第7話 提案


 翌朝。

 宿の寝台で目覚めたミカエラは、異様に機嫌が悪かった。


 勿論ファルコは、彼女のためにとった部屋でミカエラを休ませ、自分は隣の部屋で寝たのだったし、彼女に対して不埒な真似もいっさいしていない。

 なにより昨夜の記憶がないことがミカエラはことのほか不愉快らしく、じわっと目を細めて「本当になにもしてないでしょうね」と何度もしつこくファルコに訊いた。


「するわけねえだろ。未来の王妃殿下サマによ。レオンに殺されるっつうの――」

 そう言ったら、ミカエラの機嫌はますます悪くなったようだった。


(俺も大概、意地がわりいやね――)


 そんな風には思いながら、一筋も顔には出さずに部屋の入り口にもたれかかって腕を組み、ファルコはただにかにか笑っていた。

 やや前屈みの姿勢なのは、安宿の天井がどこも低くて、いつも額をぶつけないようにと気をつけなければならないからだ。


「それにしても、無敵の『風竜の魔女』さまが実は酒にはよええなんて、こりゃ口が裂けても言えねえやなあ?」

「……あなた、ほんっとに死にたいの?」

「いやいや。んなわけあるかよ。冗談、冗談」

 例によって今にも片手を上げそうにしているミカエラに、ファルコはすっ呆けた顔でそう言ったが、ふとあることに気付いて首をかしげた。


「そう言やあんた、こないだ屋敷で葡萄酒とか飲んでなかった……か? って、ああ――」


 と、ファルコがとあることに思い至ったところで、ミカエラがかっと目を剥いて本気でこちらに手を上げたため、男は早々に「降参」とばかりに顔の横に両手を上げた。

 女の顔が、みるみる赤く染まってゆく。

 

(うは。な~るほど……)


 ファルコはちょっと脱力した。

 どうやらあれは、いわゆる葡萄酒ヴァインではなくて、単に葡萄を搾っただけのものだったのであろう。要は、子供の飲むような果汁ザフトである。

 まあ、ミカエラがなりすましているところの貴婦人が下戸でなかったというならば、日常的に飲めるだけでもせねばならないのは分からなくもないけれども。


「……なによ。なにか言いたいことでも?」

 ミカエラの周囲の空気がどんどん温度を下げてゆくのがわかる。

「いんや? な~んにも?」

 一応、まだまだ命は惜しい。

 ファルコは必死に笑いを堪えながらも、ひくひくと腹筋を痙攣させつつ、何とかかんとか別の話題に話を変えた。


「んで、昨夜ゆうべの火竜のぼんぼんの話なんだけどよ。一応、レオンに報告したほうがいいんだよなあ?」

「ああ……」

 すこし頭痛でもするのか、ミカエラは解いた黒髪をかきあげるようにしながらちょっと眉間に皺をよせた。

 その仕草が妙に艶めいていて、ファルコはひょいと女から目線を外した。

「それは、そうね。そちらはわたくしからしておくわ」

 その男の名を出した途端、ほんの一瞬だけミカエラの目の中に閃いたものがあったようだったが、それはすぐにまた謎めいた瞳のどこかに隠されてしまったようだった。


「了解。んじゃ、宿代の清算、してくらあ」

 なんの含みもない声でそう答えて、ファルコはミカエラの部屋を出た。

 どうやらミカエラ本人は、昨夜の自分の醜態についてあまり覚えていなさそうである。


(はた迷惑な酒だぜ、まったく――)


 風竜国の王権を取り戻そうとしているあの男のことについて、あの女の胸中に随分とこんがらがった様々なものが渦巻いていることだけはよくわかった。

 が、とりあえず、だからといっていま自分がせねばならない仕事を疎かにする女ではないらしい。そこはまあひと安心というところだろう。


 しかし、ファルコももう気づいている。

 自分の中のどこかよく分からない場所に、何かをがっかりしている奴が存在することにだ。


「ちっ……」


 昨夜ゆうべから、そいつをちょっと持て余すような、臍のあたりがむず痒いような、変な気分がどうにも抜けない。

 が、ファルコはそれらを振り払うようにして一度ぶるりと頭を振り、べちべちと自分の両頬を叩くと、安宿の木造りの階段を軋ませながら、ぐいぐいと大股に下りていったのだった。




◆◆◆




 雷竜王、エドヴァルトがクルトたちのいる離宮にやってきたのは、それから数日後のことだった。

 彼はヤーコブ翁だけをその場に残して、あとの者らについてはすぐに人払いを命じた。それが内密の話の始まる合図であることは、クルトももうよく知っている。

 一同はすぐ、その場の応接の椅子に腰掛けて話を始めた。


「急にすまんな。今朝がた、レオン君から内密の便りが届いたんや。それも、ええっと――」

 エドヴァルトが珍しく、ちょっと言葉を濁したのを見て、クルトはひやりと嫌な予感に襲われる。

 その後を引き継いだヤーコブ翁の言葉は、案の定、クルトが心配したとおりのものだった。

「はい。ええ、その……例の『風竜の魔女』でござります。あの者が、手ずからレオンハルト殿のになる書簡を持って、いきなり陛下のもとに現れおったのでござりまする――」

「ええ……!?」

 クルトとカールは、ほぼ同時にそう言った。


 二人の話によれば、こうだった。

 あのミカエラが、その魔法の力を使って不意にエドヴァルトの執務室に現れたのだ。それはちょうど、それを見計らったかのように、その場にいた侍従やら召し使いやらが席を外した瞬間のことだった。

 女は適当に身をかがめて挨拶をすると、ごく素っ気無く「レオンハルトからでございます」とだけ言って、封蝋の施された書簡を卓の上に置いたかと思ったら、来た時と同様にすぐにその姿をくらました。


「……で、これがその手紙なんやけんどもな」


 言って、エドヴァルトが封の切られた封書を差し出してくる。

 ニーナがそれを受け取って、表書きを見た途端、一瞬だけ悲しげな目になったのをクルトは見逃さなかった。

 それは確かに、レオンの筆跡によるものなのだろう。


 渡された手紙を一読して、ニーナが見る見る驚いた顔になり、クルトもどきどきした。

「ね、なに? 何が書いてあるの、ニーナさん」

 そのまま手紙を渡されたけれども、まだクルトには十分に字が読めない。それで今度はカールがそれを手にとって、クルトにも分かるように読みあげてくれた。

 手紙の内容は、大体こんなことだった。



 このところ、ミカエラの尽力のお陰もあって、レオンたちの陣営には次々に現王権に不満を持つ貴族連中やら商人たちが秘密裏に集まってきているところだ。

 しかしながら、みな凋落した貴族などの集まりであって、手許は非常に不如意ふにょいの極み。

 そのためこのところ、いざ挙兵ということになった時のため、レオンたちは金策に走ることも多かったのだということだった。

 そしてあの土竜王バルトローメウスからは、秘密裏に援助をしようとの約束を取り付けるところにまで漕ぎつけた。


 しかしそこへ、思わぬ報せが舞い込んだ。

 それはなんと、あの火竜国ニーダーブレンネンの王アレクシスから、内々にこちら反乱軍への金銭的な援助を持ちかける内容の連絡だったのである。

 アレクシスの考えていることはある程度の予測はつくが、これはどうあっても雷竜王エドヴァルトに知らせておくべきことだと、あのレオンは判断したということのようだった。



「なんという……」

 ニーナは少し絶句したようになり、呆然とカールやクルトと目を見合わせている。

「せやろ? ほんま、何しくさっとんね〜ん! っちゅう感じやろ〜?」

 対するエドヴァルトはまた、なんとも軽い。

 もはや飄々としたような風情で笑っているばかりである。


「まあ、分かるんよ? 膠着状態やとは言うても、ウチと火竜はいま完全に敵対関係になってもうとる。火竜のぼんぼんは八年前、君んとこの水竜国にも一緒に攻め入ったわけやしな。そんでこのままレオン君が風竜王になってもうたら、自分わがとこやばいやんけ〜、ってなるんは当然やろし」

 けたけた笑いながら、エドヴァルトがクルトにも分かりやすいように解説してくれた。

「せやからまあ、ここでレオン君には恩売っといて、あとでウチとこに加勢すんのはナシにしてもらお、みたいなこっちゃろうね」

「はい……。そうだと思いますわ」


(ニーナさん……)


 隣から見ていても、ニーナの顔色は良くなかった。

 それはそうだろう。レオンのことのみならず、あのミカエラが易々とこの王宮に出入りして、こんな手紙を持ってきたというのだ。

 彼女にとって、ミカエラのことはもう、できれば思い出したくもないことに違いないのだから。


 そんな彼女を気遣うように、エドヴァルトは敢えて明るい顔と声音こわねで話をしているようだった。

「ほんでやね。レオン君がそないにも、資金繰りで困っとるっちゅうんなら、なんやったら雷竜国ウチからも、ちょっと援助せえへんかと思うとってやね――」

「えっ……。伯父様、それは……」

 ニーナが驚いて顔を上げる。

「ああ、いやいや。そらまあウチかて土竜王さんとこと同じおんなしで、あんましおおっぴらには出来でけしまへんけど。けどまあ、レオン君が正当な風竜国の王位継承者なんは事実なんやし。そこんとこの裏とるのんも、わりあい苦労しとるみたいやから、こっちもなんか、後押しできたらええなあとは思うとったんよ。これ、ホンマ」


 一気にそこまでしゃべってから、エドヴァルトは目の前に置かれていた自分の茶をぐいっとあおった。


「実際、レオン君はお爺様の、土竜王バルトローメウス公にも相談しとるらしいしな。あっこの王さんやったらきっと、レオン君の力にはなってくれはるやろ。せやからもう、できたらみんなして、『この子がほんまの風竜王やよって〜』言うて、ゲルハルト王に退位して貰うんが、まあ一番平和っちゅうか、一番血ぃ流れんで済む方法かなあち、思うちょるんよ――」


(えーっと……)


 相変わらず、あっちこっちの辺境の方言をごちゃまぜにしてしゃべる王であるが、まあクルトもそれには慣れた。

 つまりこのエドヴァルトも、バルトローメウスも、レオン側の後押しをしようとしてくれている。だからもうこれ以上、火竜王アレクシスが入り込める余地はないのだと、そうレオンに返事をしてもよいかどうかと、彼はニーナに問うているのだった。 


「皆様、レオンのためにそこまで……。有難う存じます――」

 ニーナが涙ぐみそうになりながら頭を下げようとすると、エドヴァルトは慌てたように顔の前で手を振った。

「いやいや。君に礼いわれることとちゃう。言うたやろ? ワシは八年前、君らにな〜んもしてやられへんかった。それに、レオン君はワシの大事な甥っ子みたいなもんやねんし。ワシらにしたかて、今のゲルハルト公やら、宰相のムスタファなんかと近所付き合いさしてもらうより、レオン君と仲良うやっとるほうがよっぽど平和やしねえ」

「伯父様……」


「ほな、ええね? ワシらちょいと、これから土竜王さんとこへも連絡入れてみるさかい。うまいこと協力してもらえそうやったら、こっからレオン君の負担、ものごっつ減らしてやれるかもしれへんよって――」

「はい。……どうか、どうか、レオンのこと、よろしくお願い致しますわ――」

 必死に頭を下げてそう言うニーナを、エドヴァルトのほうでもまた、「頭あげてえな」ととどめなくてはならなかった。


 クルトは隣のカールと目を見合わせた。

 なんだか、とても複雑な気持ちだった。


 ニーナはただ純粋に、レオンの心配をしてそう言っている。

 確かに、このまま風竜国内での紛争が勃発し、大きな戦いになってしまったら、反乱軍の首謀者たるレオンだってその命を危険に晒すことになる。だから、できれば内紛は起こらない方がいい。あるいはやむなく起こすにしても、それを最小限にとどめるだけの目処を立てておく必要がある。

 できることなら穏便に、ゲルハルトたちに証拠をつきつけ、理非を説いて、王権を本来の継承者であるレオンに戻させることができたら最高なのだ。


(でも……。)


 でも、彼がひとたび風竜王になってしまったら、レオンはあの不気味な魔女、ミカエラを正式な妻とすると言っていた。

 彼が王になればすなわち、もうこの先けっして、ニーナが彼の隣に立つ目はなくなるということなのでは――。


(それでいいのかよ……ニーナさん)


 胸の絞られるような気持ちでじっと隣から見上げても、ニーナの気高い横顔は、ただただ彼の身を案じ、エドヴァルトたちに彼のことを頼むという、その意思と感謝に満ちているだけに見えたのだった。

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