第8話 哄笑 ※
意識を取り戻したアルベルティーナは、思っていた以上に気丈だった。
勿論、体力的にも精神的にも、大いに打撃を受けていらっしゃるのは一目瞭然だったけれども、それでも姫は、決してひどく泣き喚いたり、周囲の者たちに当り散らしたりなどはいっさいなさらなかった。
さすがに、あの輝くような笑顔はすっかり
彼女付きの侍女などは、それがもうとても側で見ていられないらしく、お
まだ十分に体調の戻らないレオンは、最初に一度だけ彼女を見舞いに行ったあとは、歯がゆい思いを抱えながらも、自分の天幕でそんな話をカールから聞くことしかできなかった。
姫の体調の戻られるのを少し待ち、あの「水竜の祈願」の一件から五日ほどしてから、一向は暗い気持ちを抱えたまま、王都への街道をゆるゆると戻り始めた。
もちろん、ことの顛末についてはすぐに王都のミロスラフ王へ伝令の者を走らせている。
愛する王妃殿下のご最期についての知らせを聞かされた陛下のお気持ちを思えば、そちらへ戻る一同の気が塞ぐのも致し方のない話だった。
◆◆◆
さて。
その異変が起こったのは、野営地を発して、ほんの三日ほど後のことだった。
来るときにはご自分の白馬に騎乗してのことが多かったアルベルティーナ姫は、医師でもあるアネルを初め、侍女や近衛隊隊長の将校らの勧めもあって、帰りは侍女らと共に箱馬車に乗っておられた。
近衛隊はその前後左右を囲むように、みな騎馬でそれにつき従っている。レオンも勿論その中で、自分の栗毛の馬に騎乗していた。
山越えをする途中には、特に注意を要する地点がある。そこはもともと岩が多く、暗い森の木々に遮られ、見通しの良くない場所だった。ここはその地形の特性もあって、普段から特に山賊などへの注意も必要な地域であるため、皆も弓矢などがすぐに放てるように用意をし、警戒を怠らずに進んでいたのだったが。
昼餉の休憩を終えて出発し、岩のごろごろした曲がりくねった山道をなにほども進まぬうちに、突如、目の前の大木が一気に燃え上がって、皆は瞠目した。
大木はあっという間に輝くような火柱となって天へ向かってどす黒い煙を巻き上げた。
「止まれ! 周囲を警戒! 姫殿下をお守りせよッ!」
隊長である上級将校が即座にそう叫び、近衛隊の士官らは一斉に、弓を手にしたり長剣を抜きつれたりして身構えた。
アネルを初めとする魔法官らは、いそいで姫の乗る馬車の側へ馬を寄せ、ひとかたまりになって武官らの囲みの内側に入る。
レオンとカールは近衛隊の中でも比較的階級の低い武官であるため、下馬して騎乗した兵らの前へ出、剣を抜きはなち、敵に備えた。
隊長の命令により、武官二名が斥候に立ち、そろそろと周囲を警戒しつつ、まだぱちぱちと燃え上がっている前方の大木へと近づいた。
その瞬間。
「がああああッ……!」
先に立って歩いていたその武官の一人の体が、先ほどの大木と同様、いきなり火だるまになって燃え上がった。彼は悲鳴をあげ、しばらく地面を転げまわったが、後ろにいた同僚の兵が何もできずにいるうちに、やがて静かになり、絶命したようだった。
ぶすぶすと燻る嫌な音とともに、周囲を肉の焦げる臭いが満たす中、一同は呆然と、しかし必死に周囲を見回しながらそこに立ち尽くしていた。
(火の、魔法か……? まさか――)
レオンは、非常に嫌な予感に捉われた。
火の魔法。そして、この水竜の国のど真ん中での、この恐れを知らぬ所業とくれば。
そこから導き出されるのは、今のこの時、考えうる限り、最悪の相手の出現だと思われた。
しかし、そう思考しかけた次の瞬間には、いま最も見たくなかった青年が、皆の目の前に現れていた。
「あまり不用意に近づくな。見ての通りだ。火傷程度では済まぬことになるぞ、水竜のクソ虫どもよ」
せせら笑うような、その声音。
にやりと跳ね上がった口許に、ぎらつく獣のような、金の虹彩を浮かべたその瞳。炎の燃え盛る色をした短髪に、白地の軍装、真紅のマント。
その整った容貌もあいまって、彼の出で立ちそのものは、まさに皮肉なまでに美しい貴公子のそれである。
しかし、その中身はといえば、その容姿とは裏腹に、恐るべき怨念と執着の、
(アレクシス……!)
レオンは、ぎりっと奥歯を鳴らした。
冷酷無比の、隣国、火竜の王太子。
いまこの場にいきなり現れたその目的は、皮肉な言い方ではあるが、まさに火を見るよりも明らかだった。
そして、姿こそここには見せていないが、彼がここに突如として現れたその背後には、風の魔法の存在があるのは明白だった。
(ミカエラめ、やはりか……!)
二竜の眷属が結託したことは、もはや間違いないようだ。
だとすれば、ただ人である自分たちが、彼らに対抗する
レオンは瞬時にそう見て取って、馬上の隊長に向かって声を上げた。
「隊長! 速やかに撤退を! 奴は、火竜の眷属です。姫をお守りして、ここはどうか、お下がりを!」
「な、なに……!?」
隊長はさっと顔色を変えたものの、さすが近衛隊の指揮を拝命した人物らしく、ひどく慌てる様子もなく、瞬時に判断を下したようだった。
「よし! 姫殿下をお守りしつつ、退け、退けェ!」
隊長の下知を受け、兵らははっと我に返ったようになり、姫の乗る馬車を囲むようにしながら、じりじりと後退を始めようとした。
と、レオンらの声を聞きつけたらしく、馬車の側面扉を少し開け、アルベルティーナ姫が顔を出した。
「火竜の……と言いましたか? レオン――」
その顔は、蒼白に固まっていた。己が馬に騎乗してそちらに近づき、レオンは大きく姫に向かって頷いた。
「は。どうか、中へ。お顔をお出しにならないよう――」
今、あの王太子に姫の顔を見せるのはまずいと思った。それで逆上して判断を誤ってくれるような男なら寧ろくみし易いというものだが、あいにく、相手はそこまでの馬鹿ではない。
が、後退を始めた隊の周囲に、突如、次々と木々の火柱が立ち上がり、退路をすっかり塞がれてしまった。
炎は木から木、そして下生えの潅木などにまで燃え移って、このままでは山火事を引き起こしかねない火勢である。
「むうっ……!」
隊長が、馬上で悔しげに唸ったとき、背後、驚くほど近くから、不気味な王太子の声がした。
「そこにいたのか。わが妻よ」
(…………!)
レオンは、こんな火に囲まれた状態でありながら、冷水を浴びせられたような気持ちがした。
王太子は無造作な足取りで、馬車を囲んだこちらの隊の、もう目の前にまで迫っていた。火の粉を含んだ風に煽られ、紅色のマントがばたばたとはためいている。
「出てくるがいい、水竜の姫。そなたの夫が、わざわざこんな辺境の奥地にまで、迎えに来てやったのだぞ」
レオンをはじめ、傍に居たカールも、他の武官らも、次々に自分の得物をその不気味な生き物に突きつけた。また、アネルを初めとする十名ばかりの魔法官らも、手に手に水竜の結晶を乗せ、いつでも魔法攻撃や水竜の盾を作り出そうと待ち構えている。
が、当の王太子はこちらのことにはてんで無頓着で、兵や魔法官らに目を向ける様子すらなかった。
人ならざる生き物としての禍々しい気を全身から立ちのぼらせつつ、一歩、また一歩と馬車に近づいてゆくアレクシスのその顔には、明らかに狂気めいた笑みが張り付いている。
「どうするのだ? 水竜の姫。俺がいま、腕をひとふりするだけで、貴様のまわりの武官どもは一瞬にして灰になるぞ。……まあ、俺はそれでも構わんが」
(…………!)
レオンは、目を見開いた。
「いかん」、と思った。
王太子は明らかに、姫の周りの兵らや魔法官たちの命を盾にしている。つまり、彼らに手出しをさせたくなければ、姫が一人で、大人しく出て来いと言っているのだ。
「なんなら、貴様の目の前で一人ずつ焼き殺して見せようか?」
アレクシスの声が、不意に嘲笑の度合いを増した。
「ああ、しかし、そなたの父は、可愛い愛娘のためならば、あの『蛇の港』にいた小虫ども千二百匹の命すら、見捨てるような男だったな。これは失敬――」
「な、……に?」
隊長や他の兵らがその言葉を受けて怪訝な顔になる。
無理もなかった。
王家同士でそういった話になっているということは、まだ一般の兵らには知らされていない。
動揺を隠せないでいる近衛隊の兵士らを嬲るような声音で、アレクシスは言い募る。
「『あの親にしてこの子あり』か。さすがはその娘御だ。いまさらここにいる五十匹程度の小虫ことなど、自分の身の安寧のためならば平気でお見捨てになるというわけだな。腐った女よ……!」
アレクシスはさも楽しげに、そこで哄笑して見せた。
「貴様っ! 陛下と姫殿下を、愚弄するかッ……!」
と、かっとしたように一人の武官が、持っていた大弓から矢を放った。止める
が、アレクシスはひどく面倒そうな顔をしただけで、手のひらをひょい、と軽く動かしただけだった。
彼を襲ったはずの矢は空中で燃え上がり、灰すらも残らずに消えうせた。そればかりか、矢を放ったその武官も、馬ごといきなり炎に包まれて燃え上がった。
「ぎゃあああああ――――っ!!」
馬と人の凄まじい断末魔の叫びが起こり、周囲の兵らは思わずそこから後ずさった。
武官は馬ごと真っ黒に焼け
「おのれッ……!」
レオンの中で、なにかが爆発した。眼前が真っ赤に染まり、腹の底から燃え上がるような何かが噴出した。
近衛の皆は、カールのみならず、みなこれまで寝食を共にし、剣の稽古や鍛錬に励んできた、レオンの大切な同僚である。いま殺された男にしても、レオンと普段からごく親しく話もし、励ましあいながらここまで働いてきた、大事な仲間に他ならなかった。
彼らの結束は、水竜国軍の隊内でも有名なほどに親密なものなのだ。
レオンは長剣を手に、王太子に向かって突進しようとした。
他の兵らも同様だった。
しかし。
「やめてっ! やめなさい、レオン……!」
背後から鋭い声が掛かった。
アルベルティーナ姫だった。
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