第8話 雷竜の父


 閃くような雷鳴の轟く中を、竜のニーナはまっすぐに下りていった。

 周囲を、白や紫に彩られた稲妻が何本も、縦むきにつんざいてゆく。周囲はその稲妻によって何もかもが焦がされたようになり、きな臭いにおいに満たされていた。

 「空気が焦げているのだわ」と、ニーナは思った。


 水竜の父に会ったときと同じように、その下降は、またいつまでもいつまでも続いたように思われた。

 こんなに地下深くに入り込んでしまったら、地面を突き抜けてどこかへ飛び出てしまわないのかしらと、変なことを考えた。


 と、唐突にその稲妻の洞窟内の潜行は終わりを告げた。

 きらびやかで壮麗な深い声音が、竜のニーナを呼び止めたからである。


《よく来た。我らが娘、白きよ――》


 それが雷竜神のものであることは、ニーナには十分わかっていた。

 だからすぐ、例によっての、貴婦人としての礼をした。


『はい。雷竜の義父様おとうさま――』


《まあ、堅苦しいことはよい。水の朋輩より、ことの顛末は聞き及んでおるゆえな》


 にかにかと笑う好々爺のような調子で、雷竜はそう言ったようだった。やはり、あの水竜とは異なって、伝わってくる雰囲気がどことなく派手な上、さばさばした様子が窺える。

 とは言え、その姿はどこにも見えない。


《くどくどと持って回った話は割愛しよう。すまぬが、非常に眠くてな――》


 竜はそんな風に言って笑うと――そう、確かに笑ったようにニーナは思った――早速ニーナに、「竜としての心得」だとか、「竜に変化へんげしたときの体の操り方」だとか、そんなようなことを心の中へと叩き込んできた。


 それは、言葉によるものではなかった。

 竜の身でなければ恐らく決して受け取りきれるものではないような、膨大な情報の渦といってもよいものだった。

 小さな竜の体のニーナは、そのあまりの膨大さ、奥深さに圧倒されて呆然とした。うかうかしていると、その与えられた情報のなかに埋没して、溺れてしまいそうな感覚に陥るのだった。


《こらこら、娘よ。ぼうっとするな》


 声は笑って、「体をさらに大きくし、心を広く深くしてみよ」と勧めてくれた。

 初めのうち、ニーナは言われたことをどのように実践したらよいのか、皆目わからずに四苦八苦した。

 雷竜はそれでも、決して苛立つような風はなく、ただ明るく、優しく、何度でも、仔なる竜にその鍛錬を施してくれたのだった。


 ニーナは自分の体の大きさを変えるため、瞑目して心を研ぎ澄ませた。

 それはちょうど、剣術で精神統一をはかるのと同じような感覚だった。


《うむ。さすがは我らが子。なかなかに筋がよい――》


 竜の声は満足げにそう言って、巨大な体へと変化したニーナに向けて、さらに多くの情報の渦を浴びせかけた。

 どうっと、その洪水のような奔流に煽られて、巨体になったニーナですらも、木の葉のようにしてその中をくるくると翻弄されそうになる。しかしぐっとそれを堪えて、ニーナはから与えられるこの「教育」と「垂訓」とを、全身全霊をもって受け取ることに集中した。



《竜とは、なにか。》


 厳かな、雷竜の父の声がする。


は、宇宙そらの粒子の集まりしもの。》


《ならばこそ、そなたは人の身を離れ、宇宙そらこえを聞かねばならぬ》


宇宙そらの聲を聞かずして、我らが高み、竜なる世界をるにあたわず》


しこうして、宇宙そらとは何ぞや。はたまた、そなたらが命とは――?》


《まわり、めぐり、繰り返し、まずたゆまず連綿と続いてゆく、そなたらが生命いのちの本質とは……?》



 ぐるぐると視界が回り、ニーナは一瞬の気も抜けないまま、必死にそれら竜の問いへと応え続けた。

 それもやはり、人としての言葉でなされたことではなかった。


 視界の中には、かつて竜らが棲んでいた世界のことが、目の前にあるようにしてうわっと迫ってきた。



 銀河は、星の坩堝るつぼ

 生まれでたばかりの、青白く輝く銀河。

 そして、これから滅びゆこうとする、仄暗い黒赤色にたゆたう銀河。

 駆け抜ける流星。

 色鮮やかな塵の広がり。

 すべてを吸い込もうとする、真っ黒な淵。



 それを抜け、一瞬にして飛び越える。

 いままさに、ニーナは竜たちそのものの視点を得て、広大な宇宙そらを駆けているのだった。

 そうして。


(あれは――)


 あれは、「竜の星ドラッヘ・シュテルン」だ。

 そしてその周りをぐるぐると、丸い月のような星が回っている。

 それら一つ一つに、色の異なる巨大な竜の「朋輩」たちが、心やすらかに棲んでいた。

 それに囲まれるようにしてある、ちいさな惑星ほし

 青くかがやく水を湛えた、真っ暗な宇宙のなかに浮かぶ宝石のようなそれが、きっと、自分たちの祖先である「小さき者たち」の住んでいた世界だった。


 やがて。

 ぐるぐる、ぐるぐると回るうち、星たちは生気を失ってゆき、中心に燃えていた「竜の星」が赤みと重みとを増して膨張し始めた。

 「朋輩」たちはそれぞれの故郷を捨てることにして、それぞれの惑星ほしから飛び立った。

 そして、「小さきものたち」のいくらかを取り、優しく眠らせ、しっかりと守りながら、遠い遠い、どこか違う世界を目指して空を渡ることにしたのだ。


 風の朋輩は、何度もその宇宙そらを越えた。

 なぜなら、竜ら自身のことはともかく、その「小さき者ら」が生きてゆけるのに丁度いい、穏やかな世界を見つけるのは、さすがの竜たちにとってもなかなかに骨の折れる仕事だったからである。

 しかしとうとう、竜らは気に入った星をみつけた。

 そして、そこに共に落ち着き、しばし疲れた翼を休めることにしたのである。


 「小さき者ら」はその大地にそっとおろされ、深き眠りより目覚めさせられた。


(ああ。……なんて、小さいの)


 白き竜は、思わずずきりと胸の痛みを覚えて、目元を潤ませた。

 「小さき者ら」はおどおどと、ただ荒野の広がる何もない大地の上で、呆然と周囲を見回し、肩を寄せ合うようにしていた。


 黒い髪、白い髪、茶色の髪、金色の髪。

 白い肌、黒い肌、褐色の肌。

 背の高いもの、低いもの。

 目の色も、さまざまだ。


 そして彼らを包むようにして共に生きていたほかの生き物や植物なども、竜らはそうっと、そこに生きやすいようにと大地においてやったのだった。

 竜たちは彼らを五つの集団に分け、比較的穏やかな環境として彼らを守ってやりやすいよう、はじめのうちは自分たちの身近に置いてやるようにした。

 白き竜は、痛む胸を抱えながら、じっとその太古の昔の、自分の祖である者たちを見つめ続けた。


 やがて、雷の父の声が竜の心に響き渡った。


《……善きかな。我が娘よ》


 その声は、確かな満足を娘の白い竜に伝えてきた。


《その心を忘るるな。……さあ、往け。これ以上、そなたに与えるものはない――》


《ただ、このことも忘るるな。そうは言っても、そなたはやはり、人の子ぞ》


《たとえ竜としての意識に目覚めるとしても、人としての思いと意識は、決して手放してはならぬ。さもなくば、そなたは二度と、人に戻ること叶わぬようになるゆえな》


 竜がさらりと、恐ろしいことを警告した。


《それ故、そなたが『涙』の在り、それを努々ゆめゆめ忘るるな。いずれそなたが戻るよすがを、常に想いにとどめおけ――》


 その思念を受け取った途端、白い竜は肥大しきっていた自分の意識が、ともかくも今の自分の体、竜としての体の中に収まってゆくのを感じた。

 雷竜の荘厳な声が、体全体を包むかのようにして鳴り渡った。


《飛べ、わが子よ。良い機会でもあろう。現在いまのそなたらが棲みのまことを、一度見て参るがよかろうよ――》


 そう言われたかと思ったら、白き竜の身体はまた、来た時と同様の素晴らしい速さで今度はぐんぐんと上昇を始めたようだった。

 轟く雷鳴と稲妻の柱の中を、ごうごうと白き竜は飛ぶ。

 やがてずばっと狭い空間から飛び出したかと思ったらもう、竜は自分が、星の海の中を飛んでいることに気がついた。


 はるか下方に、巨大な島が見はるかせる。

 いや、それは島ではなかった。

 遠近感がすぐには正常なものにはならず、島だと勘違いしただけだった。

 それは確かに大陸だった。


 夜の静寂しじまに、その大陸は沈んでいるかのように見えた。

 周囲は暗い海に囲まれているようだ。

 目を上げると、ゆったりとその大陸が眼下を回ってゆくのに気がついた。大陸は、巨大な球体の上に貼り付くようにして存在している。

 大陸の表面を、細かな綿毛のように見える雲が、さらりさらりと過ぎてゆく。

 少し目を上げれば、それら雲のさらに上に、宝石のようなまばゆい光を放つ、巨大なスカートの裾のようなものがひらめいているのが見えた。

 北方の、寒い地方に時々見られるそれらのものを、竜はどこか遠い世界で、噂に聞いたことがあるような気がした。

 ぼうっと光るその球体が、竜たちのいう「惑星」というものなのだということを、白い竜はぼんやりと理解した。


 球体の背景は、漆黒の織り地の上にぎらつく星の撒き散らされた絨毯である。

 竜はいま、自分たちの住んでいるという、とある惑星の上を凄まじい速さで駆け抜けているのだった。

 ここにはもはや、昼も夜もなかった。

 昼と夜との間を縦横無尽に駆け抜けながら、白き竜は己の思いを失わぬまま、竜として在り続けることができていた。


 眼下のものよりも小さな球体――恐らくあれは、月であろう――が、竜の傍らを飛びすぎてゆく。

 それに軽く首を下げて挨拶をし、竜は優雅に翼を開いて、悠々とその空間を飛び続けた。


 ぐるうりと、一周その惑星ほしのまわりを巡ってきてから、竜は改めて、眼下の大陸に目をやった。

 その大陸以外の陸地は、そこまで大きな大地を持っていないらしい。群島はいくつもみえたが、ここまでの面積のものは他にはないようだった。ある程度の大きさの島であれば、あちらこちらに点在している。

 それ以外はすべて、青々と煌く水、つまり海が取り囲んでいるのだった。


 大陸の中央部が、いま自分が飛び出てきた雷竜の支配する分限であろう。

 竜はふと、その北東側にある場所に目をやった。

 それは、あの風竜の支配する地域である。

 北西側の火竜の分限と、その風竜の分限とが、他の竜たちの力の及ぶ範囲に向かってひとまわりばかり力を増していることが、竜の瞳にはすぐに分かった。

 それは、いま現在の竜の眷属らの存在を、如実に知らしめるものでもあった。


(風竜さまの……分限)


 竜としての理性のなかに、きらりと何かが差し込んで、白き竜はその場所を、その碧き瞳で上空からじっと見つめた。

 白き竜の心はそこに、自分の胸のかきむしられるような何かがあることを知っていた。

 それが何であるのかを、決して忘れてはならないのだと、つい先ほども、雷竜の父がそう言っていた。


 そこにあるのは、我が「涙」。

 それを持っている男の名前を、自分は決して忘れてはならないのだ。


(レオン……)


 が、その名を思い浮かべたとたん、竜の胸には切り裂かれるような痛みが走った。

 忘れてはいけないその名が、胸にきりを差し込まれたかのように痛かった。

 それがいったいどうしてなのか、竜には思い出せなかった。


 いや、思い出さなくていいのかもしれない。

 そうすれば、……そうすれば。


 そんな風に囁く小さな声が、

 竜の胸の奥底にいる、ちいさなちいさな少女の声が、

 すすり泣くようにして聞こえてきたような気がした。



(……知らなければ、よかったの。)


(愛さなければ、よかったの……)



 竜はそっとその瞳を一度だけまたたかせると、ゆったりと巨大な白い翼をひとかきし、音もなく空間を滑りおりて、もといた雷竜の棲み、「稲妻の峡谷」へとまっしぐらに舞い下りていったのだった。




◆◆◆




 流星を、見たと思った。


 その時、レオンは隠れ家にしている貴族の屋敷、そのバルコニーで、夜空をじっと見上げていた。

 澄んだ夜空にきらりと一筋の光が流れて、レオンは隻眼を少しすがめた。


(……!)


 ずくん、と胸が痛んだ気がして、眉をひそめる。

 それがどうしてだったのかは、分からなかった。

 ただ、何かただならぬものを感じて、レオンは軍装の襟元をゆるめ、その内側に首から提げている、小さな革袋を取り出した。


 あの日、竜のニーナがその目から零し、あの小さな少年が手ずからこの手に握らせてくれたもの。


 ……竜の、涙。


 袋から取り出してみて、レオンははっとそれを凝視した。

 「竜の涙」が、ぼうっと明るく光っている。

 手の中で、それは不思議に温かく、それでいて胸に刺し込むような痛みを覚える心持ちがするのだった。


 なぜなのかは、分からない。


 しかし、レオンは眉間に皺を立て、しばらくそれをじっと見つめていたのだった。

 降るような星々と、やや欠けた形の月だけが、ただ黙って、そんな彼を見下ろしていた。



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