第8話 風竜宮



 風竜国フリュスターンの春は遅い。

 あの火竜国と同様に、太陽の高くなりはじめる時候が遅いために、このあたりの冬はとても長いのだ。

 それでも、年が明けて三番目の月であるこの<鳥鳴き月>には、分厚く固かった雪も溶けだし、風にも花の香りが含まれはじめる。


 重く垂れ込めていた灰色の雲間くもまから春らしい日差しが仄見ほのみえだすと、風竜国の人々は、「そこから風竜神さまがのぞいておられるのだ」と言って、新たな種蒔きの準備に入るのだ。


 少しずつ明るさを取り戻しているそうした外界とは関わりなく、ここ風竜国の王宮で、太った老人は相変わらず、むっつりと不機嫌な顔で国王の執務室へとまた足を運んでいるのだった。

 せかせかと落ち着きなく運ぶその足は、もはや先から炎を発するかのごとくにせわしなく、彼の心中を垣間見させるようだった。

 凄まじい剣幕で歩き去ってゆくこの老人を、すれ違う文官や下働きの者らはみな、怯えたような目で見送っていた。



◆◆◆



「陛下。昨今の巷の噂、すでにお聞き及びとは存じますが」


 王の執務室に入るやいなや、国王に対する臣下の礼もそこそこに、老人は詰め寄るようにして壮年の王ににじり寄った。


「……うむ。まあ、聞いている」

 国王ゲルハルトは、執務机の向こうに座り、いつものようにあまり血色のよくないその相貌を臣下の老人に向けた。とはいえ、襟元に銀狐ぎんぎつねの毛皮のあしらった温かなマントの下で体を固くし、困ったように眉をひそめているばかりである。

「我が兄の子、レオンハルトの噂であろう。彼が王座を奪還するべく、すでにこの国に入り、密かに活動を開始したとか、何とか――」


「それは良うございました」

 宰相ムスタファはぶふう、と荒々しく鼻息を吹き出すと、いつも通りのごてごてと装飾品のまとわりついた太い指で、執務机の上を叩かんばかりにしゃべりだした。

 勿論、人払いは済ませてある。

「我らの前でおおっぴらに口にする者こそおりませぬが、いまや臣下らは言うに及ばず、この国の津々浦々、下々の民のあいだでまで、あの『ヴェルンハルトの亡霊』の噂で持ちきりでござりまするぞ。どうやら彼奴きやつは、すでに国内のいずれかに潜伏して、じわじわと勢力を増しつつあるという噂まである始末――」


 しゃべるごとに、おのれのだぶついた頬肉がぶるぶると震えていることに、この老人が気付くことはない。その口から飛び散っているつばきまでが、畏れ多くも陛下のお顔にかかりそうになっていることにもだ。


「各地に放った手下てかの者らには、その潜伏場所を虱潰しに探させておるところにござりまするが。なにやら彼奴は、面妖な魔術を使う者を多数擁しておるらしく、なかなか尻尾を見せませぬ」


 老人はもう、その忌々しさを隠そうともせずに国王に食って掛かっている。

 それはまるでその責任が、この王にこそあるかのようだった。

 だがまあ、それもあながち誤りではない。なぜならこの国王は、あの先王ヴェルンハルトの遺児レオンハルト存命の噂が王国に流れ始めてからこっち、特になんの対処をするわけでもなしに、青白い顔をしてただ塞ぎこんでいることが多かったからである。


 ゲルハルトはただ黙って、宰相ムスタファがまくし立てているのを聞いていた。

 その覇気のない国王の顔に、老人はさらに怒りの程度を引き上げてしまったようだった。


「陛下! なにをぼうっとなさっておいでか!」

 遂にムスタファは、執務机に丸っこい拳をたたきつけるようにして叫びだした。

「我が王国の危機なのでございますぞ? あのヴェルンハルトの小倅こせがれめが、今頃になって現れおって、我らが王権を掠めとろうとしておるのでございますぞ!」

 老人は興奮のあまり、自分が思わず王権を、不敬にも「我らが」と形容したことにも気付いてはいないようだった。

 ゲルハルトはその事に気付いていたのかも知れなかったが、特に咎める風もなく、座って机に肘をついているばかりだ。

「いや勿論、彼奴きやつが本物であるかどうかなど疑わしいことにはござりまする。どうやら彼奴は二十年前のあの事件の証人も、人を使って探しておるとのことですからな。しかし、それはそれで問題の多きこと。奴らはあわよくばあの事件の真相ことも白日のもとに晒した上で、我らの首を獲らんとしておるのです……!」

「…………」

 しかし王はやはり手を組み合わせて、じっと老人を悲しげな目で見つめ返しただけだった。

 そんな国王の様子を見て、老人は火に油を注がれたようになってますます激昂した。


「陛下! しゃんとして下さりませ! まこと、お分かりなのですか? 陛下や臣ばかりのことではござりませぬぞ。もしもこのまま、あの者がわが国の王座に就くような仕儀になりますれば、一体どのような悲劇が待っておることやら!」

 老人は目を剥き、必死になって喋りまくる。

「王太子殿下をはじめ、王子殿下、姫殿下の皆々様のお命とて、奴が許して長らえさせるとお思いか? そのようなこと、天地がひっくり返ってもあるはずがござりませぬ。陛下の一族ご郎党、みなみなまとめて、処刑人の斧がもとに露と消え果てるに相違ございませぬわ……!」

 しかし、そうまで言われてもゲルハルトは、ただぼうっとしたような枯れた目で、じっと老人を見返しているだけだった。


「……ムスタファよ」


 そうしてやっと紡がれたその声も、やっぱり、どこか山奥の寺院の僧侶かなにかのように、清貧に満ちたような、しかし何かを諦めたようなものでしかなかった。


「この際、もう、それでも良いではないか」

「な……」


 老人は絶句して、思わず国王を睨み返した。

 その太りじしに包まれた顔はさらに赤黒く膨れ上がって、なにかもう、人の相貌とも見えなかった。


「あのレオンハルトが、まことに存命だったというのであれば、それでもよいと余は思っておる。いや、むしろ喜ばしきことではないか。もとよりこの王権は、本来、我が兄ヴェルンハルトの子、レオンハルトのものであった。兄殺しにすら手を染めて、それを横から掻っさらい、今までこの座に座っておった余のほうこそ、大いなる罰を受けねばならぬ身であろう……」


 ぐふう、と老人の胸の奥から変な音がした。

 老人は一瞬、息の仕方も忘れたかのようだった。

 ゲルハルトは悲しげな目をゆっくりと上げ、真っ赤になって普段の二倍ほどにも膨らんだ老人の顔をじっと見た。


「レオンハルトがもし幸いにして、こちらにまず話し合いを求めて来るということなら、余はそれに応じようと思っている。当然、王権は返上し、もしこの一命をもって寛恕を願えるというのであれば、一族郎党、命ばかりは許してもらえるよう、重々願ってもみるつもりだ」

「なにを、仰せか……」

「そのレオンハルトがまこと、あの兄の子だというのであれば、まさかそこまで、血も涙もない御仁ではなかろうからな。その憐れみのお心に、おすがりするよりすべはない――」


「陛下……!」

 ムスタファは、全身を震わせながら王をにらみつけた。

 そこにはもはや、はっきりとした殺意すら浮かんでいるようだった。


 この王は、本気か。

 そのレオンハルトなる男が、まことあのヴェルンハルト王の忘れ形見なのだとすれば、両親を殺され、王座を奪われた恨みは当然、骨髄であるに決まっていよう。

 このゲルハルトは勿論のこと、その王太子も王子も王女も、そしてこのムスタファの一族郎党、みなみな処刑して当然の仕儀である。

 いや、よしんば王族の皆が許されて、寺院などに放り込まれ、一生をそこで送るだけで事なきを得たとしても、こちらはそううまくは行くまい。王弟だったゲルハルトに兄王殺しを教唆し、彼を暗殺せしめた自分のことをそのレオンハルトが知るに及べば。


(われら一族、一巻の終わりではないか……!)


「なりませぬぞっ! そのようなこと……!」


 次の瞬間には、またムスタファは叫んでいた。

 しかし王は、まったくその老人の声に動じる様子もなく、ただ淡々としていた。


「無論、そなた自身も余とともに、処刑台の露と散ることにはなろうがな。……それでもそなたが一族のみなみなは、余の口からも命乞いをさせて頂くこととしよう。少なくとも女こどもについては、それで命は救われよう――」

「冗談ではございませぬ……!」


 その瞬間、老人の目からはもはや炎が発するかと見えた。


「ともかくも。今は証拠を潰すことこそが肝要。かの男がまことのレオンハルトであるかどうかなぞ、暗愚の民どもに分かろうはずがござりませぬ。二十年前の事件についても、知っておりながら口を閉ざしている輩もおりましょう。それらを虱潰しに探し出し、今のうちにことごとく口を封じれば済みまする。あとはいかにその男が己が出自の正しさを喧伝しましょうとも、『証拠不十分』のかどで、『知らぬ存ぜぬ』を通せばよいこと……!」

「いや、だからな、ムスタファ――」


 弱々しく遮ろうとする王の言葉を、ムスタファはあっさりと無視してのけた。


「申しわけござりませぬ、陛下。臣はすぐ、その差配に参りまする。ご報告はまたのちほど、改めて致しまするので。此度こたびはこれにて――」

 言うが早いか、老人はその年齢を感じさせない素早い足取りでぐるりと踵を返すと、だぶついた体を揺らしながら、足早に扉へ向かって歩き去った。


 憤然とまた、もと来た廊下をずしずしと歩いてゆきながら、老人はめまぐるしく脳みそを働かせている。


(駄目だ。もうあの王は――)


 やはりあの王、二十年前に犯した己の罪、兄王の弑逆を、どうにも抱えきれずにいたのだろう。もとより、精神の脆弱な男であるとはわかっていたが、この土壇場へ来てのこの弱腰。道連れにされるこちらはたまったものではない。


 奴が昔の罪を恥じ、贖罪を求めるのは勝手だ。だがそれにこの自分と、一族郎党を巻き込むなと、襟首を掴んで怒鳴り散らしてやりたかった。いや、あともう少し長くあの部屋にいたのなら、間違いなくそうしていたことだろう。

 そうしてちらりと、恐るべき思考が老人を打った。


(そろそろ、潮時か――)


 王太子は、すでに二十代にはなっている。

 上手い具合にと言うべきか、なかなかに凡庸でさしたる覇気も才もない、いい按配のただのぼんくらに育ってくれているではないか。

 この際、あの王には譲位を促したほうが良いかもしれぬ。もしも万一、素直にそれをうけがわず、どうあっても王座にいて、それをこのままレオンハルトの名をかたるどこの馬の骨とも知れぬ男に返上するなどとほざき続けるというのなら――


 そこでぴたりと、ムスタファは足を止めた。

 彼の後ろから必死についてきていた補佐官の青年文官が、その太い背中に突き当たりそうになって慌てて立ち止まる。


(……しいするも、やむなしよ。)


 無論、今すぐにということではないが。

 老人は、脳裡に閃いたその恐るべき考えをじっくりと考えなおしてみるべく、また急ぎ足に、豪奢な敷物のあしらわれた王宮の広い廊下をずんずんと歩き去ったのだった。


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