第2話 水竜の父



 水竜の住まう地、「碧き水源ブラオ・クヴェルレーゲン」に、夜が来る。

 禁足地であるその場所に、クルトは初めて足を踏み入れた。

 ニーナとカールは、八年前のあの事件のとき、まさにこの場にいた人たちだ。二人とも、見ていると懐かしいような、また悲しいような、ひどく複雑な表情をしているように思われた。


 日の暮れる前に、三人は馬を進めてその湖へと近づいた。

 少し離れた場所で馬をつなぐと、あの昔の話でも聞いていた、湖に突出したようになっている岸辺へと歩いてゆく。

 冬場の山中のことでもあり、空気はひどく冷えていた。

 白い息をその空気のなかに溶かし込みながら、クルトは暗い森の中を二人について歩いた。カールが松明を持っている。


 ニーナはその岸辺へと辿りつくと、近隣の村で贖ってきた花の束を水辺に置いて、そこでしばらく水面みなもに向かって跪き、こうべを垂れていた。クルトとカールはその後ろに立って、同じように頭を垂れ、目を閉じていた。


 その時、いまにも落ち込みそうになっていた太陽が、遂に山の稜線へと姿を隠した。

 ニーナの姿がたちまちぼうっと輝いて、いったん光の粒になり、それが空中にまとまっていつもの竜の姿に変わる。

 竜はぱたぱたと舞い上がると、クルトの手元にやってきて、もうすっかり慣れた様子で少年の腕の中におさまった。それから、いかにも「ありがとう」と言うようにして、静かに首を伸ばしてその頭をクルトの顎のあたりにすりすりと擦りつけるようにすると、また飛び上がった。


「ニーナさん……気をつけてね」

 クルトはまだ少し明るく見える空に舞い上がったニーナを見上げ、そう声を掛けた。

 ニーナはまるで「わかっています、心配しないで」とでも言うように、彼らの頭上をぱたぱたと二周ばかり旋回してから、すうっと湖の水面みなもの上を飛んで行った。

 彼女はやっぱり、カールの言った通りに、この場所でに話をしてみるつもりだったのだ。


 巨大な湖を囲む山々は、しんと静かである。

 暮れゆく薄桃の空を背景に、ぬうっとその山容で見るものを圧するような感じがした。まるで山そのものにも意思があるかのように思われて、クルトは少し、ぞくりと背中が寒くなるような感覚をおぼえた。


 ぼんやりと白く光った小さな竜は、ほとんど音もなく湖の中心へと到達し、そこでぴたりと止まった。

 竜というのは、どうやら羽ばたくことで飛ぶのではないらしい。

 彼女はしばらくそこで静止するようにして、その湖のあるじである何ものかに、何事かを語りかけている風だった。


 クルトとカールは、岸辺でじっとそんなニーナを見つめていた。

 どのぐらい、そうやってそこで待っていただろう。

 その頃にはもう、空はすっかり暗くなって、冬の星々が目を射るように、ぎらぎらと天上に輝いていた。


 と。

 しゅるしゅると、山肌から唐突にもやが湧きおこり、滑るようにして湖面に下りてきたのがわかった。


 クルトはぞくっと肌が粟立ち、体を硬くした。


(来た……!)


 見ていると、湖面には、風があるわけでもないのに不思議なさざなみがたち、ゆったりとした渦が生まれはじめた。渦はゆっくりと回りだし、湖の中心にぼうっと光る部分が現れた。

 周囲を包む靄はますます濃くなり、山や森の様子がほとんど見えなくなってしまった。


「あっ……!」


 クルトは思わず、叫んでいた。

 白い小さな竜の体が、突然、水の中から現れた透き通ったもやの塊のようなものに包まれたかと思うと、そのまま柔らかく抱きこまれ、音もなく水底に沈んでいったのだった。それはちょうど、空気でできた誰かの手が、そっとニーナを手のなかに包み込んだかのようだった。


 あっという間の出来事だった。

 クルトもカールも、ただ呆然と、何事もなかったかのように静かな、湖のおもてを見つめて立ちつくしていた。




◆◆◆




 竜の姿のニーナは、その大きな手のようなものにいざなわれるまま、どんどん青い水底へと沈んでいった。

 そこは不思議なほどに、碧い、碧い水に満たされていた。

 それでいて、怖いほどに透明なその水はどこまでも澄んでいて、遠い湖の淵までが見通せるほどだった。それほどに清い水でありながら、底はまったく見ることができないのは、それがあまりにも深くて、外界からの光がいっさい届かないせいなのかもしれなかった。

 まあ、すでに日が沈んだ刻限なので、光といっても限りがあるのだったが。


 ニーナは静かに沈んでゆく。

 彼女を包んでいる空気のかたまりのようなものは、彼女に呼吸をさせるためというよりは、その深さによる水圧から彼女を守るためのもののようだった。

 こぽこぽと、耳元で小さな水泡が立ちのぼる音がする。


 やがて、ずいぶんと沈んだところまで来ると、「泡」は何の前触れもなしに、水中でぴたりと動きを止めた。

 魚や虫など、水辺の生き物の気配はまったくしない。

 ここはただただ、「その方」が住まわれるための場所だということらしかった。


 やがて。

 おおん、という耳鳴りのような低い音が周囲を満たし、水を震わせたような感覚があった。

 見下ろせば、眼下の大きな黒い水底が、ゆらりゆらりと歪むように見えた。

 そして、ニーナははっきりとの気配を感じて、身を硬くした。



《よく来た、幼きよ》


 慈愛と叡智に満ちた、聞き覚えのある声が頭にひびいて、ニーナは頭を上げた。


『お久しゅうございます、水竜神さま。あなた様と雷竜神さまが娘、アルベルティーナにございます』


 ニーナは、竜なる者だけにわかる方法で頭のなかにその思考を閃かせた。

 それはもはや、人としての言語で表せるようなことではない。竜たちは、思念と思念によって言葉で表現しきれない森羅万象のすべてを互いに交換し合えるものであるようなのだ。

 いま、ニーナは生まれて初めて、その方法によって竜との接触を試みているのだった。


《そなたの生まれしは、つい先だってのことと思うていたが。此度こたびは、我に何用か》


 竜は相変わらず知恵と優しさに満ちた声音のまま、そう訊ねてきた。

 竜はどうやら、人間にとっては八年も前のことを、瞬きするほどの時間とも捉えてはいないらしい。雷竜とともにニーナに竜の加護を与え、この竜の身へと変化へんげさせて彼らの「娘」として遇するようになったのも、つい先ほど起こったことででもあるかのようだった。

 ニーナは竜の身としては難しいことだったが、一応は彼女なりに貴婦人としての礼にあたるような感じで少し首を下げた。


『お義父上ちちうえさま。お休みのところ、お騒がせをしてしまい、まことに申し訳ございません。どうか、愚かな娘をお許しくださいませ。ですが、どうかそのお目とお耳とを、ほんの少しの時間、この小さき娘にお与えいただけませんでしょうか――』


《遠慮は無用。申してみよ、我が娘よ》


 水竜はゆったりとした声音でそう伝えてくると、じっとニーナの言葉に耳を傾ける様子だった。

 実のところ、竜たちは、五竜それぞれにやはり特徴というのか、性格の差のようなものがあるようだ。そうしてそれは不思議なことに、それぞれの国の王家の気風にも端的に現れているように思われる。


 すなわち、火竜は勇壮にして苛烈、赫々かっかくたる覇王の気風を。

 対する水竜は叡智と慈愛、静謐と友愛を。

 また雷竜は荘厳にして豪胆、かつ自由闊達と華麗の質を。

 さらに風竜は、あのレオンやその父ヴェルンハルトのように、颯々さっさつかつ勇猛にして、篤実、英明。

 土竜は慎重、温厚沈着にして粘り強く、深謀遠慮しんぼうえんりょ不撓不屈ふとうふくつを旨とするといったところか。



《……なるほど。火の朋輩が子、風の朋輩が娘とも、ややもすればその定められし分限を逸脱しすぎるというのだな》

 ニーナは決して多くを語ったわけではなかったけれども、その「水竜の父」は、ニーナの言わんと欲するところを過たず理解してくれた様子だった。

『はい……。お恥ずかしきことながら、もはやわたくしたち人の子の手では、彼らの暴挙に対抗することは難しく……』

《話はわかった。しかし、わが子よ。我ら竜は、地上の小さき子らの世に干渉するを好まぬ者。我らがほんの僅かの加減をたがえるだけで、子らはいともたやすく滅びの憂き目に遭うことにもなりかねぬからだ――》


 そして水竜は、静かな声で淡々と語ってくれた。

 火竜がその尾をひとふりするだけで、五竜大陸の半分が焦土と化する。

 水竜が羽を震わせたそれだけで、大陸は洪水に飲まれ、幾万という生ける者らを水に沈めることになろうと。

 それは、他の三竜でも同じこと。

 竜らはだから、かの「竜の星ドラッヘ・シュテルン」より落ちてこのかた、人の子らの近づけぬ場所、その奥深くに身を潜め、人とは関わらぬ立場を選びとってきたのだと。



《朋輩らが眷属とはいえ、人は人。その命ははかなく短い。時さえ経てば、彼らもまた、風の前の塵のごとくにこの大地より飛び去るまで。ただそれを待つだけで、大地は再び五竜の均衡によって支配されよう――》

『はい。ですが――』

 と、ニーナが言いかけようとすると、体を取り巻いた水がうわん、と大きく振動したようになった。どうやら水竜が、「わかっておる」と頷いたということのようだった。


《とはいえ、そなたらの時の限りも同じこと。命みじかき身をもって、ただ無為にそれを待つなどは、あまりの空事そらごとに相違あるまい……》

『はい……。おっしゃるとおりでございますわ』

《だが、娘よ。よしんば朋輩らが耳を貸してくれたとしても、事態の変化は僅かも望めぬやもしれぬぞ。やはりそれは、地の子らたるそなたらが手で抗い、勝ち取るよりほかはないものなのだ。そこは努々ゆめゆめ、忘るるな》

『はい。重々、肝に銘じましてございます』


 そこからしばし、ぷくぷくと水の深遠から浮かび上がってくる小さな泡の音だけが周囲を満たした。

 静かな静かな、間があった。


《 として、雷が朋輩が分限へけ。そこでの朋輩に会い、その子らと時を共にせよ。火竜、風竜への抑えとして、白き竜たるそなたこそ、そこに在ってかの地を守るべきである》


(雷の……雷竜国ドンナーシュラークへ、ということ……?)


《竜なる娘よ。水と雷の子たるそなたは、この地の光たる者なのだ》


(ひか……り?)


《そなたは、この地の光たれ。そして地の子を照らし、その希望となるがよい》


 ニーナは驚いた。

 そのようなことを、まさか自分が、竜から求められようとは思ってもみなかったからだ。それで、ごく控えめな声でこう言ってみた。


『わたくしのごとき小さき者に、そのような大役が務まりましょうか――』


《水と雷、二竜の加護を受けし竜なる姫よ。その力、まだそなたが御するに余りあるようではあるが。此度こたびは良い機会であろう。かの地にて、その能力ちからの操術を極めるがよい。さすればそなたの力、けっして眷属には劣らぬものぞ》


(なんですって――)


《当然の仕儀であろう。眷属どもは、たかだか我らがしもべたる身ぞ。我らが力を凌駕するなど、もとよりあり得べからざる話であろう。……微力ながらこの身も、その導き手となるほどに》


 と、ふと、水竜の思念が思わせぶりな優しい色に変わったような感覚があった。


《さすればそなたの、かの『涙の結晶』を与えし馬なる若者、風竜の子との道も、再び交わる未来さきを得ん》


 ニーナははっとして、目を見開いた。


(レオン――)


 彼との道が、まだ望めるかもしれないと……?


《が、力をるに肝要なるは、まずは人なる身を離るることぞ。そなたの人の子としての枠、たがを、一度取りはろうことをいてその儀は成らず。覚悟の要ることではあろうが、そこを外して、大いなる竜の力に届くは望み得ぬ。……よいか、わが子よ》


 竜のニーナは、心の中で居住まいを正した。


『勿論のことにございます。お義父上ちちうえさま――』



 そして。

 碧き深みの奥の奥から、こぽりとひとつ、大きな泡が上がってきて、ニーナの体をもとの泡ごと包み込んだ。

 次にはその泡ごと、さらに竜のニーナの体は、しずしずとより深く、その水の中に沈んでいった。


 まるで永遠かとも思えるような時間が過ぎた。

 周囲は完全に無音となって、ニーナは自分が、もう降りているのか、のぼっているのかも分からなくなっていた。

 ニーナの体は泡の中で、くるりくるりと何度も回り、そのためもあって、もはやどちらが上だか下だか、そのことすらもあやふやになっていた。


 やがて、ふわりと体の動きが止まったような気がしたとき。


(あ……)


 ニーナは思わず、息を呑んだ。


 目の前、どのぐらいの距離なのかもわからなかったが、そこになにか、大きな金色の泉のようなものがあるのに気がついたのだ。

 碧き湖の中に沈む、もうひとつの金色の湖。

 その湖は、とろりと蕩ける琥珀のような、黄金色こがねいろをした鏡のようにも見えた。


(いえ……、ちがう。)


 その瞬間、ニーナは雷鳴に打たれたようにして気付いた。

 もしもニーナが人であったなら、ぞくりと背筋が粟立ったことだろう。

 その「湖」の真ん中には、ぽっかりと細長い、巨大な虹彩が浮かび上がっていたからだ。


(ま……まさか)


 なんという、巨大さか。

 その、「碧き水源ブラオ・クヴェルレーゲン」そのものかとも思えるほどの「湖」は、それそのものが、竜のまなこなのだった。

 ぐるうりと、水がゆったりと動く気配がして、その巨大な眼はしずかにこちらへと視線をよこした。


 大きな「湖」が、二つ並んでこちらを見つめる。

 それがしっかりとこちらを見据えて、やがて僅かに細められたようだった。


《……まみゆるは、初めてのことよな、我らが子よ》


 優しく叡智に満ちた声が、頭のなかに鳴りひびく。

 しかし、優しい声でありながら、それは彼女の頭を芯から揺さぶり、霧散させそうなほどの圧力を漲らせていた。

 もしも彼女が今、人の姿であったなら、とてもその圧力の大きさに、正気ではいられなかったことだろうと思われた。


《美しき子だ。……そして、麗しきしたたかさをも秘めた子よ――》


 声は、いかにも満足げにそう言った。


 水竜国の守護神にして、クヴェルレーゲンの守護竜が、いまはじめて、ニーナの眼前にその身を現した瞬間だった。


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