熱が集まってくることに、なんだか戸惑いを覚えてちょっと赤くなった。

 そして、その年齢にしてなお、花のように麗しい顔の前でごくたおやかに飾り扇など揺らしながら楽しげに微笑んでいる優しい母を、軽く睨んだのだった。



◆◆◆



 それからしばらくは、残念ながら直接に二人が顔を合わせる機会はほとんどなかった。

 なんといっても、身分が違いすぎるのだ。あの練兵場での稽古にしても、畏れ多くもこの国の王女殿下を、昨日きょう入ったばかりの若い新兵と立ち合わせるなどということがあるはずもない。

 アルベルティーナにしてみれば、それはひどく残念なことだったけれども、話のついでにちらりと「あの少年の腕はいかがでしょうか。できれば一手、立ち合いをお願いしたいのですが」と水を向けても、周囲の兵らはなかなかそれを許してはくれなかった。


 彼は彼で、新しい環境と仕事に馴染むために多忙であったのかもしれなかった。しかし、彼とて新兵として剣の鍛錬のために練兵場に来る機会は少なくはなかったはずなのに、ほとんど顔を合わさなかったのは少し不自然にも思われた。

 事実、ごくたまにアルベルティーナが練兵場でちらりと彼の姿を見かけることがあっても、彼の姿はいつのまにかその場から見えなくなっていることがほとんどだった。


(まさかとは思うけれど、わたくし……もしかして、避けられている……?)


 気のせいかもしれないとは思いながら、そんな思いがふとよぎって、アルベルティーナの胸を何かがちくりと刺すような気がするのだった。

 父王も決して甘いばかりの人ではないし、アルベルティーナ自身、たとえ王女という身分ではあっても、周囲からただちやほやされ、甘やかされて育ったとまでは思っていない。

 とは言っても、臣民からあれほどまでに愛され敬われる王の娘だ。周囲の皆は、いつも自分に対して温かだったし、たとえ教師や剣の師範の男らでも、自分に対して厳しい中にも優しい対応をしてくれる者がほとんどだった。

 だから、人からこういうやや冷たいとも取れる対応をされることには、アルベルティーナも免疫が無かったのかも知れないとは思う。


(でも、まさか……。そんなはずは、ないわよね――)


 なんといっても、殆ど言葉もまともに交わしたことのない相手なのだ。

 嫌われるにしても、心当たりというものがまるでない。


 実はアルベルティーナ自身は、それまでにも古参の将校や士官らからそのちょっと変わり種の新米下級士官の噂を色々と聞いていた。

 特に、その剣の腕についてである。


「ああ。とは一度、手合わせしてみられるとよろしいかと思いますぞ、姫殿下。若いながら落ち着いておりますし、腕もなかなかのものでございます」


 顔なじみである中年の腕の立つ上級将校から、なんだか楽しげにそんな風に言われてしまうと、アルベルティーナはもうわくわくと胸の鼓動が高鳴ったものだった。

 そして、一刻も早くそんな機会が訪れることを心待ちにしていたのだった。


(……それなのに。)


 蓋を開けてみれば、こんなことだ。


 そんな調子で、無為のままに更に数ヶ月が過ぎた。

 しかし、アルベルティーナは遂に業を煮やして、顔馴染みの信頼の置ける上級将校の男を通じて、とうとう彼に打診してもらうことにしたのだ。男はもちろん、彼の上司に当たる人物だった。

 曰く、「ご迷惑でなければ是非一手、お手合わせをお願いできないでしょうか」と。

 この国の王女が一介の下級士官、しかも十四になったばかりの若造に向かって言うにしては、大変に下手に出た申し出だったはずだった。

 しかし。


『このような卑賤若輩の身には、まことに身に余るお申し出ではございますが。たいへん申し訳なきことながら、謹んでお断りを申し上げたく』――。


 その士官を通じて返されてきた彼の返事は、そういう素っ気無いものだったのだ。

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