第9話 回帰
「稲妻の峡谷」、その地下で、クルトはカールとともにただじっと、ニーナの帰るのを待っていた。
ニーナが竜の姿になり、この巨大な地下空洞から姿を消して、すでに相当の時間がたつ。その後、物凄い地鳴りがしたと思ったら、目もくらむような光がここら一帯を包み込み、轟音とともに何か光に包まれた大きなものが地面から現れいでて、そのまま天井に向かい、ぱっと消えたのだ。
(あれ、……ニーナさんだったんだよな?)
どうしてそう思うのかは分からなかった。
しかし、クルトの中で本当に自然に、ふわっとそんな気持ちが生まれて、やがて確信に変わったのだ。
カールは訳がわからないといった顔で、クルトに「なあ、どうするよ」と時おり訊ねてくるのだったが、クルトは頑として、「ここから動かない」と言い続けていたのだった。
ニーナはきっと、ここに戻ってくる。
自分たちは、だからここでちゃんと待ってあげて、彼女を迎えてあげなくてはいけないのだ。
クルトはカールにそう言って、この場に腰を落ち着けることにしたのである。
それ自体がぼうっと輝くとともにきらきらと光っている巨大な石柱に囲まれて、クルトとカールは仕方なく、そこから数刻も、持ってきていた水や携帯用の食料などで飢えを満たしつつ、しばらく待っていた。
それが戻って来たのは、はじめと同じで、とても唐突なことだった。
先ほどのように、また洞窟全体が震えるような轟音がしたかと思ったら、天井のほうで凄まじい光が輝きだして、やがてそれが真っ白な竜の姿になった。
竜は洞窟の真ん中へ音もなく舞い降りると、やや疲れたようにしてそこにうずくまった。
自分たちを乗せてくれたときのように大きな姿だった竜の体は、うずくまるとすぐにしゅるしゅると小さくなって、クルトのよく知る、いつもの大きさに戻っていった。
「ニーナさんっ……!」
クルトは慌てて、そこへ向かって走っていった。
側へ寄ってみて、驚いた。
竜のニーナの体はまるで、物凄く寒いところからやってきたばかりのように、白い氷にびっしりと覆われたようになっていて、しゅうしゅうと蒸気を上げていたからだ。
クルトはしばらく、その傍に膝をついて、竜の体の状態が落ち着くのをじっと見守っていた。
やがて、その体から氷がすっかり解け落ちたのを見計らって、クルトはそうっと、彼女の体に触れようとした。
と、ぱっと竜の体が輝いて、光の粒に変わって散っていったかと思うと、次にはもうその場所に、鎧姿のニーナがすっと立っていた。
「ニーナさん!」
クルトは嬉しくなって、彼女の側へ近づこうとしたが、その顔を見てはっと足を止めた。
「ニーナ、さん……?」
傍にやってきていたカールも、ちょっとぎょっとしたようになって、そこで立ち止まっている。
姿は確かにあのニーナであるというのに、そこに居るのは、クルトのよく知っている、あの優しいニーナではないようなのだった。
相変わらず、蜂蜜色の長い髪に碧い瞳、美貌の人であることに違いはないが。
……その、目が。
その、青瑪瑙の色をしたニーナの瞳は、いま、明らかにクルトのことも、カールのことも見ていないようだった。
クルトは背筋がぞくりとして、一歩さがった。
「ニーナさん……? ど、どうしたの……」
その声にぴくりと反応して、ニーナはゆるりとその瞳を動かしてクルトを見つめた。そこに、表情は何もなかった。
しかし、彼女はさも不思議そうに、そっと小首を傾げるようにしたのだ。
なんだか、鳥のような動きだった。
その目はやっぱり、「この生き物は何かしら」と言わんばかりの色を湛えて、ひどくよそよそしく、とても遠いところからこちらを見ているように思えた。
(なんなんだよ……!)
ぞくぞくっとして、クルトはまた一歩、そこから離れた。
「ニーナさん、どうしたんだよ? 俺だよ。クルトだよっ……!」
やっぱり、ニーナは無反応である。
そうしてただじっと、そのどこを見ているのか分からない、深い深い碧い瞳で、クルトの魂の底まで見通すようにしてこちらを凝視しているのだった。
クルトの胸が、次第しだいに苦しくなってゆく。
だめだ、これではいけないと、誰かが頭の奥で叫んでいるのが分かった。
「ニーナさんってば……!」
クルトは遂にそう叫んで、今度は一気に、ニーナに向かって駆け寄った。
「おい、ちょっと待て……!」
カールが背後でそう叫んだが、構わずにニーナの腕をつかむ。
「ニーナさん! しっかりしてよ! どうしたんだよっ……! こっち、ちゃんと見てよ。俺だよ、クルトだってば……!」
言いながら、がくがくと彼女の腕を揺さぶり続ける。
が、ニーナはただされるまま、やっぱり不思議そうな風情で体を揺すられているだけだった。
クルトは嫌な予感に苛まれながら、それでも叫び続けた。
「ニーナさん、しっかりしろよ! もう、竜じゃないんだよ。ニーナさん、人間に戻ってるんだよ? ねえったら……!」
しかし、彼女は何の反応もしなかった。
(ちっくしょう……!)
遂に、クルトは腹を括った。
「しっかりしろよ、この、バカッ……!」
そう言いざま、思い切り背伸びをすると、クルトはそのまま力を込めてニーナの頬を張り飛ばした。
ぱん、と乾いた音がして、洞窟の中にこだました。
「お、おい……!」
カールが焦った声で止めに入ろうとしたときだった。
ニーナは殴られたにも関わらず、まったく表情を変えなかった。
けれども、ゆるりとその瞳を動かして、いま自分の頬を張った、小さな生き物を見たようだった。
次の瞬間。
ニーナはひょいと片手を上げた。
それはちょうど、あのミカエラが風を起こす時のような感じだった。
その途端、クルトの体はまるで落ち葉かなにかのように、呆気なく空中に持ち上げられた。
「う、わ……」
と思う暇もなく、つぎにはもう、クルトは周囲を囲む石柱の一つに向かって凄まじい速さで吹き飛ばされ、たたきつけられていた。
「ぐっ、……は!」
「クルトっ……!」
カールが慌ててこちらに駆けてくる。
背中をもろに石柱にぶち当てられて、クルトはしばらく息もできなかった。地面にずり落ちたところを、カールがすぐに助け起こしてくれる。
「大丈夫か、おい……!」
クルトはひどく咳き込みながら、痛みのために涙の滲んだ目で、いま自分を吹き飛ばした人を見つめた。
どうやら少し切ったらしく、口の中にじわりと鉄の味がした。
ニーナはただしんとして、そこに先ほどと同様、静かに立っているだけだった。
その目にも、表情にも、まるで人間らしい感情が見られない。
「ニーナ、さ……」
クルトはぎりっと奥歯を噛み締めると、痛む背中も構わず、カールの手も振り払って、這うようにしてニーナにまた近づいた。
「ニーナさん……。なに、やってんだよ……!」
これでは、駄目だ。
いくら今、火竜と風竜の暴挙に対抗するために、竜の力が必要なのだとは言っても。
だからといって、これではきっと駄目なんだ。
だって、こんなニーナさんでは――
クルトは腹のあたりを片腕で庇うようにしながら、足を引きずるようにしてニーナの傍に立った。
「なに、やってんだよ……ニーナさん。そんなんじゃ、駄目じゃんか――」
背後でカールが呆然としたように、そんなクルトの背中を見つめている。
「半分、竜になったって、ニーナさんはずっと、人間でいたんじゃないか。あの、レオンと一緒に……八年も旅をして、そのあいだもずっと、ちゃんと人間でいたんじゃんかよ……!」
それが何故、今になって。
いまさら、人としての心を竜の力に取り込まれるなんてことが、あっていいわけがない。
(けど……もしかして)
クルトの胸に、ふとそんな疑念が沸き起こった。
もしかしてニーナは、どこか、心の奥底で、そうなることを望んでいたのだろうか。
あの女に、ああして無理やり、誰より大切だった人を奪われて。
それで傷ついたその心が、もうそれ以上、傷つかなくてもいいように……?
だって竜なら、竜であるなら、たかが人間の恋人を奪われたぐらいのことで、心を痛めなくても済むかもしれない……。
(いや。そんなはずない……!)
クルトはぎりぎりっと、また奥歯を噛み締め、自分の思考を叱咤した。
違う。
ニーナはそんな、弱いだけの人じゃないはず。
たとえ迷ったって、心弱くなったって、最後はちゃんと、正しい決断のできる人であるはずだ。
(ニーナさん……!)
クルトはぐっとまた一歩踏み出し、またニーナの腕をつかんだ。今度は両手で、ニーナの両腕をつかんでいる。
「しっかりしろ! 負けんじゃねえ! ニーナさんは、ニーナさんのまんまで、竜の力を手に入れなきゃ駄目なんだ。全部が竜になっちまうなんて、そんなの、絶対だめだからな……!」
ニーナはまた、感情のない碧い瞳でこちらを見つめた。
カールは背後で、呆然とそんな二人を見つめている。
「だって、そんなことになっちまったら――」
クルトは思わずそう言ってしまってから、次の言葉を言うことを躊躇した。
しかしやっぱり、これは言わねばならないと思った。
だからしっかりと顔を上げ、大きな声で言い放った。
「ニーナさんがそんなことになっちゃったら……、あいつが、レオンが、絶対に悲しむぞっ……!」
そうだ。
絶対にそうだと思った。
あの男は、この
彼の気持ちは、今だって決して変わってはいないはず。
今だって、レオンはニーナを愛してる。
他のだれよりも、なによりも。
ぜったいに……愛しているのだ。
そのニーナが、いくらこの大地の人々の守りになるためだとは言え、人間としての感情を手放して、ただ竜の仔として生きる道を選ぶなんてことになったら。
あの男が、いかに寡黙でなかなか感情を表に出さない奴だとはいっても、それでも悲しまないなんてことが、あるはずがない。
「しっかりしろ! ニーナ! レオンのこと、思い出せ。あいつのこと、思い出してよ……!」
言いながらもう、クルトはとうに泣いていた。
背後で聞いているカールですらも、ちょっともらい泣きのようなしわくちゃの顔になり、必死に手のひらで赤い目元を拭っている。
と。
ぱりん、と音がしたような気がして、クルトははっと目を上げた。
「あ……」
見上げれば、ニーナの顔に、ほんの少しの変化が現れていた。
青瑪瑙色をしていたその目の焦点が次第にあって、ゆるやかにこちらを見下ろしてくる。
「レオ……ン」
かすれた小さな声が、その桜色をした唇から零れでたのを聞いて、クルトはぱっと嬉しくなった。
「そうだよ! レオンだ! レオンハルト! ニーナさんの一番、大事な人だよっ……!」
そう叫んだ瞬間、今までニーナの顔に貼りついていた仮面のようなものが、はっきりと音を立てて砕けたのがクルトには分かった。
「わた、くしの……大事な――」
ぱりぱり、さらさらと、その欠片が落ちてゆく音さえ、はっきりと聞こえるようだった。
「……レオン……」
「そうだよ。レオンだ……!」
ゆるやかに、その表情が、クルトのよく知る、気高く優しい人のそれに戻ってゆくのを、クルトは泣き笑いの顔で見上げた。
と、唐突に、彼女の顔がふっと歪んだ。
次にはもう、その優しい瞳があっというまに潤みはじめて、大粒の涙がぽろぽろ零れだしていた。
きれいな雫がぽとぽとと、クルトの上に雨みたいに降ってきた。
「クル、トさ……」
両手で口許を覆って、ニーナがその場に膝をつく。
「ごめ、なさい……。ごめんなさい、わたくし――」
膝をついたまま、そこで顔を覆って肩を震わせ始めたニーナを、クルトは立ったまま、自分の胸に抱きしめた。
胸の中から、子供の悲鳴みたいな声が聞こえ始めて、クルトはさらに、ぎゅっと腕の中のものを抱き込んだ。
(……そうだよな。)
この人だって、人間なのだ。
いくら大人だからと言っても、王女様だからと言っても。
だから弱いところだってあるし、ちょっと疲れることだってある。
そんなのは、当たり前だ。
(だってさ……)
だって今、この人の隣には、あの男がいないのだから。
ただただ「ごめんなさい」と繰り返しながら、自分の胸で泣いている綺麗な人を、クルトはじっと、あの男の代わりに抱きしめていた。
そしてほんの少し、本当にほんの少しだけ、誇らしい気持ちを噛み締めていた。
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