第3話 失踪
その日、風竜宮からその女の姿は消えた。
それとともに、とある巨躯をした武官も姿を消した。
それだけのことであれば、さほどの大騒ぎにはならないことだった。
しかし、女は先日風竜王になったばかりのレオンハルト陛下の
ところが、やがてレオンハルトからの臣下に対する告知が出されて、王宮や王都の人々の口さがない噂話も次第に下火になることになる。
曰く、
「王の許婚であったミカエラは、ここに至るまでの己が罪について深く悔恨を覚え、諸国を巡っての贖罪の旅に出ることとなった。上級武官ファルコについてはその『護衛』としての任に当たらせている。また、ミカエラ本人の希望により、この婚儀は白紙に戻った。以降、皆々にもそのように申し伝えよ」
ということだった。
◇
「それって要するに、レオンハルト陛下が振られた、ってことでいいのか?」
「いや〜、よく分かんねえけど……」
「それはないだろ? だってミカエラって女のほうがめちゃくちゃ積極的だったって話だし――」
「いやでも、あのミカエラって女、俺は見たことあるんだけどさ。すごく不気味だったんだよなあ。なんか、おっそろしい魔法を使う魔女だったなんて噂もあるしさ」
「それを言うなら、陛下だって風竜神さまのご加護をうけて、いまは黒き竜になられるんだろ? お似合いって言やあお似合いなのによ――」
「でもまあ、俺はほっとしたねえ。だって噂じゃあ、レオンハルト陛下はもともと、
「ああ、だよなあ。すげえ綺麗な姫さんだって噂だけど。どんなお方なんだろうなあ――」
とまあこんな調子で、口さがない下級兵らや、王都の民らの噂話は、大体そんな風に推移していた。
(しょ〜がねえなあもう、庶民ってのは……)
クルトは、自分も
ここはそんな、
目の前に運ばれてきた、湯気のたつ鶏肉と野菜のシチューやら雑穀パンやらをどんどん腹につめこんでいきながら、テーブルの前に座っているちぢれた赤毛の男をちらっと見やる。もちろん、カールだ。
彼は彼で、耳をそばだててそんな周囲の男や女たちの話をずっと聞いていたようだった。
「結構、噂になってるんだなあ。レオンももう、有名人ってやつだもんなあ――」
今でも変わらず、彼の親友である青年は、ちょっと我がことででもあるかのように嬉しそうな目をしながら、クルト同様、目の前の料理を口にしている。
「なあに? なんの話なの、おにいちゃん……」
手と口のまわりを揚げ鶏の脂でぎとぎとにしてしまいながら、妹のアニカがそう聞いてきた。クルトは腰の手ぬぐいでそれを拭いてやりつつ答える。
「あ、いいんだよ、アニカ。またあとでゆっくり、
その「あいつ」というのが他ならぬ、この国の王のことだなんて、周囲の誰も予想もしないことだろう。
あのあと、一連の事態が落ち着いてきたのを見計らって、ニーナはクルトにカールをつけ、クルトの妹、アニカを引き取りに土竜国へ向かわせてくれた。ニーナは事前にレオンにも相談してくれて、そのままクルトは風竜国へ向かい、そこで王宮勤めの口を世話して貰えることになったのだ。
はじめてそれを聞いたとき、クルトはもう、空に舞い上がらんばかりに嬉しかった。
それで早速旅の用意をして、大手を振って叔父の家へ向かい、アニカを迎えに行ったのである。もちろん、これまで世話になった分の礼金もたっぷりと準備してだ。
叔父夫婦はもう、びっくり仰天して、目をまんまるくしていたものだった。
そしてアニカは、思っていたよりずっと早く兄が迎えに来てくれたことで、もう大泣きをして喜んでくれた。
叔父夫婦もアニカも、クルトが隣国の王と面識があり、そこで王宮勤めをするのだと聞いて、まるで夢でも見ているかのようにぼうっとしていたものだった。
いや、実のところ、クルトにだってまだ信じられないような気がしている。
このあと、このままカールと一緒に風竜宮に向かうことにはなっているのだが、「そんな話は知らないぞ」とばかり門前払いを喰らうのではないだろうかと、まだどこかで疑っている自分がいるのだ。
「そんなこと、あるわけないだろ」とカールが何度も言ってくれても、やっぱりどこかで「全部、ぜーんぶ嘘じゃないのか」と思ってしまうクルトなのだった。
だってレオンは、あろうことか、自分を風竜国の武官として召し抱えると言っているのだ。
そりゃあ、まだ年端も行かないので、最初は見習いの下級兵からだとは思うけれども。それでも、ただの田舎の少年に過ぎなかった自分からしたら、雲の上の話みたいなものだった。
「大丈夫だよ。お前は頑張ったんだから。姫殿下のお墨付きは絶対だっての。早くレオンの顔、見に行ってやろうぜ。一体、どんな『王様づら』してんのかさ。な?」
ちょっと不安そうな顔になったクルトのことに気がついたのか、カールがにかっと笑ってそう言った。
「う、……うん。そうだよな!」
クルトもやっとにこっと笑って、改めてまた目の前のうまそうな料理にかぶりついた。
◆◆◆
風竜宮に着いてみれば、なんだかもう呆気ないほどに、三人はすぐさま応接の間らしい部屋へと案内された。
クルトは先ほど、自分のしていた心配がバカみたいに思えて、ずっと赤面していた。
案内してくれている武官の青年も、その先へ
「さっすがレオン。ちゃんと臣下への伝達とか、徹底してんなあ――」
カールだけはのほほんとそんな事を言いながら、ただ機嫌よさげににこにこしていた。
アニカはもう、その白亜の王宮の太くて大きな柱だの、高い天井だの、つややかな石づくりの廊下だのといった目もくらむように豪奢な宮殿の様子にいちいちびっくりして、目が飛び出そうになっている。それでも、兄の手をしっかり握って放そうとはしなかった。
「陛下。カール様、クルト様、アニカ様をお連れ申し上げました」
大きな飾り扉の前で取次ぎの召使いらしい青年がそう告げると、中からあっさり、あの低い声が「入ってくれ」と応えるのが聞こえた。
召使いの青年たちがさっと扉を開くと同時に、もう中から、大股にレオンがこちらへ歩み寄ってくるところだった。
(あ。変わってねえや……)
クルトは近づいてきた男をひと目見て、ひどくほっとするのを覚えた。
レオンは、前にも見たあの濃い緑色の軍装に黒いマント、
「よく来た。ご苦労だったな、カール」
レオンは真っ先に、カールと前のように互いの肩を抱き合って叩きあった。
「いやいや、それが実はそうでもないんだ。土竜国までは、姫殿下が送ってくださったしな」
それからすぐ、レオンはクルトのほうにもやってきて「お前もな」と軽く肩を叩いてくれた。
アニカは以前に見たことのあるレオンのことを、はじめはそうと気づかなかったようだった。何しろあの時は、もっと髪なんかもぼさぼさの上、隻眼で旅に疲れた剣士の姿だった男だ。そう考えると、レオンも最初のころよりは結構変わったと言えなくもないのかも知れなかった。
レオンは三人に応接のソファを勧めると、自分もその前に座った。
「今後のことは、姫殿下からも重々お願いされている。安心してくれ。クルトはここで武官としての修行を積めばいい。妹御は、希望するなら女官長に任せ、ここでの下働きに入ってもらっても構わない。好きに選んでくれればいいからな」
「あ、……うん。あ、ありがと……」
クルトはなんだかもう、しどろもどろでそう言うのがやっとだった。
今更ながら、「やっぱこいつ、本当に王様だったんだな」という感慨でいっぱいになる。いまのレオンは、どこからどう見ても、堂々たる一国の若き王としての威風に満ちているようだった。
「なあなあ。んで、あの噂って本当なのかよ?」
と、レオンが周囲の文官や召使いらを下がらせるのを待ちかねたようにして、カールが軽くそう聞いた。
「噂?」
片眉を上げて聞き返すレオンに、カールはちょっと悪戯っぽい目で笑って見せた。
「だからさあ。なんか町でもえらい噂になってんだよ。お前があのミカエラって女にふられた〜、とか、なんとかさ。ほんとのとこ、どうなのよ?」
「…………」
それを聞いた途端、レオンがすっと呆れたように半眼になった。さも「やれやれ」といった風である。
「まさに『悪事、千里を走る』だな。……いや、別に『悪事』でも何でもないが――」
まことに、人々の口に戸は立てられない。
実際、王国内でのあれやこれやの出来事は、市井の人々の口を通すことであっというまに広がってゆく。勿論、途中であることないこと尾ひれがついてしまうのも、世の習いのようなものではあるが。
そのまま立ち上がって踵を返し、レオンは自分の執務机の中からとある文書を取り出すと、すぐにそれをカールに手渡した。
「読んでみろ」
「お? おお」
言われるままに、カールはその書簡らしいものにさっと目を通した。
そして、「ぶふっ」と吹き出した。
「なに? なんだよ、何て書いてあるの?」
クルトは慌てて、隣のカールから渡された手紙を自分でも読んでみた。
それは大体、以下のようなものだった。
『 風竜王レオンハルト陛下
ごめんなさい。
急に気が変わったの。
あなた様との婚約については、この場をもって破棄させていただきますわ。
理由?
そんなの、分かりきっているでしょう?
わたくし、虫や
もうほんとうに、虫唾が走るぐらいに嫌いなのよ。
竜って、蜥蜴にそっくりでしょう?
気持ち悪いの。とっても無理なの。
いくら神竜さまの
鱗といい何といい、見た目は蜥蜴に変わらないではありませんか。
そんなものになった男を夫にするなんて――ああ、なんておぞましいこと!
わたくしきっと、そのうち気が狂ってしまいますわ。
気のふれた女を妻にしておくだなんて、そんなことあなた様だってお嫌でしょう?
そういうわけですから、どうか陛下は、今後はご自由になさってくださいませ。
どこの醜い虫のような姫殿下とご一緒になられましょうとも、決して文句などは申しませんわ。
わたくしは、しばらく各国を巡る旅に出ようかと思います。
ああ、あなた様の側近の、大きな男をお借りしてまいりますわね。
それでは、ごきげんよう。
どうぞお幸せに。
ミカエラ 』
「…………」
読み終わって、クルトはしばらく呆然としていた。
カールは隣で口許をおさえ、真っ赤な顔になって肩を震わせている。
(なんっだよ、これ……)
こんなことでいいのか。
あの女の、レオンに対する執着は、こんな程度のことだったのか……?
レオンは足と腕を組み、憮然とした顔でソファに座っている。
カールがやっと、ひいひい言いながらレオンを見た。もう腹筋が限界らしく、腹のあたりをおさえてまだ笑い続けている。
「ま、……まあ、良かったじゃないか。
「…………」
レオンは少し沈黙して、親友の青年が爆笑しているのを見ていたが、やがて真面目な顔になってひとつ咳払いをした。
「実は、だな」
そうして、その話を始めたのだった。
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