第9話 暗闘 ※

 レオンが離宮の手前、三百ヤルド(約三百メートル)ほどのところに到達した時、離宮の周囲はまさに、三色の軍服を着た兵士らで揉み合いと争いの真っ只中にあった。

 クヴェルレーゲン兵は紺や水色の軍服、それと共闘する形で黄土色や山吹色の軍服を着たドンナーシュラーク兵が、紅色の軍服の火竜国の兵士らに怒号を浴びせつつ殴りかかったり斬りかかったりしているところだった。


 離宮の周囲には一応、高い鉄柵が設けられており、南側と北側にひとつずつ門がある。兵らは主にその門の前で争っているようにも見えた。

 そもそもこの国に入るとき、王族の警護のためには一個小隊、五十名までの兵をつけることが許可されていた。しかし、どういう手段を講じたものか、ニーダーブレンネンの兵士らの数は明らかにそれよりも多かった。ざっと見ただけでも、軽く三百はいるだろうか。

 対するこちらは、クヴェルレーゲンとドンナーシュラーク兵を合わせても、総勢百名ばかりいるかいないかだ。特にクヴェルレーゲンの兵士は、屋敷内にも配備されている者がいるためか、中でも最も少ないように見える。友軍の劣勢は明らかだった。


 離宮の敷地から少しばかり離れた地点の植え込みの陰からそれらのことを見て取って、レオンはしばし考えた。

 この状況からして、火竜国軍が離宮内に入り込むのは時間の問題。

 奴らの目的が水竜国の王族二人なのだとして、伝令に走ったミカエラの知らせをうけてすぐ雷竜王エドヴァルトが兵を動かしてくれたとしても、おそらく間に合わないと思われる。

 自分ひとりがそこへ斬り込んだとして、さすがに無駄だとまでは思わないが、恐らくできることは限られよう。よしんば、王子殿下と姫殿下のもとにたどり着くまでにどうにか斬り伏せられなかったとしても、無傷でいるのは至難の業だ。

 そして、手負いになった自分が、姫殿下の側にいるのであろう、最も手強い相手と互角以上に戦うというのは、どうにも無理があるように思われた。


(どうする……!)


 ぎりぎりと、奥歯を軋らせつつ考える。

 そうするうち、レオンは、敵兵がどうやらこちらの兵士に致命傷を与えることは避けているらしいことに気がついた。

 火竜の兵らは、随分と恵まれた体躯の者が多い。一応それぞれに得物を手にしてはいるのだが、彼らはその体躯の利を活かし、抜き身で掛かってくる水竜や雷竜の兵士らを昏倒させたり、負傷させて戦闘不能にすれば、あとは次々縛り上げるなどして、そのあたりに転がして放置しているようだ。

 その様子から察するに、恐らく王子は、水竜国の王子と王女を殺すつもりまではないらしい。いや、だからといって安心できることなどひとつもあるわけではなかったが。


(エーリッヒ殿下は拉致申し上げ、今後の交渉材料にでもするつもりか――) 


 それこそ厚顔無恥な火竜王は、殿下の身柄を返す身代金代わりに、くだんの「蛇の尾」の一帯を寄越せとでも言い出しかねない。

 そして、姫は――。


 きりきりと奥歯が鳴るのを自覚する。


 姫の場合は、もっと切実な問題があろう。

 わざわざ言葉にするのもおぞましいが、このまま万一、敵の手に落ちるようなことになれば、彼女にとって一生の傷になる、それは惨いことが待っているのは間違いない。

 そしてそのまま、彼女は王族のだれかのものにされ、利用価値がなくなれば、やがては下級兵らや囚人どもへ下げ渡されて、火竜の国に監禁され、残りの生涯を送るしか――。

 それが一体どんな地獄であるかは、ここで脳裏に描くことすら憚られた。


(そんなことは……させん。)


 と、血の滲むほど拳を握り締めた、その時だった。

 石畳を駆ける馬蹄の音が聞こえ、伝令の者らしい紅い軍服の兵士が、こちらへ一騎がけしてくるのが見えた。

 レオンは咄嗟に、離宮側からの死角を探してそちらへ走ると、じっと植え込みの陰に身を潜め、抜刀して、騎馬が近づいてくるのを狙いすました。


 そして、まさに馬蹄が目の前を通り過ぎようとした、その瞬間。


 レオンは、一陣の風になった。



◆◆◆



 アルベルティーナの剣は、それでもどうにか数合は、かの火焔の王子の剣を凌いだ。

 しかし、残念ながら、彼我の力の差は明らかだった。


 火竜の王子は、レオンより少し年上なのだろうと思われる。

 上背があり、筋力の鍛え方、剣の技量とも、悔しいが申し分ない。

 何より困ったことに、この王子は、口では散々、人を小馬鹿にしたようなことを言う癖に、こと剣に関しては何の妥協も、相手を侮ることもしない性質たちであるようだった。相対あいたいするに、非常に厄介な性格である。


 重い剣戟を何合も受けて、アルベルティーナの両腕はすでにびりびりと痺れている。それでも唇を噛み締めて、彼女は剣を構えたまま相手の少年を睨み据えていた。

 その双眸は今まさに、碧い炎を発するかのようだった。

 そんな彼女の顔を見て、少年は軽く鼻を鳴らし、再び頬に冷笑を滲ませた。


「……そういうのを、『いい目だ』とかなんとか言うんだろうがな。剣筋も、まこと見たまま、なんともお綺麗、美しいものだ。生憎と、俺にはただ鬱陶しいとしか思えんがな。……むしろ、不快だ。反吐が出る」

 王子は無造作に剣をとん、と担ぐように肩にあて、本当に吐き捨てるかのようにそう言った。鼻の頭に皺を寄せるのは、どうやらこの王子の癖らしい。

「さっさと諦めて、素直にならんか、水竜の姫。事前から、あまり身体に余計な傷は作りたくない」

「…………」

 当然、アルベルティーナは無言だった。


「……可愛げのない」

 王子は、心底嫌気がさしたように言い捨てた。

「そもそも、女風情が剣など持つな。体格も筋力も、男に及ばんのは明白だろうが。そんな判断すらできない者に、剣を持つ資格などあるものか」

 王子の赤褐色の瞳に、なんとも知れないくらい光が渦巻いている。

「ここで俺に抗えば抗うほどに、敗れた暁の制裁が嗜虐を極めるとは思わんのか? さっさと諦めてその無駄に美しい体を明け渡せ。そうすれば、お前の後ろにいる女どもも、少しは兵どもからましな扱いをされようというものだろうが」

「…………」

 アルベルティーナは眉を顰めて、ただ黙って聞いている。

 その辛辣しんらつな王子の言葉を耳にして、背後から声にならない悲鳴が上がったようだった。

 それを聞いて、王子はさらに苛立ちの度合いを深めたようだった。


「貴様はその者らの主なのだろう。臣下の身の上を案ずるのは、この場での貴様の仕事ではないのか? そこでただ泣いている、この間まで母親のはらの中にいたような小便臭い小僧が、役に立たない以上はな――!」

 次第しだいに、王子の声が真っ黒な怒りに塗りつぶされてゆくのを、アルベルティーナは怪訝な思いで聞いていた。


(いったい、なんなの……?)


 この王子は、何を言っているのだろう。

 いや、もちろん言葉の意味は理解できるが、どうも先ほどから、その矛先が目の前にいる自分や、弟のエーリッヒではないような気がしてならないのだった。

 そして今、この王子の根底にあるものが、ちらりとその片鱗を覗かせているような気がしていた。


(それは……なんなの?)


 この少年には、怒りがある。

 それも空恐ろしいほどの、血を吐くほどの思いに裏打ちされた、憎悪や焦燥に塗れた怒りが。

 その真の姿がなんであるかなど、そちらの国の事情など知らない、他国の姫に過ぎぬアルベルティーナの理解の外ではあるけれど。


「……もういい。飽きた」


 遂に吐き捨てるようにそう言い放って、アレクシスがその得物をずいとアルベルティーナに突きつけた。

「腕の一本二本は覚悟しろ。生きてさえいればいい。その上で、散々に男どもに犯されろ。豚のように鳴きながら、それが貴様の判断の結果だと、身をもって知るがいい」


(…………!)


 まさに、地獄の使者の宣告だった。

 アルベルティーナは再び唇を噛み締めると、自分の得物の柄を握りなおした。

 背筋を駆け上がる悪寒に、負けている暇などなかった。


 が、まさにアルベルティーナが火竜の王子に向かい、渾身の一撃を打ち込もうとした、そのときだった。

 突然、王子の背後から異音がした。


「……!?」


 はっとして王子が身をかわした時には、彼の背後に立っていた巨躯の兵士二人が、なにかふらふらと体の支柱をなくしたように揺れていた。

 どちらも目の焦点が合っておらず、そうと見る間に右側の男の首が、もとあった場所からずるりとずれた。ごとっと、そのまま頭部が床に落ちる。

 ぶしゅっと嫌な音がして、近くの壁に真っ赤な飛沫が飛び散った。


 見れば、もう一人の方の首からは、後ろから差し込まれた白刃がぬうっと突き出していた。

 巨体のために、その後ろがよく見えない。見えないが、彼らと同じ、紅い軍服を着たもう少し小さな姿がちらりと見えた。


 と、その白刃が抜き去られ、背後にいたニーダーブレンネン兵がぱっと跳ね上がるようにしてこちらへ飛んできた。それと同時に、巨躯の兵士の体ふたつが、折り重なるようにしてどうっと倒れる。

 謎の影がこちらのすぐそばにやってきたことで、一瞬だけぎくりとしたアルベルティーナだったが、それはすぐに、驚愕から安堵に変わった。


「レオン……!」


 そうだった。

 何故か紅いニーダーブレンネンの軍服に身を包んだレオンが、顔半分を返り血に染めた凄まじい出で立ちで、アルベルティーナを背後に隠すように、アレクシスに向かって立ちはだかっていた。手には血刀を提げている。


 火竜の王子が、剣呑な視線でこちらを睨んだ。

「……なんだ、貴様。水竜の犬か」

 アレクシスは獲物を見定める鷹のような目をして、じろりとレオンの姿を見やった。

「まさかとは思うが。単身、ここへ乗りこんできたのか? 命知らずもいいところだな」


 とは言え、レオンはこの出で立ちだ。途中までは、恐らく火竜国の兵士として、敵兵の間を素通りしてきたものだろう。


「……姫殿下。お怪我は」


 レオンは、特に息も切らしていなかった。

 平素のとおり、ただ静かな声で最低限のことだけを訊いてくる。

「ええ、……大丈夫――」

 アルベルティーナはやっとそれだけ答えた。

 必死で堪えていなければ、今にも声が震えてしまいそうだった。しかし、目の前の王子の前では、決してそんな醜態は見せられない。それだけは、せめても一国の王女として、最後の矜持として守りたかった。


 ごく一瞬だけ、ちらりと視線をこちらへ寄越して、レオンはほっとした様子を見せ、軽く頷いてきた。

「……お下がりを」

 そうして、血刀を握りなおす。勿論、相手は火竜の王子、アレクシスだ。

 王子は王子で、不快げに目を細めたまま、じろじろとレオンを観察する様子だった。しかしやがて、ふと怪訝な様子でこう言った。


「貴様……。どこかで会ったか……?」

「貴様のような畜生風情に知り合いはない」

 レオンの声はごく平静だった。

「……なんだと?」

 ぎらっと、王子の双眸が気味の悪い光を放つ。ちゃき、とその得物の切っ先をぴたりとレオンに据えて、王子は問うた。

「一国の王の子を畜生呼ばわりとは、なかなかに豪胆な奴。死ぬ前に名乗りを許すぞ。なんと言う」

 嘲弄するばかりの表情と声音だったが、その実、その瞳の奥には明らかに、ぐらぐらと暗い怒りが仄見えた。


「女の居室に押し入る外道に、名乗る名はない」


 レオンのいらえは、むしろ涼やかなほどに凪いでいた。

 かっと、王子が目を見開く。


「おのれッ――」


 ぎいんっ、と、部屋に重い金属の音が響いた。

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