第8話 白皙の青年 ※



 クルトはそれでも、数日はその「箱」の中で耐えた。

 しかし、限界はすぐにやってきた。


 ずっとニーナに抱きしめられたまま、クルトはもうほとんど目も見えず、体じゅうに奇妙な瘡蓋かさぶたが現れて皮膚が赤紫や青紫色に変色し、呼吸をするのも困難になっていた。


 ニーナはずっと、箱の外に向かって声をあげ、「どうかこの子だけは許してあげてください」と訴え続けていたのだったが、アレクシスが去って以来、外からはもうなんの返事も聞こえなかった。

 向こうは飽くまでも、ニーナのを待っているようだった。つまり、ニーナみずから、「アレクシスのものになる」と宣言するばかりでなく、それどころか「どうかして下さい」という懇願の言葉をだ。

 しかもアレクシスは、あろうことかこの誇り高い一国の王女たるひとに向かって、閨であの男に媚びを売り、痴態を見せ、自ら足を開いて見せろとまで言った。


 さすがのニーナでも、二つ返事でそんなことはとてもうけがうことができなかったらしく、これまでのところ、「他のことならなんでもしますから」と言いながら、必死にクルトの助命を願い続けているのだった。


(ニーナ、さん……)


 どのぐらいの時間が経ったのか、クルトにはもうわからなくなっている。

 もしかしたら、ほんの一日ぐらいのことかもしれない。いや、もしかしたら三日も四日も経ったかもしれなかったけれど。

 ただもう全身が火のように熱くて、苦しくて、ずっとひどい吐き気と頭痛に苛まれ続け、ほとんど意識も朦朧としている。


「だめ、……だよ、ニーナさん……」

 掠れきった声で、どうにかこうにかそう言ってみる。

「俺、大丈夫、なんだから……」

 そして、うまく出来ているかどうかわからないけれど、にいっと笑って見せたつもりだった。


 そうだ。

 そんなこと、この人にさせられるわけがない。

 だってそれは、レオンに対する裏切りだ。


(だって、俺……約束したんだ。)


 非力だとは分かっていても、それでもレオンは、この人のことを自分に預けてくれたのだ。

 「どうか彼女を守って欲しい」と、あのレオンがこんな餓鬼に頭を下げて、まっすぐに頼んでくれたのだから。


(俺の、せいでなんて……、ぜってー、イヤだ……!)


 そんなことになるぐらいなら、いっそこのまま死んだほうがマシだと思う。

 自分のせいでニーナがアレクシスのものになるなんて、絶対に耐えられない。

 第一、レオンにどんな顔をして会えばいいのか。


 ふと気付くと、顔の上にあたたかいものがぽとぽと落ちてきていた。

 ここしばらく、時々感じる温かい雨。

 その雨が自分に降ってくると、不思議と体が楽になった。

 それが誰の目からこぼれているものかは分かっていたが、クルトは黙って、ただ気付かない振りをしていた。


 胸が苦しい。

 頭が痛い。

 体じゅうが、ひりひりする。


(……死にたくない。)


 死にたくはないけれど、このまま自分が生きていれば、どう考えてもニーナの迷惑になるのは間違いなかった。


 本当は、クルトもだいぶ前に、「このままニーナさんの足手まといになるぐらいなら」と、思いあまって短剣を自分の首に当ててしまったのだった。だが、ニーナがはっとしてそれを叩き落し、遠くに跳ね飛ばしてしまったのだ。


「そんなことは、許しません……!」


 そう言って、ニーナはただもうぽろぽろ泣いた。


「ごめんなさい、クルトさん、ごめんなさい……」

 と、ずうっと同じことを言い続けて。

 以来ずっと、彼女はぐったりしたクルトの体をずっと抱きしめたままなのだ。

 きっと自分が、またあの短剣を取りに行くことを心配してのことだろうと思う。

 そんなことをしなくても、もうほとんど体を動かすこともできないのに。


 と。

 ぐぐぐ、と腹と胸から何かがせりあがってきて、クルトは思わず口に手をあてた。

 次の瞬間、熱いものがごぼっと口から噴きあがった。


「……!」

 ニーナがひどく驚いたのが、抱かれた腕から伝わってきた。

 周囲を、鉄錆の臭いが取り巻いた。


「クルトさん……!」


 絶望的な声で、ニーナがそう叫んだときだった。

 こつりと静かな音がして、誰かが近づいてくるような気配がしたかと思うと、次にはもう、クルトの身体はひょいと持ち上げられたようだった。

 そうして、なんだかとても静かな、優しい男の声がした。


「……ご心配なさいますな、姫殿下。どうか、お任せくださいませ」


 そしてそのまま、クルトには何も分からなくなってしまった。




◆◆◆




 次に目を覚ましたときには、不思議なほどに身体は楽になっていた。


(な……んだ……? ここ――)


 すぐに飛び起きようとして、クルトは自分の体がひどく重いことにびっくりした。

 起き上がろうと腹に力を入れたのに、ほんの少し上体を浮かせただけで、ぽすんと元通り仰向けに寝具に沈み込んでしまう。

 随分と、柔らかい枕に頭を乗せているようだ。そればかりでなく、寝具も着ているものも柔らかくてさらさらしていて、とてもいい匂いまでした。


 寝転がったまま、恐る恐る周囲を見回してみると、そこはいつもレオンと泊まっていたような、ごく小ぶりの部屋だった。ただし、調度類はそうではない。

 見るからに値の張りそうな布地や木材がふんだんに使われた、高級な設えの部屋だった。とはいえ、ただの片田舎のガキにすぎないクルトには、それがどれほどの価値のあるものなのかは分からない。

 部屋にはクルトの寝ていた寝台のほかに、小さな卓と椅子が置かれているだけだった。


 クルトはのろのろと、いう事をきかない体を引きずるようにしてやっと起き上がり、寝台から下りようとした。

 と、がちゃりと金属の音がして、じゃらじゃらと別の音が続いた。

 なんとなく片足に違和感を覚えてそっと上掛けをめくってみたら、すとんとしたかぶりの夜着の裾から見えた足首に、大きな鉄の輪が嵌められているのが分かった。そこに太い鎖がつけられていて、だんだん目でたどっていくと、その端は部屋の隅、床に程近いところに嵌め殺しになっている太い鉄の輪につながっていた。


(なんだよ、これ……)


 すうっと胸の底が冷たくなるような感覚がして、クルトは寝台に座り込んでしまった。

 どうやらこれは、「助かった」と言えるような状況ではないらしい。

 体のほうは随分と楽になっているけれど、だからといって自分もニーナも、決して自由になった訳ではないのだ。

 何となく足をぶらぶらさせてみたら、じゃらりじゃらりと、鎖が剣呑な音を立てた。


 ちらりと見れば、高い所にある小ぶりの窓には、思ったとおり、嵌め殺しらしい鉄の柵が見えている。

 いわゆる牢ほど厳しいやりかたではないだけで、やっぱり拘束されているには違いないということだった。


 と、扉を控えめに叩く音がして、音もなくそれが開かれた。

 クルトはびっくりして一瞬身を竦めたが、そこから現れた濃い赤紫色の文官服の青年を見て、こんどは違う意味で固まった。

 土竜国ザイスミッシュではまずお目にかかることのない、なめらかな白金髪を長く伸ばした青年は、それを緩やかに顔の横で編んで胸のほうに垂らしている。瞳はごく優しい桃色で、それもクルトにとってはとても珍しい色だった。

 そしてなにより、仕草といい白くて整った顔立ちといい、この青年はとても品がよくて美しかった。

 男性だということは分かるのだったが、それにしても、彼はその辺にいる「美女」と呼ばれる女たちより数段美しいのではないかと思うほどの姿だった。


「…………」

 クルトが絶句して相手を凝視していたら、向こうは向こうで、ちょっと困ったような顔でクルトを見下ろしていたようだった。

 が、やがて手にしていた盆を卓の上に置くと、静かな足取りでクルトの方に近づいて来た。

 クルトはまた驚いて、慌てて寝台のうえをずりずりといざったが、そのうちに鎖が伸びきって、それ以上は逃げられなくなってしまった。

 青年はそんなクルトの様子を見て、はっとしたように足を止めた。


「……ああ。すまない――」

 その姿によく似合う、優しい声が降ってきた。

「気分はどうかな? ええっと……クルト君、だったね」 

 クルトはやっぱり、じっと相手を睨んだまま黙っている。

 青年は困ったような顔のまま、少し沈黙した。


「あ、その……。一応、『治癒』の魔法は施したんだけれどね。どこか、まだつらいところはないかな。アルベルティーナ様から、よくよく治してやって欲しいと、重々お願いされているからね」

「え、……ニーナ、さん……?」

 クルトがぴくりとその名に反応したのを見て、青年は少し微笑んだ。

「ああ、うん。君は『ニーナさん』とお呼びしているんだったね」


(ま、まさか……!)


 途端、クルトの胸がどくんと跳ねた。

 ここに自分が無事でいる。

 それは、それは、もしかして――。


「ニーナさん、どうなったんだよ? あの箱みたいなのから、ニーナさんも出してくれた?」

 相手に突っかかるようにして、クルトは叫んだ。

「俺だけ助けてなんて、頼んでねえよ! ニーナさん、どうなったんだよっ……!」

 青年は、はっきりと怒りをあらわにしたクルトを前に、悲しげな目をしただけだった。

「済まない。姫様はまだ、あのままあそこにいらっしゃるよ。まだ、殿下のお許しが出ないからね……」

「え……」


 ということは、ニーナはまだ、アレクシスのあの無茶な「要求」にこたえてはいないのか。

 クルトはちょっとほっとして、すとんと寝台に座りなおしたが、青年の言葉の一部にひっかかって、相手をまたじろじろ見やった。


(『殿下』……って言ったよな? こいつ、一体――)


 怪訝な目になったクルトを見ながら、青年は改めて居住まいを正したようだった。

「わたしは、ヴァイス。火竜国ニーダーブレンネンの王太子、アレクシス殿下にお仕えしている、文官の一人だよ」


(ヴァイス……?)


 それは、この地にあっては単純に「白」を意味する言葉である。

 確かにこの青年は、ぱっと見たところその美しい絹のような髪色や色白の肌のため、そういう印象が強いけれど。

 でもそれは、普通、犬や猫や鳥といった、愛玩動物にでもつけるような名前ではないのだろうか。

 少なくとも、こんな立派な身なりをした美しい人が使うような名ではない。

 そういえば、前に聞いたニーナの昔話の中に、そんな名の少年のことがあったような気もするけれど。


「殿下のご命令により、君の命が危うくなったので、一旦こちらへ移させてもらったんだよ。『治癒』の魔法の使用についても、殿下のお許しがあればこそだ。……まあもちろん、それで『感謝してくれ』なんて言える立場ではないんだけれどね」

「え? って、あんたが……?」


 クルトは思わず聞き返した。

 さも簡単そうに言ってはいるが、「治癒」というのはそんなに単純な魔法ではないはずだ。竜の姿のニーナ自身と、水竜の魔法が得意とする分野の魔法ではあるけれど、他国の術者がおいそれと身につけられるような韻律ではないと聞いている。

 しかし、青年は少し笑って、ごく謙虚な様子でこう言っただけだった。

「ああ、うん。少し、書物で勉強したものだからね――」


(なんだろ……この人。)


 クルトはなんだか、肩透かしを食らったような気になって首をかしげた。

 火竜の国に仕える人で、しかもあのアレクシスの臣下だというなら、明らかにニーナやレオン、そして自分の敵にあたる人だろうに。

 どうしてこの人からは、欠片かけらの敵意も感じられないのだろう。


「……それはそうと」

 変な顔になってしまったクルトを見やって、青年はふわりと微笑んだ。

 間違いなく男だというのに、それはクルトでさえどきりとするぐらい、とても綺麗な笑顔だった。

「お腹は減っていないかな? なにしろ、君と姫君があの『風竜の魔女』殿にこちらに連れてこられてから、丸三日も経っている。アルベルティーナ様がずっとお守りされ、力を分け与えておいでだったようだけれど、それでもお腹はすいたのでは……?」

「……!」


 そんなことを言われた途端、クルトは急に、自分のお腹がせつない音を立て始めたのに気付いて、かあっと耳が熱くなった。

 いやもう、体というのは正直だ。


(ちっくしょ……!)


 かっこ悪いこと、この上もない。

 クルトは必死で、自分の腹を両手で押さえて俯いた。

 恥ずかしくてしょうがなくて、奥歯を噛み締める。


「……ふふ」


 ヴァイスと名乗った青年は、そんなクルトを見て優しく笑うと、持ってきた盆を取り上げて、すいとクルトに差し出した。

 青年が、そこに掛けられていた布をそうっと取ると、雑穀を柔らかく煮た粥のようなものが、うまそうな湯気をたてていた。


「さあ、どうぞ。遠慮なく召し上がれ。……なんだったら、わたしが毒見をするからね」

 青年はそう言って、クルトがまだ何も言わないうちに、粥をひと匙すくって自分の口に入れて見せた。

「…………」


 クルトは恐る恐る盆を受け取って、青年のほうを何度もちらちら見ながら、自分もひと匙すくって口に入れてみたのだったが。

「あちっ……!」

 粥は思った以上に熱いままで、クルトは危うく、盆ごと全部を取り落としてしまいそうになった。すかさず、ぱっと青年の手が助けてくれた。


「ほらほら。そんなに慌てると火傷をするよ。ふうふうしてあげようか」


 青年が側にあった椅子を引き寄せて腰掛け、にこやかに微笑みながらそんなことを言うものだから、クルトはさらに慌ててしまった。

 どうも、この人の姿は目の毒である。

 と言うか、男の姿にどきどきする自分も、どうかしてるんじゃないかと思う。

 なんだか調子が狂いっぱなしだ。


「いっ、いいよっ! かあちゃんか、あんた……!」


 そう言ったら、彼はちょっと目を丸くして、きょとんとクルトを見返した。

 そして次には、さも楽しげにくすくす笑いだしたのだった。


「……お母さんか。面白いこと言うね、君」


 そうやって、にこにこ楽しそうに見つめてくる美青年の視線に晒されながら、クルトはどうにかこうにか、出された食事を平らげたのだった。


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