第4話 四阿(あずまや)
その日、アルベルティーナは朝からずっと緊張していた。
先日、あの上級将校を通じて彼に通達し、出向くようにと指定したのは、まさに今日、この日のことだったからだ。
朝食の席で、いつになく落ち着かず、そわそわしている娘のことを、母ブリュンヒルデは微笑ましげに眺めていた。一方で隣に座る父ミロスラフは、すこし不思議そうな目はしていたが、母の表情を見て納得したように、特に何も言わなかった。
午後になって、約束の刻限より半刻も前に、アルベルティーナは指定したその場所で待ちかねていた。
豊かな水に恵まれた国であるクヴェルレーゲンの王宮にふさわしく、城の敷地内には近くの川から水を引き、各所に高低差を設け、美しい庭園がつくられている。中には小ぶりの美しい池も設えられており、その
彼に対してアルベルティーナが指定したのは、まさにこの四阿だったのだ。
ブリュンヒルデの案は、こうだった。
確かに王女が若い兵士と完全に二人きりで会うとなれば外聞が悪かろう。かといって、傍に使用人らが侍っている場では、彼も話しにくいことがあるに違いない。
ではいっそ外で、たとえばこの四阿のような開放された場所で会えばよい。使用人らには二人の話す内容の聞こえない程度に離れた場所から、王女の様子を見ていてもらえば構うまい。
白い水鳥がちらほらと遊んでいる水辺をときおり見やりながら、アルベルティーナは四阿の中に置かれた丸テーブルのそばに腰掛け、高鳴る胸をおさえつつひたすら待った。自分の来る時間が早すぎたためなので仕方がないが、それは気の遠くなるほど長い時間のようにも思われた。
彼は軍務をこなした上で、約束の少し前に着くはずだった。
やがて、ついに庭の植え込みの間から、あの背筋の伸びた若々しい軍服姿が現れて、大股にどんどんこちらへ歩いて来るのが見えた。
「あ……」
アルベルティーナは思わず立ち上がって、彼を迎えた。
レオンは彼女の姿を認めてやや驚いたような様子だったが、彼女が立ち上がったのを見て急ぎ足に傍までやってくると、その場に片膝をつき、頭を下げた。
「申しわけございません、姫殿下。お待たせ申し上げてしまったでしょうか」
少年の声は、やや固いものに聞こえた。そればかりでなく、その表情も、何かを考え込むような、難しい色を浮かべているように見えた。
「いえ。さほどのことはありません。どうぞ、顔をあげてください」
父や母が臣下の者らに対してするように、アルベルティーナも彼に対してそれを許した。
「……恐れ入ります」
彼はそれだけ言って、少し顔を上げたまま静止した。
そこから少し、なんとも言えない沈黙があった。
そこで初めて、用があると言って呼びつけたのは自分なのだから、自分から何か言わねば話が始まらないのだと気付いて、アルベルティーナはちょっと慌てた。
「あっ、あのう……」
それでも、少年の綺麗な翠の双眸は、彼女の足もとあたりしか見ていなかった。そもそも王族を真正面から見返すなどは、一介の兵士に許されることではないのだ。
この位置関係ではどうにも話しづらい気がして、アルベルティーナは四阿の石段をおり、彼と同じ、庭の敷石の上に立った。
「あの、申しわけありません。顔を、あげていただけないでしょうか」
王族の娘が臣下に言うにしては至極ていねいな言い方で、彼女は彼にそう言った。レオンは少し逡巡したように沈黙していたが、やがてゆっくり、もう少し顔を上げてくれた。それでも、目線が合うというには程遠いものだった。
(もう……。)
仕方なく、アルベルティーナはひょいと着ていた若草色のドレスの裾を膝に巻き込むようにして、その場にしゃがみこんだ。側付きの女官長などには「お行儀が悪い」と即座に叱られてしまうようなことではあったが、この際、しかたがない。
それでようやく、彼と目線がほぼ同じ高さになった。
レオンは非常に驚いたような目をしていたが、はっとしてまた頭を下げた。
一瞬だけ、間近で見ることのできた彼の目は、思っていたとおり、本当に澄んでいて綺麗だった。
「……こちらを、見ていただけませんか」
じれったくなって、アルベルティーナは少しだけ不満の気持ちを声にのせてそう言ってみた。
「…………」
レオンは黙って、動かない。彼女はさらに言葉を継いだ。
「わたくしがいいと申し上げているのですから、いいのです。どうか、お願いします」
しばしの間があって、ようやくレオンがゆっくりと目を上げた。
彼は間違いなく、非常に困った顔になっていた。
「……あの。まず、あなたに謝らせてください。先日は無理を申して、随分あなたを困らせてしまいました」
アルベルティーナはまずそう言って、彼に向かって頭を下げた。レオンは驚いた様子で片手をあげ、彼女を押しとどめるようにした。
「いえ! ……姫殿下、ご容赦ください」
彼の言葉には構わず、アルベルティーナは言い募った。
「こんな小娘風情が、あなたのような剣士に向かって『仕合いをして欲しい』などと、身の程知らずなことを申して困らせてしまったのでしょう。とてもご不快だったことと思います。本当に、申し訳ありませんでした」
「いえ、そのような――」
レオンが困惑したようにそう言って、あとは絶句したようだった。
見れば彼は、非常な渋面になってしまっている。
それはもう、「困り果てている」といっていいような顔だった。
アルベルティーナはふわりと笑って、そんなレオンの瞳をじっと見た。
「ほかの士官の皆さんがたから聞いております。あなたはそのお年で、すでに立派な剣士でいらっしゃるそうですね。その剣を、わたくしも実際、間近で見て、できることならお手合わせをしてみたかったのですが……。わたくしなどでは、あなたのお相手たりえないのは仕方のないことでしょう。重ねがさね申しわけありませんでした」
「いえ、姫殿下……!」
遂に、ぱっと彼が顔を上げて、まっすぐにこちらを見た。
その瞳は一心に「それは違う」と告げていた。
「申しわけございません! そのように誤解されるのも、致し方ないこととは思いますが……違うのです」
少年の声は、苦しげだった。
アルベルティーナは不思議に思って首をかしげた。
「……なにが?」
また少し、間があった。
やがて訥々と、目の前の少年が、その引き締まった唇から言葉を紡ぎ始めた。
「姫殿下は、素晴らしい剣士であらせられます。先日、ご鍛錬なさっている場を偶然お見かけしておりまして……そのことは重々、わかっているつもりでおりました。かえって自分ごときがお相手するなど、ただただおこがましいばかりなのです」
「立ち合いをお断りいたしましたのも、
「あなた様を前にして、常と同様、平常心にて剣を振る自信がなかったのです。すべて、自分の精進と覚悟の足りなさにほかなりません。もとより姫殿下に、なんの落ち度もあろうはずがありません。ご無礼の段はどうか、平にご容赦くださいませ――」
それだけのことを話すのに、彼は随分と逡巡しながら、様々に言葉を選んで、かなりの時間を要した。その声にも、言葉にも、確かに誠実さが見て取れた。
アルベルティーナはじっと黙って、彼の嘘の欠片もない綺麗な瞳をじっと見ながら、静かにその話を聞いていた。
(それじゃあ……)
ふと、アルベルティーナはふつふつと、胸の奥から温かな色に染められた感情があふれ出しそうになるのを覚えた。とくとくと、また違う意味で胸の鼓動が高鳴り始める。
それでは、彼は、相手が自分であるからこそ、この仕合いを受けることを躊躇したのだ。それも、決してアルベルティーナを忌避するような感情からではなく。
自分を相手にすると、いかな彼でも平常心を失うかもしれないのだと。
それをただ、恐れたからこそ断ったのだと。
(だったら、……それは。)
嫌悪というよりも、それはむしろ――。
ここまで聞いた限りでは、彼自身にも、その感情の名前はわかっていないのかも知れなかった。そしてそれは、アルベルティーナにしても同じである。
というか、あっさりと卑俗な言葉でこの思いを形にしたいとは思わなかった。
(……けれど。)
それはきっと、素敵ななにかに違いなかった。
そう思ったら、なんだかどんどん嬉しくなって、アルベルティーナは気がつけば、もう満面の笑みを浮かべて、彼に向かって微笑みかけていた。
「そう、でしたか……。そうなのね……」
目を上げたレオンがこちらを見て、目を見開き、びくりと固まったようだった。
彼が何を驚いているのか分からなかったが、それでも彼女は、笑いを堪えることができなかった。
「いやだわ、わたくし……。だって、てっきり――」
どうやらひとりで勝手に、悪いほうへ悪いほうへと考えすぎていたようだ。
「本当に、お母様のおっしゃるとおりね。大事なことはちゃんと、その方と一対一でお話ししなくては――」
くすくすと涙を滲ませて笑い続けながら、そんな独り言を言う。
レオンが呆然としたように自分を見つめていることには気付いていた。
それでもアルベルティーナはその場所で、彼の目の前にしゃがみこんだまま、口許を両手でおさえるようにして、ずっとくすくす笑い続けたのだった。
そして最後に、笑いをおさめて彼女は彼にこう言ったのだ。
「では、どうかお約束してください。いつか、あなたにその『お覚悟』が定まった暁には、必ずわたくしと一手、お手合わせをしてくださると。……いいですね?」
「…………」
さすがにそれにまで否やを言うわけにも行かなかったのか、彼は沈黙のままただ大人しく、その場で臣下としての礼をしたのだった。
しかし。
結論からいってその「手合わせ」は、今に至るまで実現したことはない。
なぜならその後すぐ、あの突拍子もない「提案」が、隣国、雷竜の国ドンナーシュラークよりもたらされたからである。
◆◆◆
「え? 『テーアン』……ってなに? どういう意味? ニーナさん」
少し秋風の吹き始めた森の中を、黒馬に乗って歩ませながら話をしていたニーナの前で、一緒にその背に乗せてもらっていた少年が振り向いてそう訊いた。
先日利用した本物の馬たちは、便利ではあるのだが飼い葉そのほかの手間や世話も随分とかかるので、早々に人の通りそうな街道の近くで放してきたのである。
ニーナは、ちょっと考えてからこう答えた。
「そう……ですね。『こうするのはどうでしょうか』と、こちらに何か勧めてくるといったようなことかしら」
「あ、な〜るほど。んで? ドンナーシュラークの王様は、ニーナさんたちになんて言って来たの?」
少年はずっとそんな調子で、少し難しくてわからない言葉などはその時々に訊ねてきたりしつつも、ごく楽しげにニーナやレオンのする物語を聞いてくれている。
まだ小さなその身体で、彼は彼なりに、レオンが人の姿でいられない間、一生懸命にニーナを守ろうと頑張ってくれていることが、その背中からいつも伝わってくる。
ニーナはそっと頬をほころばせ、彼のまだ細い肩にうしろから片手を置いた。
「ええ。この
そうしてニーナは、黒馬の背にゆられながら、ふたたび過去の話に戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます