第4話 微笑み



 その手紙を持ってファルコがレオンのもとに現れたのは、今から十日ほど前の話だった。

 男は「預かりもんだぜ」とだけ言って、それをレオンに押し付けるようにした。

 不審に思いながらもそれを開いて一読し、さすがのレオンもしばし呆気にとられたものだった。

 しかし男は、ちょっと苦笑しつつも「それ、全部が本心とか思うなよ」と、ちゃんと釘を刺してきた。

 手紙から目を上げたレオンの前に、ファルコはずいと近づいて、上から見下ろすようにした。その鷹の目にやどっているものは、紛れもない殺気に他ならなかった。レオンは不審に思いながらも、その目を真正面から見返した。


「だが、これで『放免』よ。あの女は、もうあんたに粉は掛けてこねえだろ。俺も一緒に、しばらくあっちこっち巡ってくるつもりだが、またそのうち、こっちには戻るつもりだから心配すんな」


 いや、別に心配はしないけれども。

 なにしろ相手は、「風竜の魔女」だ。たとえファルコがついて行かずとも、自分の身ぐらい自分で守れる女なのだから。

 しかし、そう答えたら、「てめえはアホか。いい加減にしろ」と、しまいにそのごつい拳骨で胸元をどやしつけられた。


 そうして、男は言ったのだ。

 女がひとりでこれを書いていた間、「誰も入ってこないで」ときつく周りの者に言い渡していたのだと。

 そして、書きあがったこの手紙を「レオンに渡して」とファルコに託したその時に、その目が真っ赤に腫れ上がっていたこともだ。


「どっちみち、あんたに『汚れ仕事』は似合わねえ。まあ、それはそれでも構わねえ。俺らのアタマ張ろうかって野郎は、できればにいてもらわなきゃ困るしよ。つまりまあ、『王道』ってこったよな。……俺はそう思ってる」

 レオンがなんとも答えかね、黙って男を見上げていると、男は無造作にレオンの肩を引き寄せて、ごく低い声で耳打ちをした。

「けど、『王道』の裏にゃあ『邪道』があるわな。清濁併せいだくあわせ呑めなきゃあ、今後、王として生きていくにゃあつれえ。あんたにゃ、汚れ仕事を引き受けてくれる、忠実な部下がどうしたって要る――」


 だから、と男は言ったのだ。

 自分は、あの女を連れて、いずれまたここへ戻ってくると。

 そしてその暁にはまたレオンの元で、あまりおおっぴらには出来ないような「仕事」の数々をこなしてやるから待っていろ、と。


 そうして、男は言ったのだ。


「そんで、そん時ゃあの女……、俺が貰ってもいいよなあ?」

 と。



 そうして。

 ファルコとミカエラは、旅立った。

 レオンは、どこへ行くのかとは訊かなかった。


 レオンにも分かっていたからだ。

 これはあのミカエラの、贖罪と巡礼の旅なのだろうということが。




◆◆◆




「そっか……。そういうことだったか――」


 話を聞いて、すっかり笑いをおさめたカールが、ちょっとしんみりしたような声でそう言った。

 レオンは黙って、クルトたちを正面のソファから見据えていた。

 「王道」だとか「邪道」だとか、そのあたりのことはクルトにはよく分からなかった。でも、これでどうやらミカエラがレオンを諦めたのだろうということだけは分かった。

 しかし。

 もやもやとどうしようもないものが湧き上がってきて、クルトはレオンをにらみつけた。


「それは分かったけどさ、レオン」

「ん?」


 レオンが不思議そうに目を上げる。

 それを見たら、クルトは急に腹の底がかっと熱くなった。


「じゃあさ……なんであんた、ここに居んの? 何やってんだよ――」


 押し殺した声でそう言うに従って、余計に腹がぐらぐら煮えてくる。

 本当にまったく、この男は何を考えているのだろう。


「もう、いいんだろ? もう、ミカエラは怒んないんだろ? じゃあなんであんた、ニーナさん迎えに行ってないんだよっ……!」

「…………」


 レオンが驚いた目でこちらを凝視している。


(こいつ、ほんっとに……!)


 クルトの中で、ぶちっと何かが切れる音がした。


「あんた、バカかよ!? ニーナさんがどんな思いで、あのときあんたのそばから帰っていったか分かってんの? ミカエラと結婚するって言ったきり、なんの言い訳もしないでずうっとさ……」


 そんなこと、ここで言っても仕方がない。そんなことは分かっている。

 それもこれも全部、「大人の事情」というやつで、レオンという男の性格なのだからしょうがないんだということは。

 この男は、たとえミカエラが自分から去ってくれたからと言って、「これ幸い」とばかりにほいほいとニーナの元に行くような、そんな男ではないのだから。

 あんなふうにニーナの元を去った以上は、自分から彼女の元に行く資格などないとかなんとか、また小難しいことを考えているに決まっているのだ。


(でもさっ……!)


 でも、クルトは見ているのだ。

 ニーナが自分たちの前では決して笑顔を絶やさなかったその陰で、実はどんなに泣いていたかも。

 彼女は確かに、レオンを諦めることはしなかった。

 しかしそもそも、彼女はあのミカエラを押しのけてまで、レオンを我が物にしようなどと思うような人ではないのだ。


「こんなとこでぐだぐだ話なんかしてる暇があったら、さっさとニーナさん迎えに行けよっ! ほんっと、世話が焼けるったらありゃしねえ!」


 もうクルトは、両の拳を握り締めてレオンの前で振り回している。


「そんでとっとと、ミロちゃんとエドちゃんに『結婚します』って言ってこい! ほんっとバカ! グズ! これ以上ぐだぐだするんなら、もう俺ほんっと、知らねえからなっっ!」

 「ミロちゃん」と「エドちゃん」というのは勿論、あの水竜国クヴェルレーゲンの王、ニーナの父、ミロスラフと、雷竜国ドンナーシュラークの王、エドヴァルトのことである。


「お、おいおい、クルト……!」

 さすがに見かねて、隣からカールがクルトの肩をつかんだ。

「い、いくらなんでもそれはちょっと……。いくらこいつが良くてもさ、ほらっ。一応こいつ、王様だから。王宮のほかの誰かの耳にでも入ったらお前、ちょーんと首が飛ぶぞ、ちょーんとっ!」

「お、おお、おにいちゃん……」

 見ればアニカも真っ青になって、がたがた震えながらそんな兄を見上げている。


「ぬ、ぐぐう……」

 それでやっと、クルトも渋々、口を閉じた。

 閉じたが、やっぱり拳を握り締めて、目の前のレオンを睨むことはやめなかった。


 レオンはちょっと呆然としたように、そんなクルトをじっと見ていた。

 が、やがて片方の拳を口許にあてるようにすると、「くくっ」と吹き出したようだった。


「ふ、……は、あは、はははは……」


 明るい笑声。

 そんなものが、この男の口から聞ける日が来るなんて。

 クルトは目をまんまるくして、目の前で大笑いしている若き王を呆然と見た。

 それは、隣のカールとアニカも同様である。


「そ、……そうだな」

 やっとその笑いがおさまってきて、ようようレオンがこちらを見た。

「俺は、バカだ。……礼を言うぞ、クルト」


 そして、そう言ったかと思うと、レオンはさっと立ち上がった。


「では、くぞ」

「はへ?」


 虚を衝かれて変な声で返事をしたクルトを、レオンはにこやかな笑顔で見下ろした。


「お前がそう言ったんだろう。『善は急げ』だ。すぐに姫を迎えにゆく」

「え、ええっ……?」


 目を白黒させているクルトに、さらにレオンは畳み掛けた。


「当然、お前も来るだろうな? いや、来て貰わねば困る」

「え、や、いやちょっと待ってよ、レオ――」

「自分の言葉の責任は取れ。それに、お前以外の、誰が俺たちを見届けられる」

「そ、それは、そうだけど……! ってまさか、今すぐ……?」

「何を言う。お前がそう言ったんだろうが」

「や、そ、そうなんだけどっっ……!」

「なに、心配するな。今の俺なら、あちらまでほんのひとまばたきもかからんからな」

「だ、だからそういうことじゃなくってえ――!」


 そんな風に言い合いながらも、クルトはずっとレオンに首根っこを引っつかまれて、王宮の廊下をずるずると引きずるように歩かされている。

 後ろから、慌ててカールとアニカが小走りについてきていた。


「いや、わかったって、レオン。わかったからちょっと、はなせってば……!」


 そんなクルトの叫びになどお構い無しに、レオンは黒いマントを翻し、王宮のとあるバルコニーを目指して、どんどん歩いて行ったのだった。




◆◆◆




 黒き竜となったレオンの背中に乗せられて、クルトとカールが雷竜国ドンナーシュラークの上空に到着したのは、それから本当に彼の言葉通り、瞬きするほどの間のことだった。

 それは多分、あのミカエラが使っていたのと同じ、風竜の魔法の「跳躍」というものなのだろうと思われた。

 ちなみにアニカは、さすがに連れてくるのは問題があるだろうということで、先ほどあちらの風竜宮で女官に預けてきたのだ。


 雷竜宮の離宮に到着するとすぐ、カールとクルトをその場に下ろして、レオンはもとの人間の姿に戻った。

 人の姿になってすぐ、レオンはなにか威風堂々たる黒光りする鋼の鎧姿だったのだが、すぐに何かの魔法を使って、いつもの軍装姿にもどった。これもどうやら、あのミカエラと同じ、人の目を欺く魔法であるらしい。


 空から黒い竜が舞い降りてきた時点で、離宮の使用人たちが驚き慌てて中にいる人を呼びに走っていたので、そのひとはすぐに現れた。


 今日は、あの金属鎧の姿ではない。

 姫らしい柔らかな布地で作られた薄水色のドレスをまとったその人は、彼の姿を認めるなり、驚いてその場に固まったようだった。片手でそっと、口許を覆うようにして立ち尽くしている。

 初夏の風がさやさやと、彼女の蜂蜜色の髪を揺らしていた。


 離宮の中庭には、いま、さまざまな花々がいまを盛りと咲き誇っている。

 中央に白亜の噴水の設えられた、気持ちのよい庭園だった。

 豊かな水音のする庭園の中を、レオンは大股に、真っ直ぐに彼女に向かって歩んでいった。

 彼は彼女のほんの五歩ばかり手前で立ち止まると、じっとしばらく、その人を見つめるようにした。


(レオン……)


 ずっと後ろで見ているクルトには、レオンの背中しか見えなかったけれども、それでも彼がどんな顔をしているかは想像がついた。

 きっとレオンは、やっとそろった二つの瞳で、眩しそうにその愛する人を見つめているに違いなかった。

 人として、ようやくこの日の光の中で向かい合い、顔を合わせることができた二人を、周囲の花々も、可愛らしい声でさえずっている鳥たちも、心から祝福してくれているように思えた。


「お久しぶりです、姫殿下」

 レオンがそう言って、頭を下げる。

「先日は、まことにお世話になり、有難う存じました――」


 ニーナは、黙って彼を見返している。その瞳は明らかに、「なぜ」「どうしたの」と彼に問う色を浮かべている。

 レオンはしばし黙って、そんな彼女の顔を見つめていたが、やがてひとつ息をついて、一気に言った。


「……ミカエラが、去りました」

「……!」


 ニーナの目が、見開かれる。

 その体がこわばって、もう片方の手もさっとその口許を覆ったのを、クルトは見た。


「ファルコという男と共に、今は旅の空かと思われます。……あれも、あれなりにこれからの道を見つけようとしているようです」

「…………」


 ニーナはやっぱり、黙っていた。

 噴水の水盤の中で、かそけき水の音だけがする。


 やがて、レオンがすっとその場に片膝をつき、ニーナに向かって頭を下げた。

 ニーナは黙って、そんなレオンを見下ろしている。

 その青い瞳の中にはもう、熱いものが溢れそうになっているようだった。


 少しの息詰まるような沈黙のあと、遂にレオンが口を開いた。


「姫殿下。……いえ、アルベルティーナ様」


(頑張れ、レオン……!)


 クルトは思わず、心の中で拳を握った。


「大変長らくお待たせしてしまいました。斯様かような不甲斐なき男ではございますが……もし、よろしければ」


 さすがのレオンでも、そこで少し、言いよどんだようだった。

 クルトもカールも、もう息を詰めて彼の背中を見つめている。

 しかし、レオンはぐっと顔を上げると、下からまっすぐにニーナを見上げてはっきりと言った。


「よろしければ、どうか……自分の妻に、なっていただけませんでしょうか――」


「…………」


 ニーナは、無言だった。


 でも、クルトはちゃんと見た。


 彼女が、これまで見た中でもいっとう綺麗な、綺麗な笑顔でにっこり笑って、たおやかな手を彼に差し出し、ぽろぽろと大粒の涙をこぼすところを。

 そして男に駆け寄ってきて、大きく両手を広げ、立ち上がった男の胸に飛び込んでゆくところを。


 ふたりが互いを力いっぱいに抱きしめあい、互いの頬に手をそえて額をくっつけ、じっと瞳を見つめあうのを――。


 でも、そこまでだった。


 なぜなら隣からカールが、無情にもクルトの目を片手で塞いで、後ろを向いてしまったからだ。

「こっから先は、もうちょっと大きくなってからな」

 そんなことを言いながら、カールだって実はもう、涙をぽろぽろ零してくしゃくしゃの顔になっていたのだけれど。


「バッカ、泣くなよ。あんた一応、大人だろ――」


 そこからしばらく、クルトは逆に、涙にむせんでいるその青年のをさせられる羽目になったのだった。

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