第10話 夕闇 ※
「おのれッ――」
王子の鋭い叫びと共に、重い金属の音が響き渡った。
一瞬、火焔の王子の剣先が一閃し、レオンの肩先を掠めたようにも見えたが、レオンは僅かな動きでそれを
ぱっと王子が身を引いて、さらに二撃、三撃と放ってくるのを、レオンは一歩も
きいん、ぎゃりりっと、二人の長身の少年が何合も斬り結ぶ。
(いえ、違う……!)
アルベルティーナは唇を噛んだ。
「一歩も退かずに」と言うのは、正しくない。たとえ退きたくとも、彼には退くべき場所がないのだ。
すぐ後ろにはアルベルティーナが、背後で抱き合っている女官らと弟を守るようにして床に膝をついている。
自分たちがここにいることで、彼は思うようには戦えない。そう思えば、アルベルティーナはただ悔しかった。
火焔の王子の剣勢は、王族の子としてただ甘やかされた
実際、後ろから見ていても、王子はアルベルティーナを相手にしているときよりもはるかにその斬撃の速度と峻烈さを増している。いまやその剣先には、正真正銘、
これも口惜しい限りだったが、先ほどは明らかに、この王子も手加減をしていたということだろう。散々あんな事は言っていたが、やはりこれからいたぶろうという女の身体を、この王子もそうは傷つけたくなかったということか。
そうやって侮られたのだと思えば、アルベルティーナの身内はどうしようもなく、冷たい悔しさに満たされた。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。どうにかして、背後の皆を逃がすことを考えねば。
と、その時だった。
「殿下! アレクシス殿下! ドンナーシュラーク兵が!」
扉の向こうから、敵兵のそんな叫びが聞こえた。
(伯父様……!?)
それと同時に、アレクシスはさっと身を引いて、素早くレオンの間合いから離れた。
剣先と視線はレオンに当てたまま、背後の声に応える。
「えらく早いな。数は」
「は、五百騎はいようかと! こちらに向かって進軍中!」
ふ、とアレクシスが肩の力を抜いたらしいのが見てとれた。にやりと、またその口角が引きあがる。
「ふん。見張りでも置いていたのか、あの
特に驚いた様子もないのは、それも予測のうちだったということか。
(何を考えているの、この男……!)
アルベルティーナは呆れるを通り越して、もはや人ならざる者を見ているような心地でそう思った。
そもそもこの王子、ここからどうやって帰国するつもりなのか。ドンナーシュラークの王都のど真ん中、それも王宮の内部でこんな暴挙に及ばれて、いくらあの温厚な伯父でも、このまま黙っているわけがないだろうに。
第一、無事に帰国できたとして、今度は父親である火竜の王から、この少年はどんな咎めを受けることになるというのか。
いや、それもこれも、この狂気の王子にとってはどうでもいいことなのかも知れないが――。
やがて、アレクシスは今までレオンと命の遣り取りをしていたことなどまるで嘘のように、あっさりと剣を引いた。そうしてそのまま、すっと扉の方へと後ずさる。
「勝負は預ける。……ではまたな、『じゃじゃ馬姫』」
もはや「にこやか」とでも言いたいような、しかし凶悪そのものの笑顔で、最後にそんな言葉が飛んできた。
言葉の前半は、勿論レオンへ。
そして後半は、アルベルティーナに向けたものだった。
二人は当然、無言で相手を睨み据えているだけである。
王子は構わず、気味の悪い笑みをその整った相貌に貼り付けたまま、最後にこちらを見下すような一瞥を投げると、すいと部屋から出て行った。
レオンが血刀を手にしたまま、すぐに部屋の扉側へ歩み寄り、周囲を確認してから扉を閉めた。扉は、一度破られているために
雷竜王の軍が到着するまで、彼はここに立て篭もり、ともかくもアルベルティーナらを守るつもりのようだった。
「あ……ね、うええ……っ」
涙で顔中めちゃくちゃにしたエーリッヒが、まだがたがた震えながらもアルベルティーナにかじりついてきた。彼女は弟の小さな体を力いっぱいに抱きしめた。
「大丈夫よ! エーリッヒ。すぐ、伯父様たちが来てくださるわ――」
よく見れば、可哀想に弟は、あまりの恐ろしさに失禁してしまっているようだった。
無理もない。この年で、生まれてはじめてこんな恐ろしい目に遭ったのだ。
わあわあ泣いている小さな弟の頭を両手で何度も撫で、額や頬をくっつけてやり、アルベルティーナは彼を宥めた。
「大丈夫。大丈夫……! もう大丈夫よ、エーリッヒ……!」
ふと見れば、顔半分を血に染めたままのレオンが、肩越しに横顔でこちらを見ていたようだった。
しかし、彼はアルベルティーナの視線を受けた途端にふいと顔をそむけ、袖で顔の血糊を拭い取るようにしてから、上着を脱いだ。そしてそれを、先ほどみずから殺した敵兵らの頭部の上に被せて隠した。無残な死体を、エーリッヒや女官たちの目に触れさせないための配慮であるらしかった。
彼はそのままこちらに背を向け、あとはもう、剣を提げたまま入り口側を向いて立ち尽くすばかりだった。
「あの、……レオン」
「お静かに。まだ、敵兵がすべて去ったかどうかは分かりません」
すぐに低い声で遮られ、アルベルティーナは黙り込んだ。
彼に対し、自分たちを助けに来てくれた礼ぐらいは言いたかったのだけれども、確かに彼の言う事は正しかった。
アルベルティーナは黙って頷き、弟にそっと囁いた。
「エーリッヒ。まだ、少しの間、静かにしていましょうね。もう大丈夫だから。ね? 泣かないで……?」
エーリッヒは彼女の胸元に顔を押し付けるようにしてしがみついたまま、まだしゃくりあげながらも、こくこくと頷き返してくれた。
◆◆◆
火焔の王子の一団は、その後、速やかに王都を去った。
のちのち、伯父である雷竜王エドヴァルトから聞いたところによれば、彼らは伯父の発した追撃軍一個師団の猛追をもするりと
要するに、彼は事前にきちんと逃げる算段もつけた上で、アルベルティーナらを襲いにかかったということなのだろうと思われる。実はあれで、こちらが思っている以上に用意周到な計画だったのかも知れなかった。
追いつかれそうになったその瞬間、両国国境ぎりぎりの地点で、王子はこちらに向かって「火竜の結晶」による火炎攻撃を仕掛け、雷竜国軍の進路を巨大な炎の盾で塞いで見せた。
立ち往生した雷竜国軍を
◇
「いやあ、ご苦労さんやったねえ」
逃げた王子の追撃を手下の兵らに命じたエドヴァルトがアルベルティーナらのところにやってきたのは、保護された彼女らが宮殿内に招き入れられ、ひと通り、入浴や着替えなどを済ませた後だった。
その時二人は、すでに温かな客間のソファに収まって一緒に毛布に
「いいえ。このたびはまことに有難うございました、伯父様。伯父様がすぐに王国軍を差し向けてくださっていなかったら、今頃はどうなっていたことか――」
あの時、あの王子もちらっと言っていたとおり、この王は王子の様子を不審に思い、あの離宮近くに自分の兵士を数名配置しておいてくれたらしい。レオンも王妃の侍女の少女を通じて急報してくれたらしかったが、やはりそれを待っていたら間に合わなかったとの話だった。
「こうして無事でいられますのも、伯父様のお陰です。まことに、なんとお礼を申し上げれば良いでしょう――」
「いやいやいや、やめてえな!」
隣にいるエーリッヒの小さな体を抱くようにしながら頭を下げたアルベルティーナに、王は慌てて手を振り、言葉を遮るようにした。
今はもう、弟エーリッヒもだいぶ落ち着きを取り戻していたものの、それでもソファの上で隣に座り、べったりとアルベルティーナにくっついて、ちっとも離れようとしなかった。
まあ、あれだけ怖い思いをしたのだ。いつもだったら「あなたももう大きいのだから」と言って引き離すところだったけれども、今度ばかりはアルベルティーナも、弟のそんな甘えを許していた。
「今回ばっかしは、ほんま済まんことやったわ。幸い、死んだんはあっちの兵士らだけやったらしいけど……」
さすがのエドヴァルトも言葉を濁すのを見て、アルベルティーナも眉を顰めて俯いた。
こちらの兵士も、一応命は助かったものの、骨折や打撲などの被害は相当なものだった。中には怪我の程度がひどく、もう兵士としての務めができないかもしれないような者もいるらしい。
何よりも、実はあの時、たまたま離れた場所にいて、自分たちと一緒に逃げられなかった使用人の女性の幾人かは、恐れていたとおり、発見した時にはすでに、敵兵らの
かれらには、しばらくこちらで療養させねばならないだろう。
彼ら、彼女らのその後のことを思えば、アルベルティーナもただただ暗澹たる気持ちにならざるを得ない。彼女はぎゅっと唇を噛んだ。
「いいえ……。それでも、どうにか被害を最小限にできたのは、伯父様のお陰です。まことに有難うございました……」
「なんか、必要なもんがあったら何でも言うてな。こっちの女官、何人か寄越すよって。クヴェルレーゲンには、すぐに早馬送って知らせといたけど、ほんまにあっちの迎えは待たへんでええんかい?」
「はい。できるだけ早く、帰国の途に就きたいと思っております。まことに、お世話になりました」
座ったままではあったが、心をこめてしとやかに礼をすると、王は苦笑して、また首を横にふった。
「さよか。とにかく港までは、こっちの警備兵、わんさかつけさしてもらうさかいにな。帰りはもう、安心してお戻りや? アルベルティーナ」
そう言ってから、何故かエドヴァルト王は、いつものように部屋の隅に直立不動の姿勢で立っていたレオンのほうを見やったようだった。
彼もすでに、血糊で汚れた顔をきれいに拭い、いつもの薄青をしたクヴェルレーゲン兵の下士官姿に戻っている。
「今回は、えらい素晴らしい働きやったみたいやね、レオン君?」
「……いえ」
王族から自分にいきなり声が掛かったことを怪訝に思ったのか、レオンはぴくりとこちらを見た。
「なんや物語にでてくるみたいな、姫をお救いする
王は何が楽しいのか、底意のない顔でけたけた笑っている。
「それが仕事でございますので」
素っ気無くそう言って、少し目礼をし、直立不動の姿勢に戻ったレオンを、エドヴァルト王はやっぱりちょっと意味ありげな笑顔を浮かべて、しばらく見つめていたようだった。
そういえば、先ほど彼を引き止めて彼らだけで話をしてみた結果、レオンがこの国の王妃様によく似ているのは、単なる他人の空似だったのだということがはっきり分かったのであるらしい。
なんとなく、アルベルティーナはその話に釈然としないものを感じたのだけれども、当のこの王と、レオン本人がそう言うのだから仕方がなかった。
やがて、エドヴァルト王は軽くアルベルティーナの肩を叩くようにすると、「ほな、気をつけてお帰りや?」と笑って言い、大股に部屋から出て行った。まだ手下の兵らがあの火竜の国の王子を追撃中でもあり、王たる彼も、何かと忙しいようだった。
「……あら」
ふと見れば、アルベルティーナに
女官たちがそれに気付いて、彼をそっと抱き上げ、続き部屋になっている寝室の方へと連れて行った。
少しの間、部屋がしんとする。
今ここには、アルベルティーナとレオンの二人だけになったのだ。
(……?)
その時ふと、アルベルティーナはある違和感を覚えてレオンを見つめた。
(なに……?)
彼は、いつもと同じに見えた。
しかし。
彼が身体の両脇に下ろしているその手は、固く拳の形に握られていた。そして、よくよく見ればそれが、ごく小刻みに震えていたのだ。
アルベルティーナは、驚いて彼の顔をじっと見つめた。
気のせいか、彼の頬は少し青ざめてもいるようだった。
「レオン……?」
と、彼がぱっと、震えている己が拳をもう片方の手で握りこむようにした。
「……申し訳ありません」
押し殺したような、低い声。その額には、厳しい皺が立っていた。
アルベルティーナは思わずソファから立ち上がり、彼の方に近づいた。彼ははっとしたように身を引いて、彼女に背を向けるようにした。
「どうしたの……レオン」
「いえ。……お構いなく」
顔を背けたまま、レオンは窓の外を睨むようにしている。
まるで窓の外に、親の仇でもいるかのようだ。
彼の手の震えは、まだ止まらない。
アルベルティーナは、何かただならぬものを感じて、じっとレオンの横顔を見つめてしまった。
思わず声をひそめ、そっとまた一歩彼に近づいて、もう一度訊ねる。
「……教えて、レオン。どうしたのです……?」
「…………」
彼がさらに、ぎゅっと眉根を寄せた。
だがやっぱり、沈黙したままだった。
(もう……!)
とうとう、アルベルティーナは最終手段に出た。
「言いなさい、レオン。……命令よ」
もっとも使いたくない手だったが、この際、仕方がなかった。
なるべく優しい言い方はしたつもりだったけれど、それでも命令は、命令だろう。
臣下の身である彼に対して、卑怯な手段であるには違いなかった。
「…………」
思ったとおり、レオンがまた非常に困った顔になった。
しばし、二人の間に長い沈黙が下りる。
やがて。
彼はとうとう、諦めたように吐息をついて、ぽつりと言った。
「……初めて、人を斬りました」
それは、ひどく掠れた、低い低い声だった。
そう言ったきり、レオンはまた唇を引き結び、じっと遠くを睨みつけるような目になって黙りこくった。
「…………」
アルベルティーナは、絶句した。
なんと言っていいか、分からなかった。
それは、そうだ。
実戦に出たこと自体、彼だってこれが初めてだったはずなのだから。
ついうっかり、彼がまだ、自分と年の違わぬ少年だということを失念していた。
なにか彼が余りにも、すべてのことを淡々と、また堂々とやってのけたようにしか見えなかったものだから。
いや、彼だって、あの瞬間にはただ夢中でそうしただけだったのに違いない。
(……そんなはず、なかったのよね……。わたくしったら――)
きりきりと胸が痛みだして、アルベルティーナは俯いた。
「…………」
アルベルティーナは、何も言えない代わり、まだ震えている彼のその拳の上に、自分の両手をそうっと重ねた。
ぴくりと、レオンの身体が一瞬強張った。
しかし、彼は今回は逃げなかった。
両手でそのまま、彼の拳を包み込む。
それでもレオンは、逃げないでいてくれた。
彼の手は、ひどく冷たかった。
そしてまだ、細かくぶるぶると震えていた。
その手が可哀想でたまらなくなり、アルベルティーナは彼の手を温めるようにして自分の手に力をこめた。
この手があったから、自分は今、無事でいられる。
彼がこの手を汚してくれたから、こうして立っていられるのだ。
胸の痛みは傷を深め、ずきんずきんと、見えない血を流して疼いていた。
と、ずっと窓外を睨みつけていた彼の翠色の瞳が、ふっとこちらを見つめてきたようだった。
「…………」
そしてまた、動きを止める。
彼は、何かに驚いているようだった。
アルベルティーナは、長身の彼を見上げた拍子に、なにかがころころと、頬を伝って顎のほうへ落ちていったのに気がついた。
彼の瞳が、不思議なほどに、ふっと優しい色を取り戻したようだった。
気がつけばいつのまにか、彼の手も震えを止めていた。
窓の外はいま、夕闇の迫る刻限である。
彼方の空が、鮮やかな橙色に染まっている。
その向こう、端を
その窓辺の内にいる、
レオンも、アルベルティーナも、無言だった。
二人は黙って、そのまましばらく寄り添っていた。
そうして、女官たちが戻ってくるまでの少しの間、すべてが夕闇に落ち込む僅かな
しかし。
この時、二人は知らなかった。
部屋の外、わずかに開いた扉の隙間から、侍女の姿をした黒髪の少女が、その菫色の瞳を燃え上がらせ、しゃかりきに爪を噛みながら、彼らの姿を見ていたことに。
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