第9話 舌鋒



 二頭の竜がその草原へ舞い降りてきたのは、もう白々と夜も明けようとする頃だった。

 薄明るくなりつつある明け方の空の彼方から、ふたつの巨体が翼をひろげてやってくるのを見て、その場にいた兵士らはどよめいた。


「竜だ……」

「に、二頭いるぞ――!」


 しかし、例によってその場にいたファルコやテオフィルス、ヤーコブ老人らの指示によって、兵らは落ち着きをとりもどし、乱れかかった隊列を整然と組みなおした。

 そうして、国ごとに場所を占めて整列し、それでも巨大な竜を見て驚きさわぎかける馬たちを宥めるなどして、ことの成り行きを見守った。


「ニーナさんっ……!」


 クルトは竜たちの姿を見た瞬間、そちらに向かって駆け出した。あとから、カールも追いかけてくる。

 白銀の竜は、遠くにいる間はもっと大きな姿のようだったけれども、空中で体の大きさをふたまわりほど小さく変えて、クルトたちのほうへとまっすぐに下りてきた。隣にいる黒い竜も同様にして、ニーナのあとから下りてくる。

 と、地面におりたったか否かの瞬間に、ふっと二竜はその姿を消した。

 白い竜はいつもの紺地のマントに金属鎧姿のあの美しいひとになり、あおく優しい瞳でこちらをじっと見つめている。


「え……」


 クルトはぎょっとして立ち止まった。

 今まで黒い竜がいたはずのその場所には、今、濃い緑の軍装に黒いマントをまとった、あの男が立っていた。


「レ、レオン――?」


 しかし、クルトはすぐに気付いた。

 今まで片方しか開いておらず、ずっと黒革の眼帯に隠されていた彼の目が、いま、両方とも綺麗に開いているという、そのことに。

 その瞳は、あの翠の色を湛えて涼やかな中にも、その奥にある種の厳しさを沈めているように見えた。


「レオン、目……」


 と、言いかけたとき、遠くの山のから、ぴかりと朝の曙光が差した。

 朝焼けの赤い光がレオンの頬に当たる。

 しかしそれでも、レオンはそのまま、そこに人の姿で立っていた。


(レオン……!)


 クルトは呆然と、そこに立ち尽くした。

 いったい、何がどうなってしまったと言うのだろう。

 先ほど黒い竜になっていたのは、レオンなのか。

 それに今、日の光を浴びてもこの男は、もう黒い馬の姿にはならなくなっている……!


 レオンは驚愕してぼうっとしているクルトと目が合うと、軽く頷き、さっとこちらへ近づいて、クルトの肩を軽く叩いた。そして、隣に立っていたカールとは、そのままがしっと互いの肩を抱き合うようにした。


「レオン! このやろ……!」


 カールがちょっと、くしゃくしゃの顔になってにこにこ笑い、レオンの背中をばしばし叩いた。

 レオンは苦笑するような顔になり、カールをぐっと抱きしめるようにしてから、体を離した。


「二人は、姫殿下のところに居てくれ」


 それだけ言うと、レオンはファルコたちのいるほうへ、無造作な足取りで近づいていった。

 レオンの姿を認めると、彼の臣下であるらしい部隊の士官らが、一斉に威儀を正して彼に向かって敬礼をした。彼らの先頭にたつ将軍や高級文官らしい男がレオンに一礼する。

 ただ、ファルコだけは腕組みをして、レオンをじろりと睨んだだけだった。先ほどは負傷していたようだったが、今はもう治療が完了しているらしい。

 その目が、ちらっと一度だけ背後の天幕を指し示す。

 レオンはファルコにひとつ頷くと、その天幕に向き直った。


 天幕の入り口に下がった幕を払って、黒髪の女が現れる。

 強い光を湛えた菫色の双眸は、やっぱり厳しい色をたたえて、じっとレオンを、そしてずっと背後にいる、ニーナを睨むようにしていた。

 ミカエラに続くように、天幕の中から他の兵士らに引きたてられるようにして、縛り上げられた太った老人と、侍従らしい男が現れた。

 レオンはしばし、黙って彼らを見ていたが、一度自らの手下である将兵らのほうへ向き直ると、こう言った。


「風竜王、ゲルハルト陛下は、風竜神さまへの『祈願の儀式』に臨まれ、その尊いお命を差し出し、ここに崩御された。詳しい顛末については、また改めて後ほどとする」


 おお、と将兵の間からどよめきが湧き起こった。しかし、コンラディンやベリエスといった者たちがすぐに彼らを静まらせた。

 レオンの声が草原に響く。

 それは堂々たるもので、特に声を張り上げているわけでもないのに、兵らの耳に十分に届いた。


「ここに、ゲルハルト陛下のご遺言がある。次代の御世を、先王ヴェルンハルトの子、レオンハルトが継ぐこととしたためてくださっているものだ」


 レオンが風竜王の印璽の捺された書簡を取り出し、皆に示すと、感極まったらしいアネルがその場で、口許を覆って嗚咽するのが見えた。

 ベリエスが彼の代わりにレオンに近づき、その書簡を受け取って中身をあらため、改めて皆の前でその文言もんごんを読み上げた。

 コンラディン以下の将兵らは、互いの顔を見やりながらにこにこしている。

 少し離れた場所でこの顛末を見つめている、土竜国の王太子テオフィルスや雷竜国のヤーコブ老人も、にこやかに黙ってこちらを見つめていた。


 しかし。

 もちろんこの老人は、黙ってなどいなかった。


「お、……おふざけ召さるなッ!」


 もはや赤黒いとも見えるような膨れ上がった顔で、ムスタファが金切り声を上げている。


「そ、そのような文書、いかようにも捏造できまするぞッ! そなたがあの山において、ゲルハルト陛下をしいし奉らなんだという証拠などどこにもないのじゃ! 貴様こそはこの王国の仇敵ぞ。王太子、ブルクハルト殿下とて、そのようなこと、唯々諾々とお認めになろうはずがないわ……!」


 ぶくぶくと太った体を揺するようにして、老人が叫び散らす。

 しかし、沈黙しているレオンを後目しりめに、アネルがずいと前に出た。


「黙らっしゃい! いい加減、悪あがきが過ぎましょうぞ、ムスタファ殿!」

 普段は穏やかなアネルが、とうとうここへ来て、積年の怒りを爆破させたかのようだった。

「ふざけたことをおっしゃっているのは、其処許そこもとであろう! 『祈願の儀式』は、そのような生ぬるい儀式ではありませんぞ! は、王族の皆様がたが衷心より神竜様に願い出てこそ、初めて成し遂げられる奇跡にござりまする。ゲルハルト陛下がまこと、心よりお願い申し上げたのでなければどうして、レオンハルト殿下がかような、奇跡の黒竜になどなれましょうや……!」


 アネルの鋭い言いざまを聞いて、ムスタファはたるんだ頬肉をぶるぶると震わせていきり立った。

「そっ……、それは、そこの男が、無理やりにも陛下を神竜さまにお捧げしてッ……!」

「なにを馬鹿な!」

 もはやアネルの舌鋒は、相手ごとその場に吐き捨てんばかりである。そのままずいと老人に近づくと、アネルは彼を見下ろして言い放った。

「よろしいですか。神竜さまは、祈り手自身の命、もしくはその者の心より愛する誰かの命でなくばお受け取りなどなさらぬのですぞ。……あなたはまさか、このに及んでレオンハルト殿下が、あのゲルハルト陛下を心から愛していたなどと、その口でほざくおつもりかッ!」

「ぬ、……ぐぐうっ……」


 これにはさすがのムスタファも、ぐうの音も出ないらしかった。そうして縛られたまま、その場にがくりと膝をつき、奇妙な唸り声を上げたかと思うと、巨体をどしんとひっくり返らせた。

「か、……閣下!」

 ムスタファの手勢の隊長を務めていた将軍が、慌てて彼を抱き起こしに駆け寄ってきた。が、その時にはもう、老人は口から泡を吹いて卒倒していた。

 周囲の兵らは、しんとして、これらの顛末をじっと見ていた。


「……済まんな。介抱してやってくれ」


 レオンは静かな声で将軍の男にそう言うと、改めて場にいる将兵らに向き直った。

 奇しくもこの場には、あの火竜国以外の四王国の、主だった人物が一堂に会している。

 すなわち、土竜国の王太子、テオフィルス。

 雷竜国の王の側近、ヤーコブ翁。

 そして、水竜国の姫、アルベルティーナだ。


 一同をひとわたり見渡してから、レオンはちょっと顎に手を当て、首をかしげるような素振りを見せた。

「……そうだな。ご老人もああおっしゃっていたことだし。早朝で申し訳ない話だが、当の王太子殿下とも、早急にお話せねばなるまいよ」

 それは何か、楽しげな独り言のようにも聞こえた。

「は? 陛下……?」

「あの、何を――」

 アネルやコンラディン、ベリエスらが不思議そうな顔でレオンを見やる。

 レオンはそちらには答えずに、テオフィルスやヤーコブ老人の方を見た。


「各国の皆々様がた、ご足労をお掛けいたしますが、いま少し、自分にお付き合い願えませんでしょうか」

「おお、勿論にござりまするよ」

「右に同じだ」


 彼らのその返事を受けて、レオンは軽く会釈をすると、ふっとその姿を消した。


(えっ……!)


 クルトがびっくりしているうちに、頭上に再び、あの黒い竜がその巨大な姿をあらわしていた。

 周囲の兵らも、「おお」とか「うわっ」とかとどよめいている。

 が、頭上の竜は悠然とその飛膜に覆われた翼をひろげ、ぐんとそれをひと掻きした。


 途端、まわりに不思議な竜巻のようなものが湧きあがり、もう次の瞬間には、彼らの周囲の景色がまったく違うものに変わっていた。


(え、ええっ……!?)


 クルトは、我が目を疑った。

 今の今まで、あの「風竜の山」の近くの草原にいたはずだったのに。

 今、目の前には白亜に輝く王宮らしい建物がそびえていた。中央部には高い尖塔が林立し、手前には円錐状の青屋根をのせた宮殿の建物がいくつも見える。

 自分たちが立っているのは、その手前にある、石畳の敷き詰められた広大な中庭らしい場所だった。


「ふ、風竜宮だ……」

 兵士の誰かが、呆然とそう言ったのがどこかで聞こえた。

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