第3話 王女と下士官

 その返事を上級将校の男から聞いたときの、アルベルティーナの衝撃は大きかった。


 実際は王女の立場で、到底彼と同等に話のできる間柄でないことは承知だったが、それでもなるべく対等の剣士という立場から、謙虚に立ち合いを「お願い」してみたつもりだったというのに。

 事前に、間違ってもそれが「王女からの命令」だと取られてしまわないようにと、アルベルティーナは何度もその伝え方について間に立ってくれた将校に言い含めていたのだったが、かえってそれが仇になったのかもしれなかった。

 こういう場合にままあるような、「よくもこの王女のわたくしに向かって」といった苛立ちや傲慢な気持ちは一筋もなかったけれども、ただただその時、アルベルティーナは驚愕し、意気をくじかれた思いだったのだ。

 はっきり言えば、とても胸が痛く、悲しかった。


(どうして、なの……)


 彼女の瞳にその思いを読み取って、上級将校の中年男も困ったような顔になった。

「いえ、その……姫殿下。自分からも、あれこれと口添えはしてみたのでありますが――」

 男が言うには、彼は黙って王女からのその申し出を聞いた後、しばらく沈黙してじっと床を見つめるように、難しい顔をして考えこんでいたのだという。

 そうしてやがて頭を下げ、先ほど聞かされたあの馬鹿丁寧な返事を伝言してもらうようにと上官である男に頼んだ。

「理由も尋ねてはみたのですが。どうにもそのあたりは、口にしたくないようでして」

「そう、ですか……。わかりました。お手間を取らせて申しわけありませんでした……」

 アルベルティーナはがっかりして、将校を下がらせた。


 自室でいつになく塞いだ顔になっていたアルベルティーナにいち早く気付いたのは、いつも彼女の身の回りの世話についてくれている侍女だった。そこからすぐに、話は母に行ってしまったらしい。

 それから一刻もしないうちに、アルベルティーナは母ブリュンヒルデの訪問を受けることになった。


「まあまあ。あなたらしくもない暗いお顔ね。どうしたのです、アルベルティーナ」


 母はいつもの優しく柔らかな少し低い声でそう言うと、すぐに娘の手を取った。息子たちに対してもいつも控えめかつ優しい母だが、一人娘のアルベルティーナには、この母はとりわけ格別の思いをもってくれているようだった。


「そんなお顔をしていては、水竜の国に春を呼ぶ、春風の精もかくやと言われる美貌が台無しではありませんか。よければお母様に話してはくれないかしら?」


 にっこりと微笑むそのまろみのある美貌と、いつでもすぐに懐かしさを覚えてしまうような母の匂いにつられるようにして、アルベルティーナは頬を染めながら、訥々とここまであったことを語って聞かせた。

 父の声望はもちろん大したものなのだが、この母も、その王を支え王子や王女を立派に育てた賢母としての誉れも高い人である。そうそうのことでは驚き慌てることもなく、いつもどっしりと鷹揚に優しく微笑んでいるような、見かけによらない胆力と、繊細な美貌とを併せ持ったひとなのだった。


 彼女はその実、海を隔てた隣国雷竜の国ドンナーシュラークの王家の娘だった人である。腹違いではあるものの、今ではかの国の王であるエドヴァルトという男の、実の妹でもある人なのだ。つまりかの国の王は、アルベルティーナにとっては母方の伯父ということになる。

 両国はこの長い年月、互いにとって共通の火種ともいえる火竜の国に対抗するため、何度も互いの血を混ぜ合わせてきた歴史があるのだ。

 したがってアルベルティーナから見れば、雷竜の国の王家や公爵家等々の貴族の家の人々は、いずれも何かしら、遠縁の親戚にあたる者らだということになるのだった。


「……あらあら。そうだったの」


 ひと通り話を聞いてから、母は穏やかにそう言った。そうして、ふくよかに肉をまとった白い指先でちょっと自分の顎に触れるようにして小首を傾げてみせた。実の娘でさえちょっと赤らんでしまいそうなほど、うなじの後れ毛が非常な色香を含んでいる。

 穏やかな色を湛えた灰色の瞳が、じっと彼女を見つめていた。

「けれど、アルベルティーナ。人とのお話というのは本来、できれば一対一で、またきちんと目と目を見てしなくては。……違いますか?」

 アルベルティーナはちょっと言葉を失って母を見た。

「あの、お母様。それは……」

「大切なお話であるほど、そうすることはとても重要なことなのよ。決して悪意のある人でなくとも、間に人を立ててしまうと、途端にお話が無用なほどにもつれあうもの。……一度、その方ときちんとお話をしてみてごらんなさいな」

「あの、でも、お母様――」


 アルベルティーナはちょっと困って、爽やかだが大人の女としての嫣然たる笑みを浮かべる母の顔を見つめてしまった。


 相手は、まだ若者とはいえれっきとした男子なのだ。

 王女である自分の身分で、一対一で話をするのはいかにもまずいような気がする。

 そのように判断したからこそ、信頼できる士官を選んで、彼への伝言を頼んだのではないか。


 アルベルティーナが困惑しながらそう言うと、母はやっぱり凪いだ顔で、ほほ、とその年の女性にょしょうにしてはもう可愛らしいような声を立てて笑った。

「そこはもう、王族としての立場をお使いなさい。このぐらいのこと、可愛いものではありませんか。お父様だって、否やはおっしゃらないと思いますよ」

 そう言って、母は飾り扇の内にアルベルティーナを誘い入れ、小さな声でちょっとした知恵を授けてくれたのだった。



◆◆◆



 その通達を受け取って、レオンはしばし言葉をなくした。

 それは、あの美しい王女殿下から剣の立ち合いを是非にもという申し出を受け、ご無礼ながらもそれをお断り申し上げてから、三日ほどたって後のことだった。


「姫殿下はどうあっても、お前と剣を交えたいとお思いなのであろう。まあ、諦めろ」


 あの時、間に立ってくれた上官である上級将校が、ちょっと苦笑しながらそう言った。

 通達書には、今回は剣の立ち合いのことは述べていなかったけれども、飽くまでも「王族からの命令」の形を取って、日時と場所を指定され、必ず一人で出向くようにと書かれてあった。


(……いったい、なんなんだ。)


 レオンにとっては、先日から戸惑うことの連続である。

 あの美貌の王女殿下と剣を交える。そんな畏れ多いことが、こんな仕官して間もない若造に許されるはずがない。

 周囲の兵士や士官らは総じて面白そうに見てくれていて、別にレオンに対して妙な妬みを覚えるような者はいなかったけれども、下手をすればこれは、いつそういう立場に追い込まれてもおかしくはない流れだった。

 新参者が下手に目立つと、ろくなことにはならないものだ。


(いや、そういうことよりも――)


 上官の執務室を辞して、王宮の廊下をゆきながら考える。

 問題は、自分の気の持ちようだった。

 先日、たまたま父と練兵場で見かけた分には、決して自分の剣がかの姫に劣るとまでは思わなかったが、だからといっておいそれと剣を交えていい相手だとは到底思えない。


 なにより、彼女は王女なのだ。

 自分が僅かにも手許を狂わせて、その身に怪我でも負わせてしまったらという思いはどうしたって拭えない。

 自分の剣の腕から考えて、いつもならそこまでの心配はしないはずのレオンだったが、今回はどうしても、何度彼女を前にして剣を構えるところを想像してみても、どうにもその懸念が拭えなかったのだ。


 かの人の真っ直ぐな碧い瞳を前にして、自分がいつもの凪いだ精神のままに剣が振れるか。レオンにとって、何よりそこが大問題なのだった。

 あの姫から、「なぜ自分と立ち会ってくれないのか」と一対一で詰問されたとして、果たして今の自分に、そこを上手く説明することは可能だろうか。この、決して口の上手くもない自分が。


(……否だ。)


 すこし絶望的な思いになりながら、そう結論づける。

 今の自分に、自分に対してでさえ確たる結論もでていない奇妙な感情について、他人に説明できるわけが無い。どうして自分が、こうまでかの王女と剣を交えたくないと考えているのか、それを説明することなど不可能だ。まして、当の王女を相手に。

 しかし、今の自分は王族である彼女から「来い」と命令されてそれを断れる立場にはない。


(……厄介だな……)


 知らず、眉間に皺を立てて難しい顔になり、大股に廊下を歩いていたレオンを、周囲を歩く武官や文官らが妙な顔をして眺めていた。

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