閑話

夜の恋人たち



《レオン。もう少し、早くおっしゃって頂きたかったわ。わたくし》


 ニーナがレオンにそう言ったのは、レオンの火傷の傷も癒え、二人で雷竜王のもとを発ち、ひとまず土竜国を目指して旅をしていた、とある夜のことだった。


「……は?」


 姫の声を脳内に感じ、レオンは自分の肩に乗っている、その小さな竜のほうをちらりと見た。

 隻眼になって日も浅く、いまだに左目を酷使している感覚がずっと抜けない。剣を扱う際にも遠近感などに違和感があり、今後はさらに、かなり練度を上げねばならないなと思っているところだった。


 竜の姿になられた姫殿下には、幸いなことに高度の癒しの魔法が使えるのだったけれども、その彼女の魔法でも、雷竜国の魔法官らの施術でも、どうしてもあの狂気の王太子によって奪われたこの右目の傷は癒えることがなかったのだ。

 「或いはこれも、呪いのひとつなのやもしれませぬ」というのが、雷竜の魔法官らの意見だった。

 今ではそこに、黒革でできた幅広の眼帯を巻いている。


 頭上には、吸い込まれそうに深甚とした黒い夜空に、あの「竜の星ドラッヘ・シュテルン」をはじめ、まるで砂を散らしたようにびっしりと星々が敷きつめられている。

 その日は、月のない晩だった。


 周囲は低い丘が幾重にも連なった、だだっ広い草原である。夜風がそろそろ、冷たくなり始める時候だった。

 レオンはちょうど、今夜の寝床にするべく、丘のあちらこちらに立っている楡の木の根元で焚き火を始めた頃合いだった。

 まわりでは、秋に鳴く虫たちの声がひそやかに聞こえている。


 このころには二人もどうにか、昼と夜とで変化へんげしてしまうという自分たちの特異な体質に慣れてきていた。

 レオンは今ほど髪は伸びていなかったが、エドヴァルトに誂えてもらった革鎧に黒いマントという旅装については、今とほぼ変わらない姿になっている。



 ニーナがその質問を夜にしたのは、勿論、自分が竜のときでなければ、彼とうまく意思の疎通ができないと考えたからだったろう。

 いくらもとが人であっても、馬の姿のレオンでは、込み入った話をするにはどうしても向かないからだ。

 いや、たとえ人の姿であったとしても、それは時として難しかった。

 つまり、今のこの状態のようにである。


「あ……申し訳ありません、姫殿下。その、何をでございましょうか――」


 レオンは火をつついていた手を止め、困った顔で竜に向かってそう言った。

 しかし、竜はそれには答えないで、深い青みを湛えた澄んだ瞳でじいっとレオンを見つめている。

 そして、やがてふっと首を下げた。


《……それだけではありませんわ》


 それはなんだか、「とってもしょんぼりしています」という様子に見えた。


《わたくしに言う前に、先にあのアレクシスに言うなんて。……ちょっと、がっかりしてしまいました》


 それは、もしも人の姿であったなら、姫は間違いなく、うつむいて頬を膨らませていたことだろうと、そう思えるような声の響きだった。


「…………」


 しかしレオンは、まだぴんと来なかった。

 いったい姫殿下は、何をおっしゃっているのだろう。


「申し訳ありません、姫殿下。おっしゃることが、よく――」

《ですから!》


 ついに姫が、いや竜が、怒りを爆発させたようにレオンの頭上で羽ばたいて、くるくると旋回した。


《おっしゃったではありませんか。……まあ、そのっ……『父上のお許しを頂いている』というのは、嘘でしたけれど……!》

「…………」 


 まあ、そうだ。あれは確かにはったりだった。

 というか、姫は自分に、ご自身に向かってまで何かのはったりを言って欲しかったというのだろうか。

 相変わらず怪訝な顔をしたままのレオンの目の前までおりてきて、竜はその白銀色の皮膜に包まれた翼で激しくぱたぱた羽ばたいている。

 どうやら、怒り心頭といった様子だった。


 なんだか、その仕草が妙に可愛い。

 思わず革の篭手をつけた片腕を出すと、竜はちょうど、鷹などがするようにしてそこにつかまり、翼を閉じた。

 そうして、今度はしゃきんと首を伸ばして、まっすぐこちらを見つめている。


《もう! わざとなさっているのでしたら、怒りますよ、わたくし……!》

「……申し訳ありません。いや、しかし――」


 まさか、自分が姫に向かって、故意にそんなことをするわけがない。


《おっしゃったではありませんか。ひ、姫と自分は、しょ……しょしょ、将来を……って、だからっ……!》


 思念で話をしているにも関わらずどもられる、という大変めずらしい状態にされながら、レオンはしばし呆然としていた。

 竜は竜で、もう恥ずかしくて堪らないらしく、両腕と羽をばたばたさせてまた飛び上がり、頭上をぐるぐる回り始める。

 もはや「じたばたしている」という形容がぴったり来る感じである。


(……ああ。もしや)


 姫が何を言わんとしているのかをようやく理解して、レオンも言葉を失った。

 そして、自分が先日、あの火竜の国の王太子に向かって叩き付けた言葉を思い出した。



『アルベルティーナ姫はもう、自分と将来を言い交わした仲だ』――。



 あの時、自分はそう言った。

 確かに、そう言ったのだ。


「あ、……その」


 レオンは思わず、片手で顔の下半分を覆って沈黙した。

 確かに自分で言った台詞なのに、改めて頭の中に再生してみると、非常にいたたまれないものがあった。

 少し、耳が熱くなった。


「……も、申し訳ございません、姫殿下。身の程もわきまえず、勝手にあのようなこと――」


 慌てて頭を下げ、不敬を姫に詫びようとしたら、下げた頭の後頭部に、お尻からぽすんと降りられてしまった。


 意外と重い。

 いや、女性に向かってそういうことを言うのは失敬千万ではあるが。

 というか、竜に雌雄の別などはあるのだろうか。


《……待って、レオン。あなたはあの時、謝らなくてはならないようなことをおっしゃったのですか?》


 困ったことに、姫の思念はさらに機嫌が悪くなったように感じられた。


「は? ……い、いえ――」


 レオンは頭を下げたままの姿勢で困惑する。

 そんなつもりはない。

 断じてない。


 と、ようやくふわっと頭が軽くなって、レオンは顔を上げた。


《……それとも》


 すう、と音もなく白い竜が目の前におりてくる。

 彼女は別にはばたかずとも、空中に止まっていられる生き物らしい。


《こんな姿になってしまった女のことなど、もう……そんな風には思えませんか》

「…………」


 レオンは瞠目した。

 その思念は、とても沈んでいた。

 竜なのに、竜であるのに、目の前にいる小さな白い生き物は、ひどく悲しげな顔をしているように見えた。


「いえ!」


 そこにはっきりと、あの姫殿下がしょげて俯いている姿が重なって、レオンは思わず大きな声を出していた。


「……いいえ。とんでもないことでございます」


 そうして両手を、目の前の竜に向かって差し出した。

 ちょうど、「どうぞこちらに」と言うようにして。


「それをおっしゃるなら自分こそ、昼はただの馬になる羽目になりました。あのような姿では、ろくに姫殿下をお守りすることもできません。このような役立たずでもよろしければ、どこまでなりとも、どうか姫のお供をさせていただきたく――」

《お断りです》


 ぴしゃりと即答されたその返事に、思った以上に衝撃をうけ、そしてそんな自分に、レオンは我ながら驚いた。

 が、姫殿下がそう思し召されるのであれば仕方がない。

 臣下の自分に、何がとやかく言えるだろう。あんなただの馬なんて、単なる馬として姫の足になる以外、大した役にも立たないのだから。

 そんな風に考えて、やや憮然として目線を下げたレオンを、竜はちょっと小首をかしげるようにして見ながら言った。


《なにか誤解なさっていませんか? レオン》

「は、……いえ」


 しかし、次にやってきた姫殿下の言葉は意外なものだった。


《わたくしは、『だなんてお断りだ』と申し上げたのですよ。殿

「…………」


 レオンは押し黙る。

 どうも、姫殿下にそう呼ばれるのは落ち着かない。


《わたくしは、あなたを連れ回りたいとは思いません。……申し上げている意味、おわかりですか?》

「…………」


 眉間に皺をたてて完全に変な顔になっているレオンを見て、とうとう竜は爆発したようだった。


《……もう!》


 そうして、憤慨したようにきゅるきゅる鳴いて、また目の前で翼をぱたぱたやり始めた。

 その姿は、やっぱり可愛らしかった。

 レオンは伸ばしていた両手でそのまま、ほとんど無意識に小さな竜を抱きこんだ。


《……え、え……??》


 姫の思念がおたおたして、竜は困ったように動きを止めた。

 人の姿であるならきっと、この人は真っ赤になっているのだろうなと思った。

 竜の身体は、暗い中でもぼうっと明るく、思った以上にあたたかかった。

 レオンは少し考えてから、低い声でそっと訊ねた。


「……自分のような者でも、良いのでしょうか」


 それは何も、自分が馬になることだけを指してはいなかった。

 出自のこと、過去のこと。

 そしてあの時、近衛の士官でありながら、けっきょく姫ご自身を守りきることもできなかった、この不甲斐なさも含めてだ。


 こんな自分が、姫の隣に。

 姫が望まれているような、そんな畏れ多い立場の者として。


《…………》


 腕の中で、竜がふと静かになった。


《……わたくしの方こそ》


 表情は読めないはずなのに、彼女が神妙な顔になったのがはっきり分かった。


《夜にはこんな姿になる女ですよ? あなたは本当に、それでも良いとおっしゃってくださるの……?》


 不安げになった姫の声に、レオンはごく静かに笑った。


「なにをおっしゃいます」


 それはむしろ、彼女が竜だからこそ言えた言葉かも知れなかった。

 もしも目の前にいるのが、あの蜂蜜色の髪をした、たおやかなお姿の姫殿下その人だったら、自分は一生かかっても、こんなことは言えなかったに違いない。


「姫殿下は、お美しいです」


「昼も、……もちろん、夜もです」


「とても、……とても、お美しい――」


《…………》


 気のせいか、竜の碧い瞳がつやつや光って、しっとりと露に濡れたように見えた。

 そうしてやがて、ちょっと涙ぐんだような思念がそっとやってきた。


《……あなたもよ、レオン》


《あなたも、とても素敵よ、レオン》


《お昼も、夜も……とっても素敵》


 レオンは竜に、小さく微笑んで見せた。


「お互い様、……ですか?」


《お互い様、……ですわね》


 くすくすと姫の思念も優しく笑う。


 空ではあの「竜の星ドラッヘ・シュテルン」が、二人を黙って見下ろしている。



 そして。

 木の根元に座り込み、小さな恋人を抱きしめて、

 レオンはそっと、最後にその言葉を囁いた。


「お慕い申し上げています、姫殿下」


「もし、お許しいただけるなら……これからも自分をずっと、あなた様のお側にお置きください」



 竜は嬉しそうに、こくりと頭を頷かせた。


 そうして、彼の胸元からひょいと首をのばし、

 丸みを帯びた自分の口を、

 そっと彼のそれに押し当てた。

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