第5話 黒と翠の竜


 白き竜のニーナは、一直線に「彼」に向かって飛んだ。

 いや、正確には、その「彼」に与えたわが涙のある方角を目指して飛んだ。


 夜空はすでに、一面の竜の雲によって覆われている。

 その上に身を隠すようにして、風の父と土の父とが、その巨体をゆっくりとうねらせているのだということが、竜のニーナには明確に分かっていた。


 「彼」は、その父たちのもとにいる。


 と、突然、白き竜は自分の「涙」の存在がその場から消え去ったのを感じ取った。それと同時に、何かとても新しい、とある「存在」がそこに生まれいでたのを知った。

 それは、新しくもあったけれども、竜にとってはとても懐かしく、慕わしい色と匂いを帯びたものでもあった。


 竜は訝しく思いながらも、そのまま真っ直ぐに、新たに生まれたその「存在」のもとへと舞い飛んだ。



 天にある二頭の父たちが、ゆったりと下界のほうを見ながら、まるで水に遊ぶ生き物たちのように悠然と、空に身をうねらせているのが分かった。

 彼らの腹の下に「それ」を見つけて、白き竜はそちらへ進んだ。

 近づくにつれ、それがどうやら、自分によく似た生き物であることを竜は知った。


 土竜の父のようにも見える、黒い体躯。はがねの鱗は黒光りしながらも、光の加減でそれがときに、きらきらとみどりの色をはじくのだった。

 白き竜の瞳は碧瑪瑙の色をしているが、その竜の目は美しい緑柱石のような、翡翠の色を湛えている。

 そしてその目は、


 しかし、なんという精悍な姿だろう。

 黒き竜は、白き竜よりも少しいかつい姿をしている。飛膜に覆われた翼の鉤爪かぎづめや背中の棘などもより鋭く、全体に威風を感じさせる出で立ちだった。体を覆う鱗そのものも、丸みを帯びた白き竜のそれよりずっと鋭い形をしているようだ。


 しかし、当の黒き竜は、なんだかまだ意識がはっきりとしていないようである。「彼」はしばらく、ぼうっと空中を漂うようにしていたが、やっと周囲の様子に気付いたようにして首を上げると、こちらを向いた。


《……姫、殿下……?》


《……!》


 その思念に、白き竜は瞬間、痺れた。

 まるで、全身を雷に打たれたかのようだった。


《まさか……》


 あなたなの。

 ほんとうに、あなたなの……?



 そうして、また一直線に、その黒き竜へ向かって飛翔した。


 頭上の雲の中では、を終えた巨大な二竜が、ゆるゆると己が住処すみかへ戻ろうとしている。

 竜たちが引き上げるのに呼応して、空を覆っている黒雲が次第に薄くなってゆくようだった。

 やがて白き竜の頭のなかに、「彼」の父たちであるらしい、風竜神と、土竜神の声が轟きわたった。


《来たか。白き竜の姫よ》


は我らが息子である。竜なる者の先達せんだつとして、善き『導き手』の務めを果たせ――》



 白き竜は、去りつつある父竜たちの巨体を見送るようにしている黒き竜に、しばらくそっと寄り添うようにしていたが、そのうちに彼を促して、ゆっくりとその場で羽ばたいてみせた。

 そう、ちょうど、「行きましょう」と彼を誘うように。


 二竜は、その雲を突き抜けてさらに上へと舞い上がった。

 いや、「小さい」とは言っても、それはあの父竜たちに比べればの話に過ぎない。

 白き竜は今、かつてあの「蛇の港」を踏み潰した時と変わらぬほどの大きさになっているのだ。


 白き竜と黒き竜は、またたくまに雲の上に駆け出ると、眼下にその雲を見ながら悠然と、しばらくそこを飛び続けた。


 月と星だけの輝く、静かな音のない世界だった。


 白き竜は、まだ「よちよち歩き」と言ってもいい、生まれたての黒い竜に寄り添って飛びながら、さまざまなことを彼に教え続けた。

 そう、ちょうど、あの水竜神や雷竜神が、自分に教えてくれたように。


 竜の世界。

 竜の意識。


 宇宙そらの意味。

 命の意味。


 ……愛の、意味。



 二頭の竜は、ときに前になり、あとになり、

 上になり、下になりしながら、

 いつまでもその空を、仲睦まじく飛び続けた。




◆◆◆




 その夜、アレクシスは、はるか東方に巨大な竜の意識を感じて目を開けた。

 夜ではあるが、寝台の上にいるわけではない。

 普段から、この時間帯には書類に目を通したり、剣術の鍛錬に励んでいることも多いからだ。

 火竜の眷属となって以来、さほどの睡眠は必要ではない。だからまるで只人ただびとのようにして、夜になれば暢気のんきに自分の寝室にいるだけなのも、むしろ退屈なばかりなのだ。


(なんだ……!?)


 竜の意識は、複数あるようだった。

 巨大なそれは、自分の「親父どの」火竜神のものに匹敵する存在感を放っている。

 そして。


 やや小さなふたつの「意識」が、まっすぐにこちらの国に向かってくるのを感じた。


(……もしや。)


 それは、直感といっていいものだ。

 しかし、その時点ですでにアレクシスは確信していた。

 がここに、やってこようとしているのだと。


 即座に自室から飛び出す。

 もとより、夜着などは着ておらず、いつもの軍装姿だ。

 点々と灯火のともった廊下を駆け抜けながら、そこにいた衛兵の一人に「ヴァイスを呼べ」と下知し、そのまま火竜宮の中央部にある高い尖塔の上へ駆け上がった。


 どどどど、と足許の地面が揺れている。

 さほどの大きな揺れではないが、アレクシスには火を見るより明らかだった。王宮の部屋の各所から、「何事だ」「地震だぞ」と兵らの声があがり、みな慌てたようにして姿を見せはじめている。


(神竜どもめ――)


 東方で、まさに今、神竜たちが目を覚ましている。

 この大地の鳴動は、火竜神が目を覚ました時とそっくりだった。


 そして、やつらが目を覚ましたのだとすれば。


(『祈願の儀式』が行なわれたか――)


 螺旋状になった石段を駆けのぼり、何十ヤルドもの高さの尖塔の突端へとたどり着いて、はるか東方に目をやる。

 勿論、肉眼で見えるものはほとんどない。

 広大な五竜大陸、しかも間に雷竜国ドンナーシュラークを挟んでいるのでは、見えるものなどあるはずがなかった。しかし。

 はるか東方、その空に、不気味な黒雲が湧き立っているらしいことだけはどうにか視認することができた。まあそれも、この眷属としての魔力あってはじめて見ることができるものだろう。只の人間がそちらを見ても、ただの夜空が広がっているとしか思わないのに違いない。


「……陛下、いかがなさいましたか」


 背後から、階段を駆け上ってきたらしいヴァイスの、息を切らせた声がした。

 彼は夜着の上に長いガウンを羽織った姿である。彼の後ろからは、護衛兵数名がついてきていた。

 アレクシスは若き宰相の声には答えず、じっと東方をその紅に光る竜の瞳で睨んでいた。


 やがて。


 脳内に、覚えのある男の声が響き渡った。


《アレクシス。……聞こえるか》


「貴様――」


 アレクシスは、かっと目を剥く。

 その声は、かつて自分の手から水竜の姫を奪い、その目をひとつに欠けさせてやった、黒髪のあの男の声だった。

 不思議なことに、奴の気配は自分たちの頭上にあった。

 いったいどういうことなのか。

 奴はどうやら、自分たちのこの王国の上を舞い飛び、こちらを睥睨へいげいしているらしい。

 アレクシスは、ぎりっと奥歯を軋らせ、腰にいた長剣に手を掛けた。


「どういうつもりだ。断りもなく他国に侵入するとは。無礼の段は許さんぞ」


 答えながらも脇を見やれば、ヴァイスや衛兵たちの顔色から、彼らにもこの声が届いているらしいと判断できた。


「それとも、ご丁寧にもう片方の目も俺に捧げに来たのか? それなら、望むところだぞ」

 声と思念に、存分に嘲りをまぶして言い放つ。

「相手をしてやる。顔を見せろ」


 アレクシスがそう言った途端だった。

 塔の周りを、ごうっと一陣の風が吹き抜けた。

 それはちょうど竜巻のようにして塔全体を包み込み、周囲の砂などを巻き上げるようにして、外界と塔とを遮断したように見えた。

 塔を取り巻く宮殿と、その周囲に広がる王都からは、こちらは見えなくなっているのに違いなかった。


(なに……?)


 思わず片腕で顔をかばうようにしていたアレクシスは、その風の唸りの中、姿を現したものを見て愕然とした。

 背後にいるヴァイスと衛兵たちも、声をなくして戦慄している。


 いま、この塔の周囲を、ゆっくりぐるぐると回る巨大な生き物がいた。


 白き竜と、黒き竜。

 二頭の竜の瞳がいま、じっと塔の中にいるアレクシスを見つめていたのだった。

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