第3話 塵 ※
あの頃。
少女はただの塵だった。
物心ついたときにはすでに、母はとある裕福な貴族のもちものになっていた。
それがきちんとした婚姻に基づく関係でないことを、少女はなぜか、幼い頃から知っていた。
母の主人であるその男は、母よりもずっとずっと年上で、当時の少女からすれば老人と言ってもいいような年齢だった。
男が母と少女の住んでいる小さな屋敷にやってくると、少女は召使いの女たちから「あの部屋へは今日は入ってはいけませんよ」ときつく言い渡されて、いつもとは違う部屋に寝かされた。
大人たちの事情など、そのときの少女には分からなかった。
ただ一度だけ、どうしても好奇心を抑えられずに召使いらの目を盗んで、夜中に母の寝室に行ってしまったことがある。
母はその老人とともに、奇妙な嬌声を上げていた。
そしてその老人はまるで、野獣かなにかのように醜悪に見えた。
昼間ですら、その瞳に宿る淫猥な光に――とはいえ、当時の少女にはそれが何を意味する光かまではわからなかったけれど――嫌悪を覚えたものだったけれども、夜のその男の獣性は、昼間の比ではなかったのだ。
暗い灯火だけの部屋の中で行なわれているそのことに、少女は本能的な嫌悪を覚えた。
そして二度と、母の寝室には近寄らなかった。
そうして日を追うごと、年を経るごとに、少女は次第しだいに、母を愛し、敬う気持ちをすり減らしていった。
それでも、母が歌ってくれる子守唄は大好きだった。
男のやって来ない夜、母は少女を胸に抱いて、優しい唄を歌ってくれた。
それは「お父様」も大好きだった曲なのよ、と母は夢見るような目をして言った。
その「お父様」がどんな方で、どんなお名前でいらっしゃるのかも、少女は知らされてはいなかった。
『あなたは本当にきれいな子。その髪も、瞳の色も……お父様にそっくりよ』
母はよくそう言って、ほんとうにたおやかな手で、そっと少女を撫でてくれた。
母にそう言われるまでもなく、本当は少女だって知っていた。
部屋で小さな鏡を前に、毎日それを見ていたのは、他ならぬ自分だったから。
つややかな黒髪と、陶器のような白い肌に薔薇色の頬、そして菫の花のような色の輝く瞳。
それがこの世界で言う「美しい少女」の顔なのだと彼女が知るのに、さほどの時間はいらなかったのだ。
『本当に美しい子。そりゃあそう。だってあなたは、王妃様になるはずだった子なんですもの……』
ときおり母は、夢うつつになりながら、そんなことさえ言うことがあった。
でも少女には、それがどういう意味だかはよく分からなかったものだった。
やがて。
少女が成長してゆくにつれ、母は次第に、不思議なことをするようになった。
普段からさほど贅沢な服を着せてもらえたわけではなかったけれど、とりわけその
髪をざんばら、もしゃもしゃにさせ、靴墨のようなものを頬に塗らせ、汚れたワンピースを身にまとわせた。
(どうしてわたくしみたいな子が、こんな格好をしなくてはならないの)
当然のように、少女はそう思っていた。
だが、母が心配そうに自分を見るその瞳の中に嘘や意地の悪い気持ちなどはかけらもなかったので、不満は言わずに我慢していた。
母は男がやってきても、少女を男に見せることもしないようになっていった。
「躾もなっておりませんし、あなた様にお見せできるような見目の子ではありませんので」というのが、母のいつもの言い訳だった。
少女はそのことに疑問は覚えていたけれども、とくに嫌だとは思わなかった。
なぜなら少女は、この世の誰より、その男のことが嫌いだったからである。会わずに済むものならば、一生だってそうしていても良いほどだった。
そして自分の容姿については、召使いの女たちが普段からこぞって褒めそやしてくれていたし、母も男のいないところでは勿論そうだったから、なにも不満には思わなかった。
だが。
そんな「ごまかし」は、やっぱりそう長くはもたなかった。
どうやら口の軽い召使いの女のひとりが、つい主人の男に向かって口を滑らせたらしかった。
ある日、少女はこれまでしたこともないような綺麗な装いをさせられ、髪もきれいに梳とかされて、その男の前に引き出された。
母は必死に止めようとしたらしかったけれども、ただの飼い猫にできることなど何もなかった。
男の目の中で、あの嫌悪を覚えずにいられないいやらしい光が溢れてぎらぎらと光るのを、そして男の口が密やかに舌なめずりをしたのを、少女はぞうっとしながら見つめ返していた。
素敵なフリルやリボンで飾られた薄紫色のドレスが、急に恐ろしく冷たい、重い鎧のように思えた。足は震え、身体はこわばって、逃げ出したいのにどうしても動くことができなかった。
さきほど着せて貰ったときには、天にも昇るほどに嬉しかったのに。
そしてその予感は、残念ながら十分に的を射たものだった。つまり、少女のこれまでのささやかだった幸せな日々の終焉を告げ知らせるものだったのだ。
少女はその夜、男の寝間に呼ばれた。
少女はやっと、八歳になったところだった。
その時、自分がなにをされているのか、少女には分からなかった。
何度も「いやだ」と、「ゆるして」と叫んだけれど、誰も助けには来なかった。
◆◆◆
翌朝見た母は、ただもう気も狂わんばかりに取り乱して、真っ赤に目を泣き腫らしていた。母はどうやら、一晩中、どこかに縛り付けられていたらしく、その手首には赤く擦れた縄目のあとがついていた。
そうして母は、ほとんど衝動的に少女をつれて召使いらの目を擦り抜け、屋敷の外に飛び出した。
その日は、冷たい雨が降っていた。
石畳が雨に濡れて、ほとんど裸足のようだった少女と母の足を刺した。
あの冷たさ。
そして、痛み。
それを、少女が忘れたことはない。
「お父様のところに、行きましょうね」
母はずっと、悪夢にうなされた人のようにそうい言い続けていた。
そうして、
町で商店をやっている平民の男や女が、変な目をしてこのびしょぬれでぼろ雑巾のようになっている母子を遠巻きに眺めていた。誰ひとり、「どうしたのか」と声を掛けてもくれなかったのは、後になって思えばそんなことが、当時はあちこちで起きていたからなのだろうと思う。
そのぐらい、天下を取って調子にのっていたムスタファ一派の貴族たちの
母は、王都のあちらこちらを娘を連れて彷徨った挙げ句、町を貫くようにして流れている大きな川にかかった橋の欄干から飛び下りた。
そして、二度と戻ってこなかった。
母の胸に抱かれて一緒に川に落ちた少女は、何故かひとり、助かった。
……助かって、しまった。
気がつくと、少女はもとの屋敷に連れ戻されて、召使いの女たちから手厚い看護を受けていた。
そこからのことは、あまりにも記憶が曖昧で、よく覚えていない。
たとえ覚えていたとしても、あまり人に語りたいようなことはないはずだった。
母の
やがてその男が年のこともあって引退し、当主の座を息子に譲ったあとは、自分の
恐ろしい夜がやってくると、上品な貴族の皮を被った獣どもが、少女の身体をむさぼりにやってきた。
相手の男は、一人でないことも多かった。
それがどこの誰で、どういう名前の男であるのかを少女が知るのは、もっと、ずっと後になってからのことだった。
やがて。
唐突に、少女は自分を名指しで探している、とある高貴なお方がいるのだということを聞かされた。
そして、これまであったことを主の男から厳しく口止めされた上、綺麗な服を着せられ、長い旅をさせられて、遠い隣国へと連れて行かれた。
そこで待っていた高貴な御方というのが、あのヴェルンハルト王の妹君、ティルデ様だったのだ。
ティルデ様は、お優しいかただった。
そのときには雷竜国の王妃さまになっておられて、エドヴァルト王からたいそう大切にされておられ、とても幸せそうだった。
少女の境遇を知って手をさしのべてくださったティルデ様は、少女を見るなり、もう滂沱の涙を流されて、少女を抱きしめてくださった。ティルデ様からは、母のような甘く優しい匂いがした。
「もういいのよ。もう、大丈夫ですからね……」
しかし、そう言われて泣かれても、いったいなにがどう「大丈夫」なのやら、少女にはさっぱり分からなかった。
はじめのうち、ろくに表情も変わらない少女のことを、ティルデ王妃はひどく心配されていた。そして、「こんなに美しい子が。なんてこと……」と、時おり声を殺すようにして泣いておられた。
まるで仮面のように冷たい表情で、機械仕掛けの人形のようにしか動かなかったとはいえ、少女はそれなりによく働いた。もともと頭の良い子供だったので、王妃様の身の回りの世話についてはすぐに上手にこなせるようになった。それで、まだ年は若かったけれども、ほどなく王妃様付きの侍女になることもできた。
「その人」のことについて聞いたのは、それから少したってからのことだった。
何かの話の拍子に、雷竜王エドヴァルト陛下とティルデ王妃様のあいだで交わされた会話のなかに、その人の名前が出てきたのである。
もう十年以上も前に、母国、
それで亡くなった先王と、王妃様。そして、まだ赤子であられた王太子殿下。
そして、少女は知ったのだ。
その王太子殿下が、本来ならば、自分の夫になるべきはずの人だったのだということを。
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