第4話 夢



(王妃さま……。わたくしは、王妃様になるはずだった……?)


 その話を聞いたとき、一瞬、目の前にぱあっと光が差したような気がした。

 しかし、それは本当に一瞬だけのことだった。


 だって、そうではないか。

 その人は、もうとっくにこの世の人ではなくなっている。

 その頃にはもう、少女も自分があのヴェルンハルト王の側近、アイブリンガー家の子息クレメンスの娘であることを聞かされていた。


(でも……だから、なんだって言うの。)


 ささやかな希望の光は、すぐに泥炭トーフのような絶望によって塗りつぶされた。

 そんなことに、今さらなんの意味があるのか。

 かつて父が、先王と互いの子をめあわせようと話をしていた。

 それは、この自分のことだったなどと聞かされて、だからなんだと言うのだろう。


 いや、なまじ僅かな光を見てしまったことによって、その絶望の闇はもとよりも、ずっと深く、濃くなった。

 それを境に、さらに氷の仮面のようになった少女の顔を見て、ティルデ王妃はひどく悲しげな目をしておいでだった。そして何度も「ごめんなさいね」と少女に向かって謝った。少女にそんな残酷な話を聞かせてしまったことを、王妃はひどく後悔なさっていたのである。


 しかし。

 それは、ごく僅かの期間のことだった。

 なぜならそののち、少女は遂に知ったからだ。

 その「レオンハルト」と呼ばれる少年が、本当はまだ生きていて、あの水竜国において一武官として働いていたという事実を。





 雷竜国で開かれたあの「親睦の宴」に招かれて、水竜の小さな王子と、その姉である姫がやってきたのは、それから間もなくのことだった。

 そして、かれらの護衛の一員としてついてきたくだんの武官の少年は、同い年とは思えないほどに精悍な、それは凛々しい出で立ちだった。


 少女は彼を初めて見た日、まだ彼のまことの出自を知らないうちから恋に落ちた。

 そして彼の本当の出自を知って、それを「運命だ」と思ったのだ。

 まさに、電撃でうたれたかのようだった。


 あの時、あの状況で、それを「運命」と思わぬ少女がいただろうか。


(やっと、来てくれたのだわ……!)


 自分を救うためにこそ、この少年は生きていてくれた。

 そして、ここへ来てくれた。

 そうだ、そうに決まっている。

 あの日、すべてを奪われ、打ち砕かれて、それでもどうにかこうにか、どぶ泥の中を這いずるようにして生きてきた自分に、やっと希望がやってきたのだと。


(……それなのに。)


 あろうことか、少年の心は、とうに他の女に奪われていた。

 相手はもちろん、忌々しいあの姫だ。



 光輝くように美しい、清廉にして可憐そのものの水竜の姫。

 初めて彼女を見た時は、少女でさえも目を奪われた。

 それと同時に、どうしようもない真っ黒な何かが心の奥底から湧き出してくるのを覚えた。


 温かく優しい両親に愛され、生まれたときから可愛がられ。

 忠実な臣下たちに囲まれて、大切に大切に、蝶よ花よと育てられてきた美しい姫。

 どうしてそんな姫殿下を、自分は目の当たりにしなくてはならないのだろう。


 いや、最初に姫を見た時は、それでも良かった。

 その姫は、すぐにまた故郷くにに帰って、もう二度と自分の前に現れることもないはずだったから。

 関わりを持たず、ただ忘れてしまえばいいのだ。そうすれば、相手が生きていようが死んでいようが、なかったものとして生きていける。そんな女はこの世にいないものと思えば、いくらかは気分が楽になるはずだった。我慢できるはずだった。

 こんな自分が何をしようとしたところで、どうせ王家の高貴な姫になど、手が届くはずもないのだから。


(……だけど。)


 問題は、そのあとになってはっきりしたのだ。

 実はそのアルベルティーナ姫の護衛としてともにやってきていたのが、かの凛々しい少年武官、レオンハルトだったのである。



 そして、あろうことか少年のその心は、

 ミカエラが彼の正体を知ったときには、

 すでに姫のものになっていた――。




◆◆◆




「その時の、わたくしの気持ちがわかって……?」


 ミカエラは、調度の少なくなった自分の居室で、しどけない様子でソファによりかかり、床にどっかりと座り込んでいる巨躯の男を虚ろな目で見下ろした。


「ねえ。わかって……?」


 ファルコは何も言わないまま、その鷹の目でただじっと、女の顔を見返した。その目は少なからず悲しげなものを含んでいたが、それは決してミカエラを責めるたぐいのものではなかった。

 それでも、男は「わかる」とも「分からん」とも言わなかった。


「ええ。……そうよ」

 男の返事を待たないままに、ミカエラはまた口を開いた。

「憎くて、憎くてたまらなかったわ。あの女を、心底憎んだ。殺してやりたいって何度も思った。……いいえ、ただ殺すだなんて生ぬるいわ。あの火竜の王太子に犯されて、滅茶苦茶になってしまえばいいって、どんなに願ったか知れやしないわ……!」


 レオンがあの女を愛するのは、あの女が「綺麗」だから。

 それは見た目ばかりのことでなく、その身体も綺麗だからに違いない。

 それなら、男に汚されたあの女を前にすれば、きっと彼だって考えを改めるはず。

 こんな風に汚れてしまった自分とあの女とに差がなくなってしまったなら、彼だって少しは、こちらを見る気にもなるかもしれない……。


「……でも、そうはならなかった――」


 きり、と唇を噛み締めて、ミカエラはぐいと上を向いた。


 結局、あの女を犯させることはできなかった。

 しかし、「竜の眷属」となった自分と火竜の王太子は、あの女を呪いに落とすことには成功した。

 王太子の強欲な望みのこともあって、レオンにまで呪いをかける形になってしまったのは残念だったけれども、あの場合、他に選べる道がなかった。

 それに、たとえ彼が昼間どんな姿になろうとも、自分は彼を愛し抜く自信があった。

 ともかくも、ミカエラはレオンをあの女に奪われることだけは阻止したかったのだ。

 それなのに。


「レオンは……レオンは――」


 彼は、あの姫が何になろうが、どうなろうが、決して愛することをやめなかった。

 それはもう、虚仮こけの一念とでも言うような朴訥さと潔癖さとをもって、あの姫をずっと、あんな身体にされてまでも愛しぬいた。

 その間、どんなに自分が誘惑をしてみたところで、こちらを一顧だにもしなかった。


「……むしろ、そうよね」


 唇を歪めて、ミカエラは呻いた。


 それで簡単にような男だったら、自分ももっと、ずっと簡単に、彼に愛想を尽かしていたことだろう。

 彼を忘れられたことだろう。

 事実、この風竜国に戻ってきてから、誘惑した貴族の男どもの誰もかれも、ミカエラにとって魅力的な者はただの一人もいなかった。彼らは自分がほんの少しの流し目をくれただけで、思わせぶりにを作って身を寄せて見せただけで、まるで風になびく草のようにして鼻の下をだらしなく伸ばし、ふらふらとこちらに「堕ちて」きたから。


(でも……彼は。)


 そうでないから、諦められなかった。

 彼がああいう男だからこそ、この気持ちを滅ぼすことができなかった。

 忘れるなんて、できなかった。



「だって……だって……!」


 ミカエラは、ばっと両手で顔を覆った。


「だって……大好き、なんだもの……!」


 もはや悲鳴のような、そして子供のような声がほとばしった。

 ミカエラはもう、それが喉から溢れ出るのを止められなかった。



「レオンが……レオンが、大好きなんだものおおおおっ……!」




 部屋の中に響き渡る女の嗚咽を、ファルコは床に胡坐をかいたまま、黙ってずっと聞いていた。

 腕組みをし、口をへの字に曲げたまま、鷹の瞳をぐっと見開いて、細い肩を激しく震わせて子供みたいに泣きじゃくっているその女を、ただじっと見つめていた。


 やがて、かなり長いことかかってようやく女の泣き声が少し低くなり、しゃくりあげる声に変わってきたころ、やっと男は「よいこらしょ」とそこからゆっくり立ち上がった。

 女はソファに座って顔を覆ったまま、こちらを見上げようともしなかった。


 ファルコはしばらく、そんな女を見下ろしていた。が、やがてひょいと足を踏み出し、女のそばに近づいた。

 そして無造作に片手を出すと、本当に子供にするようにして、女の頭をぽすぽす叩いた。


「……良かったな」


 それは、たったひと言だった。


「やっと言えたんだろ。……よかったな」


 それでも女は、いっさい顔を上げなかった。

 ファルコはそんな彼女をしばらく見下ろしていたが、やがて口のをほんの少し歪めるようにして笑うと、静かに部屋から出て行った。

 その巨躯からすれば不思議なほどに、音のひとつも立てなかった。



 夜風をすかして遠くから、ふくろうの鳴く声がする。

 ぼわりと城砦を照らす月だけが、そんな二人を見つめていた。

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