第10話 風竜国へ



 翌日。

 レオンはアネルと、そして同僚であるカールを伴い、風竜の国フリュスターンへ向けて出立した。

 水竜の衣装のままではまずいため、三人ともそれぞれに、国籍のわからぬような旅装に変わっている。

 とはいえ今は朝方のことで、例によってレオンはすでに黒馬の姿ではあるのだったが。

 馬のレオンにはアネルが騎乗し、カールは雷竜国で用意してもらった栗毛の馬に乗っている。


 ニーナとクルト、そしてエドヴァルト王とヤーコブ翁は、王城の入り口のところまで彼らを見送りに出た。

 ニーナは黒馬のレオンのそばに佇んで、しばらくの間じっと、彼と話をしていたようだった。他の皆は、二人の邪魔をしないように、少し離れたところからそれを見ている。

 彼女はあの「水竜の結晶」を、彼に半分ほど分けて持たせているらしい。それは「風竜の結晶」のように空間を飛び越える魔術には使えないが、こと、傷を癒すことにかけては五竜の中で最も大きな力をもつ品なのだ。


 黒馬の大きな顔に額をあてるようにして静かに佇んでいるニーナを、クルトはじっと見つめていた。

 この二人が離れることなんて、この八年、一度もなかったことに違いなかった。


「……では、そろそろ参りましょうか」

 控えめな様子でアネルがそう声を掛けて、ニーナはとうとう、黒馬のそばから離れた。最後にそっと、その顔に唇をつける姿を、クルトは意識的に見ないようにした。


 クルトも最後に、少しだけ黒馬に近づいた。

 いつもは「ふん」とばかりにそっぽを向くことの多い黒馬が、この時ばかりはじいっと、大きくて濡れたような、深い翠色を沈めた瞳でクルトを見つめてきた。

 それはさも、「姫殿下をよろしく頼むぞ」と言っているようだった。


「……わかってるよ、レオン。まかしとけ」

 そう言ってにっこり笑い、クルトは大きな馬の首に腕を回して、ぎゅうっとそこに抱きついた。

「頑張れよ、レオン。そんでもって、ちゃんと帰って来いよ……!」

 馬が温かく湿った大きな鼻面を、ぐりぐりと少年の顔にこすりつけた。



 黒馬に乗ったアネルと、栗毛の馬に乗ったカールの姿が王都の建物のあいだにまぎれて見えなくなるまで、クルトはずっと背伸びをしたまま、ぶんぶん手を振っていた。

 隣に立つ、蜂蜜色の髪をした美しい人は、悲しげな瞳はしていたけれど、それでも朝日がいっぱいの晴れ渡った空の下、毅然と背筋をのばし、ずっと黒馬の姿を見送っていた。




◆◆◆




(なんと……)


 雷竜国ドンナーシュラークに潜ませている密偵の一人からその報せが入ったのは、あの忌まわしい「火竜の檻馬車作戦」が失敗してから、半年ほど後のことだった。


 ゆるやかに編んだ白金髪プラティーン・ブロンデを流した文官姿の青年は、その密書をそっと火皿の上で燃やしながら、眉をひそめて物思いに沈んでいた。

 その報せとは、八年前、あの「蛇の港」において起こったを引き起こした竜の姫と、彼女とずっと行動をともにしてきた黒馬に変化へんげする青年とが、ここへ来て、とうとう別行動を取り始めたというものだった。


(とうとう……お二人が分かれられたか。)


 どういう理由でかは分からぬが、青年はその協力者らと共に彼の故国である風竜の国へ向かい、竜の姫を雷竜国の王に預け、その身柄の保護を頼んだものらしい。


(殿下……)


 主人あるじは勿論、この好機を逃すまい。

 これまで、あのお二人がひとつところにおられることで、手出しがしにくかったのは事実だった。まして二人は、この火竜の国からは遠く離れ、いつも雷竜や土竜の辺境にあって、おもにその山野を放浪し続けておられた。

 昼と夜とで姿が変わり、姫の方は魔力の強い竜に変化へんげされるということもあって、なかなか情報が掴みにくく、手出しもしにくかったのだ。


 それに、あの「風竜の眷属」となった女性の方でも、あの姫と剣士が一緒にいるうちは、あまり手出しをしたくない様子だった。彼女は、こちらがいくら水を向けても、協力することをのらりくらりとかわすばかりだったのだ。

 それは恐らく、竜に変化へんげした時の姫の力の程をまざまざと見せ付けられたという八年前の体験がもとになっているのだろう。逆にいえばそれほどに、竜になられた姫殿下の力は凄まじいということなのだと思われた。


 そして、正直なところ、自分はこの八年、彼女が非協力的であってくれたことで、心密かにほっとしてもいた。

 少なくとも彼女の協力なしには、そうそうあのお二方を追い詰めることは叶わなかったからだ。

 そして、その理由について殿下にも、「かの女性にょしょうがあまり乗り気ではないものですから」という、それなりの言い訳も立ったわけである。


 そのたがが今、遂に外されることになった。

 いまや、あの竜の姫は雷竜国の王に匿われ、風の王太子は故国へ向けて旅立った。

 わが主人あるじにとって、これ以上の好機はなかろう。


(しかし……)


 零れた前髪を物憂げにかきあげるようにして、青年は溜め息を漏らした。

 こうまでして、あの隣国の姫を手に入れても、恐らく主人あるじは満足することはない。かの御方の心にあいた大きな穴は、彼女が手に入ったからといって塞がるような類いのものではないからだ。

 まして相手は、高貴な矜持をもつ水竜の姫君である。

 そうそう、主人に媚びへつらうような、なまなかな精神おこころはお持ちではないはずだ。

 むしろそんなことをするぐらいなら、かの女性にょしょうは潔く死を選ばれよう。


(だから……無駄なのだ。)


 かの姫を手に入れても、主人には何の得にもなりはしない。

 いやそもそも、本当の意味ではそれは、決して手には入らないだろう。

 それどころか、かの御方はまたその胸の傷口を広げ、傷めて、より深い絶望を味わわれるに過ぎないというのに。


 だからといって我があるじをお諌めするほど、自分には凛々たる勇気もなければ、かの御方からの信頼もない。

 本来、まことに主人を思う臣下なのであれば、とうの昔に苦言を呈し、無意味な執着は捨てるようにと、むしろこれからの未来をご覧頂きたいのだと、かの御方に申し上げているべきところだけれども。


 自分程度の臣下など、あの方にはいくらでもいる。

 諫言などしてみたところで、即座にこの身は灰にされ、別の者がこの立場に据えられるだけのことなのだ。


 ……それだけは、どうしても嫌だった。


 死が恐ろしいからというよりは、ただもうほんの少しでもいいから長く、かの御方のお側にいたい。

 ただただそれがために、自分は必要な諫言をおこなうこともせず、おめおめとこの王宮で、この命を永らえている。

 主よりも我が身のことを考える、そんなことがあってよかろうはずもないのに。

 情けないとは思いながら、何をどうすることもできずに、自分はただ、この八年という歳月を過ごして来たのだ。


(殿下……。)


 自分には、この情報をあの王太子殿下にお伝えしないという選択肢はない。

 たとえ皆に緘口令を敷き、事実を隠蔽してみたところで、いずれは誰かの口によって、遅かれ早かれ殿下のお耳には入る話だ。

 それはそれで、自分の命が無意味に短くなるだけのことだから。


 これをお伝えすれば恐らく、殿下はあの女とまた連絡を取られよう。

 かの恐るべき魔女の協力があれば、姫を攫うなどはもはや、造作もない。

 そしてこの王宮に、あの身の毛もよだつようながある以上、今度は間違ってもあの姫に逃げられるというような、へまをすることも許されないのだ。


(……もう、駄目なのだ。)


 逃げ道はない。

 かの姫にも……自分にもだ。


 最後の最後、もうどうにもならなくなった時、自分はかの御方に、なにをして差し上げられるだろう。

 いったいどうすれば、かの御方のお心は救われるのか。


 今さら、命を惜しもうとは思わない。

 子供の頃、お救い頂いたこの命など、もとよりあの方のものなのだ。

 しかし自分が去った後、まだあの方のこの地獄のような苦悩が続くのだとしたら、それはやっぱり耐えられない。


(どうすればいいのだ……。どうすれば――)


 青年はしばらく沈黙したまま、自分の執務室で頭を抱えて座り込んでいた。

 が、やがて唇を噛み締めると立ち上がり、気の進まない足取りで、おのが主人あるじの居室に向かって、広く閑散とした王宮の廊下を静かに歩いていったのだった。


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