第14話 稲妻の峡谷 ※


稲妻の峡谷ブリッツ・シュルフト」は、雷竜国ドンナーシュラークの中央部からやや南に位置する、守護竜を祀る聖なる神域、かつ禁足地である。

 そこは深い地溝帯となっており、黄味を帯びた土ばかりの荒地を走るその溝が、ちょうど稲妻のような形で大地を引き裂くように走っている。

 その中央部は、崖の縁からのぞいてみても、決して底の知れないような深く暗い奈落に沈んでいる。


 雷の守護竜は、そこにおわすのだというのが、古来よりの民たちの信仰なのだ。


 いま、雷竜王エドヴァルトは、供の近衛兵一個中隊を引き連れて、この禁足地へとやってきている。

 実のところ、「火竜の眷属」に変化へんげしたというあの火竜の王太子アレクシスの暴挙によって、雷竜国の西方、火竜国ニーダーブレンネンとの国境では、今まさに領土防衛戦の行なわれている真っ最中でもあるのだったが。

 ともあれ幸いにも、優秀な人材ぞろいの将軍らに任せておけば、そちらについては深くこちらの領土に切り込まれると危惧するほどの材料はなかった。


 いずれにしても、いくら眷属が顕現して火竜の力が強まったとはいえ、そうまで深く侵攻できるほどに雷竜神の力が押し込まれることはないはずなのだ。五竜の力の均衡とは、それだけゆるぎのないものである。

 それで国王たる自分はどうにか、あとのことを宰相らに任せ、こちらへやってくることも可能だったわけだ。

 それにしても。


(どこにおるんや……ティルデ)


 勿論、王妃を探すための兵らは出して、自分は峡谷からやや離れた地点に野営をしている状態なのだが、この普段は豪胆、かつ陽気な男であっても、さすがに焦慮は隠せない。

 いつもはちょっとやかましすぎるほどに明朗、闊達なこの王が、いつになく静かに野営用の簡易椅子に沈みこんで物思いに耽っている。

 そんな様子に、側近である老ヤーコブでさえ、彼を慰める言葉も見出せず、困ったように口をつぐんでうなだれ、立ち尽くすばかりだった。


(実の妹、うしのうた上、お前まで亡くすんかい? ワシは――)


 水竜王からの知らせによれば、なんとわが妹ブリュンヒルデが、国と王女アルベルティーナを守らんがため、水の守護竜神への「祈願の儀式」に臨んだという。

 ちなみにこの知らせは、ミロスラフ王の判断により、彼の手下てかである風の魔法に通じた魔法官によって、瞬時のうちにエドヴァルトのもとに届けられた。

 非常な急を要する書簡の場合、両王はこの方法で情報のやりとりをすることで合意している。無論、他国に対しては極秘の約定だ。


 そうでなくともかの水竜国から帰国してからずっと塞ぎこみ、青白い顔をしてやせ細るばかりだった妻ティルデは、その知らせを受けたとき、まさにその場で卒倒した。

 そして、意識を取り戻した途端、今度は気が狂ったようにして、「それでしたらわたくしも」とばかり、城を飛び出していってしまったのだ。

 いや、もちろんエドヴァルトも、妻がそうした突発的な行動をすることは前々から危惧していたし、目立たぬように監視の者もつけてはいた。


 しかし、エドヴァルトは失念していたのだ。

 妻、ティルデも、もとは風竜国の王族だったということを。

 かの国の風の魔法は、空間を易々と飛び越えることが可能なのだ……!


(まあそら……気持ちはわかるんやで? けどなあ……)


 妻が、故国でつらい思いをしているという、縁故のある貴族の娘を手許に引き取りたいと言い出したのは、三年ばかり前である。

 ミカエラという名のその娘は、ティルデと同じ黒髪をした、それは美しい少女だった。

 しかし、その顔をひと目見たとき、エドヴァルトは心胆がわずかにひやりとしたことを覚えている。やはりあの時、自分は己の、人を見る目を信ずるべきだったのであろう。


(やっぱあのお嬢ちゃんは、引き入れたらアカン子やったな――)


 自分の惚れ抜いている、あの可愛い正妃ティルデのたっての願いであればこそ、「まあ侍女にするぐらいのことなら」と、快諾した自分が恨めしい。

 とはいえ、覆水は盆に返らぬものだ。

 千里を見通す目などない、神ならざる身にできることは、ただ、今をどうするか、これから先をどうするか、つまりはそれしかないわけだから。


(これまで、どんな恨みつらみがあったかは知らんけど。『それに拘っとったかて、アンタ幸せにはなれへんで〜』って、なんべんも言うたったんやけどもなあ……)


 ちょっと、ぽりぽりと顎を掻く。

 もちろん、面と向かって言いはしない。

 しかし、ティルデを交えて食事をするとき、散策や別荘地への小旅行に出るときなどに、王妃についてきていた黒髪の少女に対して、エドヴァルトは土地とちの文化に触れさせ、その土地ならではの景色や食事なども王妃と共に楽しませてきた。


 それぞれの土地に暮らす、貧しい人々や商業ギルドのおさたちとの交わりの席にも連れて行き、彼らの話すことも敢えて隣で聞かせてもきた。

 貧しい中、苦しい中でも、人々は精一杯に生きている。生まれた場所、置かれた場所で、彼らなりに必死に、それぞれの幸せを探して生きているのだと。

 そうやって彼なりに、あの少女には「世の中、もっとずっと広いんやで。人生、そない捨てたもんちゃう。悪いことばっかとちゃうで」と、様々に見せてやってきたつもりだったのだが。


 恨みと執着に凝り固まった彼女の心は、やはりどうやっても溶けなかった。


(そんで、とうとう……これやもんなあ。)


 水竜王の書簡には、かの少女がなんと「風竜の眷属」として変化へんげしたとも書いてあった。

 にわかに信じがたいことではあったが、いまこの地には、火竜と風竜、二竜の眷属が顕現してしまっていることになる。

 この恐るべき事態が今後、この五竜大陸にどのように影響するのか。国王たるエドヴァルトは、あらゆることを想定して、様々に手を打っておく必要があるのだった。


 と、急に慌てたような足音がして、王族の天幕の入り口から、斥候に出していた上級将校が入ってきた。

「おお、戻ったか。どうじゃった?」

 はっと姿勢を正してそう訊ねるヤーコブ翁に一礼し、将校は、天幕の奥で椅子に腰掛けているエドヴァルトの前に膝をつくと、低く頭をさげて結果を報告した。


「陛下、近くの村の者らによれば、確かに数日前、王族のものと思われる一隊がこの近くを通ったとの由にございます」

「やっぱりか。ほんで?」

「はっ。……それが、その……」


 兵はそこで言葉を濁し、すこし逡巡するようにして目線を揺らした。


(……あかんかった、か――)


 エドヴァルトは、そこで概ね、その後の兵士の報告の予測をつけ、かつ覚悟を決めた。勿論、ここに着くまでに、ある程度の覚悟はし終えている。

 隣に立つ老ヤーコブが、目ざとくそんなエドヴァルトの表情を見て取って、気の毒げな顔になって黙り込んだ。


「構わへんよ。そのまんま言うてくれ」


 ごく穏やかな声と目で、そう促す。

「……は」

 兵はさらに頭を下げて、それでも言いにくそうにやっと言った。


「王妃様は、この峡谷の底まで通じる抜け穴を案内する村人を募られて、そのままお姿が見えなくなったと……。その後まもなくして、夜中に不思議な地鳴りがあり、天気のよい夜だったにも関わらず、このあたりに凄まじい稲光が見え、轟音が聞こえたとのことでございました……」

「…………」


 天幕の中に、重い沈黙が流れた。

 ヤーコブが心配げな眼でそっと彼のあるじを見やる。エドヴァルトは、老人の視線を感じながら、静かに先を促した。


「……ほんで」

「は……。案内の村人によりますと、やはり王妃さまは『祈願の儀式』に臨まれたようでございます。その後、王妃さまのお姿は見えなくなり、お付きの者らだけが戻って、彼らもいずれかへ姿を消したと――」

「…………」


 エドヴァルトは、黙って二、三度頷くと、将校を下がらせた。

 そうしてしばし、ただ沈黙して目元を押さえ、うなだれていた。


「ううっ……」

 隣から、遂に我慢しきれなくなったような老人の嗚咽が聞こえて、エドヴァルトは目を上げた。

 見ればもう、老人はぼとぼと涙をこぼしていた。

「も、……申し訳ござりませぬ。と、年寄りというものは、た、ただでさえ涙腺のゆるいものにござりますれば。お、お許しを……っ」

 エドヴァルトは真っ赤な目をしたまま、黙ってそんな老人を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。


「……いんや。おおきにな、ヤーコブ」


 それでもう、老人の涙腺は本格的に決壊してしまった。

 天幕の中には、「申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬ……」という声とともに、しばらくヤーコブ翁のおんおんという号泣と、嗚咽の声が響いた。


 しかし。

 雷竜国の国王に、愛する王妃を悼み悲しむための時間は、さほど取らせては貰えなかった。

 先ほど出て行ったばかりの将校が、血相を変えてすぐに飛び込んできたからである。


「陛下! 陛下……! に、西から何か、……何かが来ます!」





 兵らの声に促され、ヤーコブと共に天幕の外へ出たエドヴァルトは、さすがに度肝を抜かれた。


 兵らの言うとおりだった。

 はるか西方の彼方から、空を大きな影が飛んでくるのが見えたのだ。

 その影は非常に大きく、そう、ひとつの町を飲み込むぐらいの巨体だった。

 やや斜めに傾いた日差しを受けて、近づいてくるにつれ、その体が銀色に光っているのが観察できた。


「お、……おおお……!」


 それがいったいなんであるかが分かるにつれて、屈強の精兵である近衛の兵らですら、さすがにどよめきを抑えられない様子だった。

 それも無理はない。


 全身を銀鱗に覆われた、つややかな巨体。長くしなやかな尾。

 青瑪瑙よりも深い、金の虹彩を湛えた瞳。

 巨大な口にはずらりと牙が並んでおり、背中には優美な形の背びれがならび、さらに蝙蝠のような皮膜を纏った翼が優美な曲線をえがいて広げられている。

 それは堂々とした、そして静謐な姿だった。


「竜だ……」

「竜……!」


 兵らは口々にそう言うと、慌てて剣を抜きつれたり、弓矢を射る準備を始めた。

 巨大な白銀の竜は、明らかにこちらを目指して飛んできている。


「ひゃああっ……!」

 老ヤーコブはもう肝を潰して、その場でへなへなとへたりこんでしまった。どうやら腰が抜けたらしい。

「おう、しっかりせんかい、ヤーコブ!」

 エドヴァルトは仕方なく、必死に固辞する老人の腕を取って、強引に肩を貸した。


「戦闘準備! 陛下をお守りせよ……!」


 近衛隊の隊長が、まだ呆然としている兵らを叱咤し、エドヴァルトの側まで来て「どうか、お下がりを」と必死の形相で頼んでくる。

 しかし。


「あれ、なんや……?」


 エドヴァルトは、まるで空を滑空するかのように、ほとんど羽ばたきもせずに飛んでくるその竜の手許をじっと見つめた。

 竜は風を力任せに掴んで飛ぶというより、その魔力によって飛ぶ。


「なんか持っとる、あの竜……」


 その通りだった。

 その白い竜はなにか、とても大切なものを抱えるかのようにして、その黒いものを抱いていた。


 やがて竜は、その黒いものを抱いたまま、その巨体でありながら、体重などまるでないかと思うほどに静かに、エドヴァルトたちの野営地のまん前に降り立った。

 最後の翼のひとかきで、ぶおん、と周囲に土煙があがる。


「弓矢、構えェ――!」

 近衛隊の隊長のその声を、エドヴァルトは大声をあげて遮った。

「あかん! やめェ! 撃ったらあかん……!」


 少なくとも、今のこの竜はこちらを害する様子がまるでない。下手に手出しなどして怒らせたら、それこそここにいる一個中隊などあっというまに蒸発させられるに決まっている。むしろここは、刺激しないのが一番の得策だろう。


 しかし、当の竜は周囲の人間たちの様子などまるで目にも入っていない様子だった。

 エドヴァルトたちがしばらく息を殺して見ていると、竜はややふらふらと巨体を揺らしたようだった。

 そして、そう思った次の瞬間、ぐらりと体を傾けた。


(あ、……あぶなっ……!)


 思わず目をつぶった時にはもう、竜は彼らの目の前で、ずどぉん、と凄まじい地響きとともにその場に横倒しに倒れてしまった。

 それでも、手に抱いているその黒いものだけは大事に庇う様子に見えたのは、エドヴァルトの気のせいではなかっただろう。


「うわああ!」

「退避、退避――!」


 竜が倒れた拍子に、自分たちのいるほうにその長い尾がはね飛んできた将兵らは、慌ててその場から逃げ散った。その尾だけでも、大の男が二十人で抱え込めるかどうかという太さだった。

 自分の巨体で巻き上げた乾いた土ぼこりの中で、横倒しになったままぴくりとも動かなくなった竜を、兵らもエドヴァルトも、しばし遠巻きにし、固唾を呑んで見守っていた。


 と、急にその姿が白く光り輝き始めたかと思うと、大きな影がすうっと小さくまとまりはじめ、やがて竜の姿はその場からかき消えて見えなくなった。


(な、……なんや……?)


 狐につままれたような顔で、将兵らも互いの顔を見合わせている。

 そのうち、光の消えたあとの地面に、何かが倒れているのに気がついた。


(あれは――)


 その時、エドヴァルトは彼らの姿を見ただけで、これまでに起こったことの多くを瞬時に理解した。


「な、……なんと……!」

 肩を貸してやっているヤーコブ翁が、かすれきった声でそう言った。


 黄土色に煤けたような地面の上に、傷つき、醜く片目を潰された黒馬の首にしがみ付くようにして、隣国、水竜の美しい姫が、気を失って倒れていた。


 その娘の首からは、小さな見慣れぬ革袋がさがっていた。

 それは動かぬ主人の胸元で、乾いた風になぶられて、ただ静かに揺れていた。




◆◆◆




 暗い廊下を、ひたひたと歩く音がする。


 壁に掛けられた小さなランプ程度では、隅々まで明るくするには及ばない。

 風竜国の、とある貴族の館である。

 女は勝手知ったる足取りで、どんどん求める部屋を目指す。


 向かいから、下働きの者らしい中年男が歩いてきた。

 しかし彼は、女の姿には気付かぬ様子ですれ違ってゆくだけだ。


 女の魔法は、人の視覚を操作できる。

 いまの彼女は、空気に変わらぬ存在だ。

 風とはつまり、空気を支配する属性だから。


 目的の部屋の大扉をそっと開けると、部屋のあるじはとうに就寝中だった。

 豪華な天蓋から薄絹の下がった大きな寝台。

 ふかふかの羽根枕に頭をうずめて、安らかな寝息をたてる、その男。


 薄汚いにきびづらも、品のない相貌も相変わらずだ。

 汚らわしいこの男を、何度、こま切れにしてやりたいと願ったことか。

 しかし、今回は残念ながら、あまり不自然な死なせ方をするわけにはいかない。


 女は冷ややかな菫色の瞳の中央に、金色の細長い窓を開いた。

 ぐっと腕を突き出して、男の喉もとに狙いを定める。


(……死ぬがいいわ)


 そう、せいぜい苦しむがいい。

 それでもあの時、自分にしたことの万分の一にも満たない苦しみだ。


 手のひらに魔力を集中させると、男が急に「がっ」と苦しげに喉に手をやった。

 次には目を見開き、「あが、が」とそこを掻き毟りはじめる。

 少し手を緩めて、男が目を覚まし、こちらを見る余裕を与えてやった。


「お、おま……え」


 男がきちんと、誰に殺されようとしているのかを認識させ、にたりと笑って見せる。


(……そうよ。わたくしよ)


 そして、男がもう二度と声を上げられないよう、またぎゅっと込める魔力を強化する。


「ぎゅふ、……ふぐうっ」


 男が豚のような声をあげ、醜い顔が赤黒くなってさらに醜くなってゆくのを、心ゆくまで楽しんだ。

 やがて、男がこと切れるまでの時間をゆっくりと過ごしてから、女は何ごともなかったかのような軽い足取りでその屋敷をあとにした。



 月が煌々と輝いている。

 それは、涼やかに美しかった。

 久しぶりに見る、故国の月だ。


 それはまるで、

 自分がこの国で始める仕事の最初の一歩を、寿ことほぐように思われた。


 女は竜の印を浮かべた菫の瞳に、その姿を映してにっこり笑った。


「待っていて……レオンハルト」


 愛するあなたのために、きっときっと、やり遂げてみせる。



 復讐はまだ、始まったばかりだ。

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