第7話 鏡台
その青年は、いつもとても控えめな声で挨拶をする。
《……ミカエラ様》
その声が頭の中に響いただけで、「あら、またあの子ね」と即座に分かるのだけれども、あいにく自分はすぐに返事はしてやらない。
今は実質、我がもの同然となったお屋敷の、ずっと奥まったところにある自分の部屋で、鏡台の前に座ってちょっと髪など直しながら、ゆったりと時間を掛けて焦らしてやるのだ。
《ミカエラ様。聞こえていらっしゃいますでしょうか》
若々しくて柔らかなその声は、とてもあの勘気まみれの王太子の側近だとは思えない。何度かあちらの国へと跳んで、直接その姿を見たこともあるのだけれど、実物のほうもまあ、この世の人とは思えないほど、驚くばかりの美しい青年だ。
どういう経緯で側近になったものかは分からないが、そんな容姿でありながら、あの王太子が彼を閨に侍らせることはせず、文官としての地位を与えたというのはちょっと不思議にも思われた。
あまり大きな声で言うことでもないが、かの火竜の王宮は、いわゆる男色に対する敷居がさほど高くないお国柄なものだから。
まあ確かにそうなっただけのことはあって、この青年、記憶力そのほかの実務上の能力は凄まじいらしい。しかし、性格的にはどうも押しの強い青年ではないらしく、こうして自分に連絡してくる場合でも、いつも控えめで優しい物腰を崩さない。
そこが曲者と言えば曲者なのかも知れないので、自分も決して気を許したつもりはないのだけれど。
ともかくも、あの徹頭徹尾、上から目線で我を通すことしか頭にないような王太子自身が話をしてくるのとは雲泥の差には違いない。
《ミカエラ様。……
「聞こえているわよ。さっさと用件をおっしゃいな」
青年の声が困惑したような色になって、ようやく初めて返事をする。
今の自分は、ごく若くして夫を亡くした、とある貴族の未亡人としてこの屋敷に入り込んでいる。
もともと結構な資産家で、この広くて瀟洒なお屋敷と気持ちのよい別荘と、穀物のよくとれる広大な領地、そしてそこに働く農民たちも沢山おり、生活に不便はまったくない。
そしてなおかつ、この国での自分の活動の自由度を増すために、自分はわざわざあのムスタファの一派に属する伯爵家のひとつを選んだのであった。
もともとの本物の未亡人の女についてはどうなったのかと言えば、もう随分と前にその命から財産から、果てはその容姿まで、そっくりそのままこの手に貰い受けたのである。
そういうわけで、この自室にいる時以外は、自分は自分にその女の容姿に化ける魔術を施すことにしているのだ。
本来の自分の年齢からすると随分と年増の女の姿を借りる形になって、十分満足とはいえない状況ではあるのだけれど、大きな目的のためには今はあれこれ手段を選んではいられない。
それに日々、美しい宝石や、身を飾るドレスにこと欠かないということは、女の身としてはなにより重要なことだった。
「王太子殿下のこのたびのご計画が、不首尾に終わった事はもう知ってるわ。あの女を捕まえられなくて、今頃さぞや殿下はご傷心でいらっしゃることでしょうね」
《…………》
「それで? あなたはまた、その憂さ晴らしにと、かの御方から全身を燃やされておしまいだったのかしら?」
たっぷりと意地の悪い皮肉をまぶしてそう言ってやったら、相手の青年が、さらに困ったように沈黙した。
この青年、本当に犬っころのように、あの困った殿下に心酔しているのだ。
あんな男に仕えているわりに、そして能力だって決して低くはないはずなのに、その心が僅かも歪む様子でなく、ただただあの王太子に仕えたいと心に思い定めているらしいのが、こんな思念のやりとりだけでも、手に取るように伝わってくる。
それがいまの自分には不思議でもあり、なんとなく不愉快でもある。
《ともかくも、かの方々については、このたびのことでおおまかな居場所は分かったわけですから。ミカエラ様には、できればお二人をほんの少しの時間でも、引き離す策を練っていただきたいのですが……》
「ふうん? そうねえ……」
実を言えば、八年前のあの日以来、自分はあまりあの火竜の王太子と緊密に連絡をとっていない。
自分はこの風竜国へと戻ってきて、大切な最終目的のために地歩を固める必要もあったわけだし、昼と夜とに人としての時間を隔てられたレオンとあの女は、一緒にしておいたからといってどうにかなることもできないわけだ。
だから、少し時間を置くのもひとつの策だと思ったのである。
もちろん、あの女をいつまでも彼の側に置いておくことをよしとしていたわけではない。しかし、こちらにもおいそれと彼らに関わってばかりはいられない事情ができてしまったのである。
あの日、「蛇の港」と呼ばれたあの町で、水竜のあの姫は、自分が望んだのとは似ても似つかぬ、凄まじい魔力を秘めた白く巨大な竜になった。
それは恐らく、水竜と、雷竜の加護の力が自分の呪いを跳ね返し、さらにそれだけにとどまらず、彼女に膨大な魔力を与えた結果のことなのだろうと思う。
そして彼女は、初めての
即座に自分の強力な「跳躍」の魔法を使っていなかったら、正直言って、自分だってあの時に、周囲のただ人の兵士らと同じように水蒸気みたいな姿になって四散していたのに違いなかった。
あの女自身がどう思っているかは知らないが、あの魔力の量は、ひとりの人間が抱え込むにしてはあまりにも膨大なものだった。
「風竜の眷属」となったとはいえ、あれはとても、今の自分の魔力で対抗できるような代物ではない。それはきっと、あのアレクシスでも同様だろう。
もしも彼女を本気で怒らせ、真正面からその攻撃を受けてしまったら、心底悔しい話ながら、自分は恐らくその勝負に負けるに違いないのだった。
だから自分は、できることならあの火竜の王太子に、うまくあの女だけを捕まえてレオンから引き離してもらおうと考えていたのだ。
王太子がその準備をしている間、自分の方ではちゃっかりと、こちらの国でレオンを王位につけるための下準備に
そのためのある程度の協力はしたけれども、別にこちらはあの男の臣下なわけでもなし、手伝うのはこちらの気が向いた時、気が向いたことだけだったのだ。
なるほど、「火竜の結晶」を使ってあの女を閉じ込めるというのはいい考えだったと思う。思うが、それでもその作戦は結果的には失敗した。
その敗因のひとつは、他ならぬ王太子アレクシスが、あのレオンの力を見くびったことにあるだろう。どうもあの男、半分馬にされた彼のことを必要以上に小さく評価しすぎるきらいがあるのだ。
(本当に、馬鹿ね――)
あれでも、彼は風竜王なのだ。
呪いを受けて、半分人としての人生を奪われた身だとはいえ、その心の高潔さも、剣の腕にしても、わずかも衰えたりなどはしていない。
いやむしろ、この八年の辛い放浪生活のなか、剣の腕はより冴えて、そこに精神的な強さというのか、いざという時には非情にもなれる覚悟というのか、そうしたものを身につけたような感じがあった。
あの時、レオンはまるでそのことを自ら証明するかのようにして、凄まじい能力を披露して見せた。
つまり、あの女を攫われて後、あの小さな少年を伴っているにも関わらず、それでも昼夜を分かたずにあのおぞましい馬車を追い続け、遂に王女を救い出してしまったのだ。
それもこれも、当のアレクシスが彼の力を見くびりすぎた結果ではないか。
まったく男という生き物は、己が力に溺れやすくて困る。
「勝手なことを言わないで。それもこれも、すべてそちらの不手際でしょう。自分の失態は、自分でどうにかして頂きたいわね」
ややいらついて、青年の声にぶっきらぼうにそう答える。
青年のほうでは恐縮したように少し黙って、またこう言ってきた。
《はい。お気持ちは重々、お察しいたしますが……》
ミカエラは、すぐに相手の言を遮った。
「というか、お願いごとがあるのなら、王太子自身にさせなさいな。どうしてわたくしに『お願い』するのは、いつもあなたということになってるの」
《い……え、それは――》
こんなこと、本当は聞くまでもないことだった。
あの高慢ちきな王太子が、いくら同じ眷属だとはいえ、他国の没落貴族の娘なんぞに頭など下げるはずがない。
だからこれは、単にこの青年が、自分の考えで「お願い」してきていることに過ぎないのだ。いや少なくとも、そういう
(……本当に、くだらないわね。)
忌々しい気持ちを押し隠すようにしながら、それでもミカエラはつらつらと考えた。
そうして、やがてにいっと口角を引き上げて、声の主にこう尋ねた。
「では、そちらの王宮にもうひとつ、別の『
《……は? もうひとつ……ですか?》
「というか、もうすでに用意してあるのではないの? だって、先日のことだって、あの女をただ連れ帰るだけでは、そちらには意味がなかったのですものね……?」
ミカエラは、その答えをほぼ確信しつつも鎌をかけた。
《え……あ、その》
青年の声が、やや躊躇いながらも頷いたようだった。
《ええ、まあそれは――はい》
(やっぱり……。)
思ったとおりだった。
あの女を捕らえておくための「檻」は、なにもあの馬車のみではなかったのだ。
馬車のほうは、レオンの手で粉々にされてどこかに隠されてしまったようだけれども、火竜の国にはもっと大きな、あの女を入れておくための「檻」が準備されているのではと思っていた。
そのミカエラの推測は、どうやら間違っていなかったらしい。
(それがあるなら……どうにかなるわね。)
「なら、問題ないわ。そういうことなら、今回はもう少し、うまく協力することにしましょうか」
にこにこ微笑みながら、そう告げる。
「こちらの用意もそろそろ整ってきたことだし」という台詞は、心の中だけで呟いた。
いまやこの国に沸き起こりつつある「レオンハルト殿下擁立」の動きは、今後さらに加速してゆくことになるはずだ。このままいけば、ごく近いうちに、彼を表舞台に引っ張り出すことが可能になるはずだった。
彼からあの女さえ引き離せば、あとは非常に簡単にことが運ぶはず。
彼は決して、父の臣民だった人々の、悲嘆の声を無視できないはずだから。
ミカエラ自身、そんな確信を持てるところまでは、すでに国内の事態は動いてきているのだった。
「では、よくよく相談が必要ね――」
と、ミカエラがぺろりと唇を舐めてそう言いかけた時だった。
「奥様。……あのう、よろしいでしょうか」
部屋の外から控えめな声が掛かって、ミカエラは振り向いた。
それは、自分付きの侍女の声だった。
「ああ、ちょっと待って」
ミカエラは侍女にそう返し、ここでいったん交信を切り上げることにした。
ここまでは声を出して話していたが、ここからは思念のみで意思を伝える。
《詳しい事は、また改めて連絡するわ。では、あなたの大切な王太子殿下によろしくね》
《はい。恐れ入ります、ミカエラ様。どうぞ、諸々よろしくお願い致します――》
青年の思念に、やっとほっとした調子が戻る。
《……ああ、それから》
ミカエラは意地の悪い色をふんだんにまぶした思念で、最後にしっかりと釘を刺した。
《くれぐれも、殿下に『次はありませんわよ』、とお伝えしてね? ヴァイス》
《……は、はい――》
やや困惑したような相手の青年の声を最後に、交信はそこでふつりと途絶えた。
そんな皮肉な最後の台詞を、あの青年が馬鹿正直に彼の
ミカエラは満足げな笑みをその美しい口許にふわりと乗せると、軽く指先を顔の前で揺らし、自分に魔法の気配をまとわりつかせた。
そうして、あらためて扉の外に向かって声を掛けた。
「いいわよ。入って」
それはもう、もとの甲高い声ではない、おっとりと低い中年女のそれになっている。
彼女の見た目も、それに相応しい年増の貴族の未亡人のそれに
物憂げな風情をその目元に落とした中年女は、きびきびした足取りで部屋に入ってきた侍女の少女に、嫣然たる微笑みを送ったのだった。
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