第9話 跳躍
「やめてっ! やめなさい、レオン……!」
鋭いアルベルティーナ姫の声が掛かって、今にもアレクシスになだれ掛かろうとした近衛の兵らは、レオンも含め、ぴたりとその場に馬を止めた。
やがて、馬車の扉が開き、姫殿下がそこから地面に降り立った。
姫は、真っ青な顔色ではあられたものの、それでも毅然とした様子を崩さなかった。
その碧い瞳は爛々とした光を湛えて、決して敗者としての色などなかった。
(姫殿下……!)
レオンは愕然として、その神々しいほどに美しい若き姫の姿を見やった。それは、他の兵らや魔法官、召使いもまったく同様だった。
「用があるのは、わたくしにでございましょう、アレクシス殿下。他の皆には、お手だし無用に願いますわ」
姫の声は、むしろ静かで優しく聞こえるぐらいに落ち着いていた。しかし対するアレクシスは、皮肉まみれの笑みを少しも崩す様子はなかった。
「ほう。いい心掛けだな。さすがは水竜国、王族の姫君であらせられる。これでここにいる虫どもは、命を拾ったというわけだ――」
くくく、とさも楽しげに喉奥で含み笑っている。
「まあ、そろそろ潮時だ。あまりここいらで騒いでは、そちらの
すう、と片手を差し伸べている。
アルベルティーナがひとつ、深く息を吸い込んだようだった。意を決したように唇を噛み締めて、一歩、そちらへ踏み出す。
「いけません、姫殿下っ……!」
レオンがアレクシスに向かって白刃をかざしたまま、ずいと彼女の前に立ちはだかった。
ここで彼女を連れて行かれたら、すべての努力は水の泡だ。
こんなことを許したら、彼女の母、王妃ブリュンヒルデ様が祈願のためにその尊いお命を儚くされたことすら無駄になってしまうではないか。そのようなこと、決して許すわけにはいかなかった。
「そうですとも、姫殿下!」
「姫殿下……!」
カールやアネルをはじめ、他の近衛兵や魔法官らも次々にレオン同様、アルベルティーナを護るようにしてその前に集まり、王太子に向かって剣をかざしたり、竜の結晶を向けたりしている。
「やめなさい、レオン。皆も、いけません……!」
姫が鋭くそう言って、レオンの肩に手を掛けた。
と、アレクシスが、何故か金色に輝く竜の
「『レオン』……。そうか、やはり貴様が――」
そうして、にやりとさらに口角を上げる。
それはまさに、爬虫類が笑ったかのごとき、心胆の冷えるような
「正体を知らされていなければ、今ので
嘲笑う調子でそう言われ、レオンは怪訝な顔になる。
(許婚、だと……?)
背後のアルベルティーナも、はっと何かに気づいて身を硬くしたようだった。
周囲の人々について言えば、アネルはぎくりと表情を強張らせ、カール以下の近衛兵らは王太子の「正体」うんぬんの言葉に対して不審げな顔を見せていた。
アレクシスは、自分に対して突き刺さってくる眼前の兵どもの殺気などどこ吹く風といった様子で、ひょいと視線を脇へそらした。
「行くぞ、風竜の魔女。あまり長居などしては、こちらの
そうして片手を軽く上げ、指先を傾けて何か合図をしたようだった。
途端、出し抜けに、周囲をごうっと嵐が襲った。
「うわっ……!」
兵や魔法官らは、思わず顔を庇って腕をあげた。
いまだ燃え盛っている木々の枝から、吹き散らされた火の粉が空へ舞い上げられ、青かったはずの空を黄土色に煙らせてゆく。
びゅうびゅう、ごうごうと雨粒をふくまない竜巻のような嵐が過ぎ去ったとき、そこにはもう、あの不気味な瞳の王太子も、姫殿下も、そして彼女をかばうようにして立っていた武官レオンの姿も消えていた。
彼らの立っていた場所にはただ、最後にくるくると燃え残った木の葉が舞っているだけだった。
「レオン……! 姫殿下……!」
アネルはきょろきょろと周囲を見回し、声を限りに叫びながら、しばし
カールも、そのほかの近衛兵らも同様である。
しかし、彼らがどんなに周囲を探し回っても、ついに彼らの姿を発見するには至らなかった。
姫付きの侍女の少女はその事実を知って卒倒し、召使いらも立ち竦んで、蒼白になった互いの顔をおどおどと見合わせていた。
アネルと魔法官たちは、そのままではひどい山火事を引き起こしかねない火勢を見て、水竜の結晶を用いての消火活動に当たりはじめ、それを終えるとすぐ、国王陛下にことの顛末をお知らせするべく、急ぎ王都へ戻って行った。
◆◆◆
レオンとアルベルティーナには、一体何が起こったのかもよくわからなかった。
火竜の王太子が合図を送ったかと思った途端、二人の体はいきなり空中に放り出されたようになって、足許から地面の感覚が消えていた。
強風に煽られたと思った途端、レオンの手から長剣がもぎとられ、どこかへ飛んで行ったようだった。
「…………!」
レオンは反射的に姫殿下の体を両腕に抱きこんでお守りし、その頭を抱え込んだ。
これまで感じたことのない浮遊感が体全体を包んで、ひどく心もとない感じがした。
アルベルティーナ姫も思わずレオンの体にしがみつくような格好になって、必死に悲鳴を堪えている様子だった。
どのぐらい、そうしていただろうか。
体ごと振り回されるような気持ちの悪い浮遊感からいきなり解放されたと思ったら、次には背中にひどい衝撃が襲ってきた。
どうやらアルベルティーナ姫を抱いたまま、レオンは背中から地面に叩きつけられたらしかった。痛みに体を強張らせながら、レオンは腕の中の姫に言った。
「姫殿下。大事ありませんか」
「え……ええ。大丈夫――」
そうは答えてくださったものの、姫の声は苦しげだった。
「いい加減、離れなさいよ。泥棒猫」
突然、頭の上から冷たい声がした。
「それは人のものだって、何度言われればわかるのかしら」
はっと目を上げれば、菫色の瞳のまんなかに、やっぱり金色の竜の印を浮かべた黒髪の女が忌々しげな貌をしたこちらを見下ろしていた。
「まったく、いいご身分ね。いつでも男に守ってもらって、さぞやいい気分なことでしょう。でも、残念ね。そんなご身分とも、今日限りでさようならよ――」
「ミカエラ……!」
レオンは姫殿下を助け起こしながら立ち上がると、濃い緑色のドレスに黒いマント姿のその美少女を睨みやった。
「貴様……アレクシスと――」
「あら、いやだわ。レオンハルト様」
ミカエラは不快げな目でレオンを見返し、鼻を鳴らした。
「さきほど、火竜の王太子殿下がおっしゃっていたでしょう? わたくしがあなたのことをちゃんとお話ししていなかったら、あなたは今頃、もうこの世の人ではなかったのよ?」
それは要するに、「もっと自分に感謝しろ」という意味であるらしかった。
その言を聞く限り、姿を見せてはいなかったものの、この女もどうやらあの場でちゃんと事態を観察していたということのようだった。
レオンは奥歯を噛み締め、眉を顰める。
もはや今さら、この女に何を言っても、どんな言葉も通じないことは理解している。とは言え、許されるなら、言葉を尽くして非難したいのは山々だった。
この女が火竜の王太子に
いかにかつて、この女が他者から踏みにじられ、ひどい扱いをされ、苦悶の経験をしてきたのだとしても、だからといってその恨みを晴らすため、無関係かつ
(……いや。そんなことはない――)
レオンは姫殿下の肩を隣で抱くようにしたまま沈黙し、ちらりと周囲の景色を見やった。
(…………!)
腕の中の姫も同様に、周囲を見回して呆然としている様子だった。
いま立っている場所は、どうやら巨大な石造りの防壁の上にある通路のようだった。幅だけでも五ヤルド(約五メートル)ほどもあり、縁は腰あたりまで石壁が積み上げられたつくりである。
少し目を上げると、その先の光景が目に飛び込んできた。
「ここは――」
レオンも、姫と同様に言葉を失った。
眼下に広がるのは、この防壁でぐるりと周囲を囲まれた巨大な街だった。
いや、かつて街だった場所だった。
元は民家だったのであろう、石造りの平屋や二階建ての建物に、日々にぎやかに
しかし、そこはすっかり以前の姿からは様変わりしてしまっていた。
蹂躙され、燃やし尽くされて、人の気配はほとんどない。よく見れば、自分たちが立っているこの城壁も、北側の一部が大きく崩されているようだ。
周囲には茫漠とした風が吹き渡り、壊された家の木片やなにかがからからと転がってゆく。荒れ果て、寂さびれ果てた無残そのものの街の様子が、いま二人の目の前に広がっていた。
「まさか、……ここは」
震える姫のその言葉に答えたのは、例の嘲笑うような青年の声だった。
「その通り。まこと便利なものよな、『風の魔法』は。一瞬にして、水竜の奥地からこの『蛇の港』へひとっ飛びとは――」
アレクシスが、ちょうどミカエラとは反対側、レオンとアルベルティーナ姫の背後に立って笑っていた。
「………!」
レオンが目を見開く。
(ここが……あの『蛇の港』だと?)
姫の肩を抱くようにして、改めて防壁の上から下を見下ろし、レオンは再び絶句した。
確かに、見る影もなく壊され、燃やされた残骸のように見える街並みは、以前に見たことのあるものだった。
それが証拠に、その先、街の南側には、もとは水竜のものだった大きな軍港と、「蛇の尾」に続く青い海の広がりが見て取れた。
と、二人をじっと見ていたらしいアレクシスが、意味ありげな笑みを浮かべ、片手を腰にあてたまま言った。
「ここからではよく見えまい。せっかくここまで来たんだ、残った捕虜の顔ぐらい、拝んで行ってやれ、水竜の姫。まだ、千名ちょっとは残っていよう」
くい、と街の中へ向かって顎をしゃくる。
「明け方にはまた一人、疫病で死ぬ予定にはなってるがな」
「……!」
レオンとアルベルティーナがはっとしてそちらを見返すと、王太子はさらににかりとその笑みを深め、紅のマントを翻した。
「ついて来い」
そうしてあとは後ろも見ないで大股に防壁の降り口に向かってゆく。
レオンとアルベルティーナは一度顔を見合わせた。
レオンは姫とあまりに近いところに立って、ほとんど彼女の体を抱くようにしていたことに今さらのように気付いて、はっと手を離した。
それから、二人はアレクシスの後を追うようにして歩き出した。
憎々しげな目をしたミカエラが、いかにも不満そうな顔で、石畳の上に高く靴音をたてながら二人の後をついてきた。
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